第7話 注目しろ

 金さえあれば、なにも嫌な職場でストレスを抱えて働くことはない。

 誰もが当然とわかっていることであり、だが、当然として現実は金に余裕がない。


 哲人は考えた。

 前例の“1分以内に1000円札を拾う”は叶わなかった。

 そもそも1分以内という制限が非現実的すぎたのか。あるいは、自身の部屋で落ちているはずもない1000円札というキーワードがよくなかったのか。

 ――あるいは、自身の行動が関与するものに対しては否定がなされるのか。


 現に吉川・水野・大友、それに結花に願った思いというのは、哲人自身が行動を起こさずして叶えられたもの。


「ものは試しか」


“1分以内にリビングでお袋が1000円札を拾う”


 時間制限があるのか。まずはそこから。

 デジタル時計の秒数の動きを追う。

 60秒間、彼は片時も目を離さずにその時を待った。


 部屋を出て階段を下りる。

 母から喜びの声はあがってはいない。

 もしや、またしても思いは叶わなかったのか。

 哲人は半ば肩透かしを食らいながらリビングへと顔を出す。


「ねぇ見て。ソファの下からコレが出てきたんだけど」


 紛れもなく奈津美が手に持っていたのは埃のかぶった1000円札であった。


「お父さんが落としたのかな? でも、これは拾った私のものよね」


 喜ぶ母の姿を目に映し、息子は微笑んだ。

 無論、彼の本当の気持ちになど奈津美は気付かない。



――――――――――――――


 なるほど。時間制限はないようだ。

 であれば、次は非現実的なことを思えば叶うのか。

 今回の場合でいえば、1000円札が100万円の束なら? という置き換えをしてみる。

 裕福な家庭でない河村家の中で、100万が拾われることはまず間違いなくありえないわけだが、果たして。


“1分以内にリビングでお袋が100万円を拾う”


 哲人はあえてリビングから立ち去ることにする。

 己の目に映らない場所でしか叶えられない。――そういった可能性も無きにしも非ず。むしろ今までのことを考えると高い可能性である。


 1分経過後にリビングへと戻る。

 母、奈津美の姿を見て彼は大きく溜息を吐く。

 さすがに無理があった思い。

 奈津美は未だに1000円札に付着した埃を取り除いていただけだった。


 非現実的なことは起こりえない。

 なるほど。


(だが、非現実と現実の境界線はどこに引かれる? 100万であれば、金持ちの家では現実に起こり得るかもしれないじゃないか)


 そう文句を言いたくなる気持ちもあった哲人だったが、はは~んとこの不思議な力について理解が追いつく。


(あくまでも河村哲人の私生活において現実的かどうかって話か? これまたあらゆることを試して確認すべきだな)


 今回の実験でわかったことは、先短い未来でさえ叶えることができるということ。

 そして、それは河村哲人にとって現実的な設定でないと反映されないということ。

 この2点を通じて、哲人はいよいよ外の世界で試してみることにする。


「わるい、今日は飯いらない」

「まーた、アンタは突然に!」

「だから謝ってんだろ」

「友達のいないアンタが泊まり? お店は少しの間、休業になったんでしょ?」

「……まぁ」

「ちゃんとどこに行くのか教えなさい。なにかあったら、連絡も取らないとだし」


(あ~めんどくせぇ。俺もいい大人なんだぞ? わざわざどこに行くのか教えなきゃいけねぇのかよ)


 鬱蒼とする気持ちが強まり、彼は無意識の内に心の中で思うのであった。


“もう俺について干渉しないでくれ”




 平日の昼。営業で外回りをするスーツ姿のサラリーマンに学校をサボって遊びに回る制服を着た女子高生たち。洒落たファッションに身を纏った若い男女に、写真をパシャパシャと撮る異国の旅行者たち。


 渋谷のスクランブル交差点。

 ここには多くの人間が集まり、哲人の実験の場としてはこれ以上相応しい場所はなかった。


(さて、何から始めたらいいものか)


 今のところわかっているのは、現実的であるという点。時間に関する制限についてはまだ不明確な点が多い。

 たとえば24時間後、1週間後、1年後と、どこまで効果が出るのかというところも知る必要がある。

 それに1000円札の件から得て知ったのは、その効力は自身ではなく、相手に影響することで叶えられる可能性が高いということだ。


(まずは手始めに)


 哲人はスクランブル交差点の信号を待ちながら思った。


“ここにいる多くの人間よ、俺に注目をしろ”


 彼が知りたかったことの1つ。

 それは不特定多数の人間に対しても効力が及ぶのかどうかということ。


 普通、芸能人でもない一般人に多くの人が注目するはずもない。これを非現実と呼ぶのかという疑問を払拭するにもいいだとおもった。


 1分、2分と待つ。

 信号の色が切り替わり、哲人だけが行き交う人々の中でポツリと佇む。


(時間を指定するべきだったか)


 だがものは考えはようだ。

 対象者“ここにいる多くの人間”。

 つまり、自分がここから立ち去ろうとすれば、はすぐに起こるはずである。


 哲人は渋谷駅方面へと歩き出す。

 するとその直後、「キャーーー!」と、群衆の中から大きくて甲高い悲鳴が突如と空に響き、彼はその声のほうへと振り返った。


 水中で泳いでいた魚が石を投げられて一斉に解散するかのように、人々はある点を中心に慌てふためき四方八方へと走りだす。


 スクランブル交差点のど真ん中。

 赤い鮮血を浴びた男が、血をドップリと付けた包丁を手に哲人のほうへと顔を向けているのだった。

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