第3話 戻ってこいよ
時刻は20時。
居酒屋にとってピーク時である。
「10卓の唐揚げまだっすか? 結構、待たせちゃっているんで急ぎでお願いしやす!」
佐藤の声がわずかに怒りを含んでいる。
いつだってこの時間帯は皆がピリつく。
三つのコンロをフル回転させても、注文の速さが上回って一向に減りやしない。
「串のほうはどう?」
「問題ないです。これ片したら河村さんのほう手伝いますね」
その中でも三浦はテキパキとこなし、平然としている。
こういう男が出世街道を歩むんだろうな。と、哲人は汗ばむキッチンの中で思った。
プルルルル。
「ミホちゃん、電話とって」
三浦の指示にホール担当だった稲瀬ミホが従う。
受話器の向こうからの言葉に、ミホは困惑しながらも頷く。
「どうした?」
受話器を置いたミホは三浦に向けて渋い表情をした。
「エリア長、来れなくなったらしいです。他店で客と客との暴行事件が起こったそうで、そっちの対応に出ないといけないとかで」
「なんとまぁ」
複雑だった。
エリア長にあれやこれやと小言を受けなくていい嬉しさと、猫の手も借りたいほどのこの状況下。
「しばらく埋まっていることにして、新規を取るのやめようか」
三浦の柔軟な判断に、哲人やミホは賛同する。
佐藤と他アルバイト2人の耳にもその報告が届けられ、ようやくキッチンが落ち着き出したのが21時過ぎのこと。
「いつもより随分と遅くなったけど、休憩を回そうか。河村さん、先に行きます?」
「それじゃ、先に失礼するよ」
若い衆に見送られながら、哲人は奥の従業員部屋と入る。
ぐったり。
ソファに仰向けに倒れた彼は、すぐさまスマートフォンにアラームの設定を仕掛ける。フルタイムでの仕事でないため、休憩時間は15分のみ。このまま寝ないようにと。
「にしても、なんだか変な感じだな」
社員の吉川、店長の水野、エリア長の大友。
こうも立て続けに会いたくない者たちと会わないで済むとは。
随分とラッキーなことで、むしろ気味が悪いほどだ。
(俺が思ったことが叶っているとか? ――な~んて、そんなことあったら最高だな)
哲人は目を瞑った。
今は余計なことを考えず、一秒でも多くリラックスして回復に努めようと。
一日を乗り切った哲人は、今日は真っ直ぐに駅のホームへと向かう。吉川がいないことを考えただけでも随分と気が楽だった。
明日は休み。コンビニで菓子と炭酸ジュースを買い、遅くまで起きて溜めていた動画視聴でもしよう。
そう考えただけで、本日の疲れは幾分かマシになって足が軽くなる。
コンビニで調達した食材の入った袋を手に帰宅する。
家は真っ暗。
すでに両親は眠りに入っており、哲人に気遣いなく電気が消されているのは通例のことだったので、彼も何も気にすることはなかった。
風呂に入って汗を流した彼は、深夜遅くまで起きる気満々であった。
が、風呂上がりの冷たい布団が心地よく、彼は生乾きの髪のまま深い眠りに入ってしまうのであった。
翌日、目を覚ましたときにはカーテンの隙間から陽光が射しこんでいた。
時計の時刻を確認すると、11時を過ぎたあたりだった。
普段なら二度寝するところだが、そんなこんなでグータラをしていれば一瞬で休日は過ぎる。
哲人はこの日、有意義な時間を過ごすべく、眠たい身体に気合を入れて布団を放り投げる。冷たい風が肌に触れ布団にもぐりたい気持ちが襲うが、欲望に負けじと立ち上がって部屋を出た。
二階から一階へと下り、リビングルームへと入る。
妙に静かだ。
すると、ソファに腰掛けている父親の背中を見て、哲人はギョッとする。
「な、なんだよ、親父。いたのかよ」
「哲人……。実は母さんが出ていったようなんだ」
「おいおい。喧嘩でもしたのかよ。珍しい」
「喧嘩なんかしちゃいないさ」
「っておい、それはヤバいだろ……。警察に連絡はしたのか?」
「冷蔵庫にお前の昨晩の飯があっただろう? だからてっきりお前と喧嘩した母さんが怒って出ていったのかと」
あー。昨晩は職場で提供された賄を食べたことで帰宅後は何も口につけずに眠ってしまった。だからといって、それがお気に召さずに出ていったというのだろうか?
「昨晩は会っていないのか?」
「私も帰りが遅かったからな。いつものようにさっさと電気を消されて、母さんが眠っていたものだと思っていたんだ」
「俺も同じだ。とにかくお袋に連絡は入れたのかよ」
「電話を入れても出ないし、メッセージを送っても既読にはならないし」
「悠希のとこに行ったとか?」
悠希とは哲人と3つ年の離れた弟である。
「もちろん聞いたさ。でも、何も知らないと」
「……いよいよ警察に言わねぇとな」
ここにきて哲人は母親の失踪に危機感を抱く。
なにか事件に巻き込まれたのではないか。
であれば、すぐに警察に介入を頼むべきである。
「そういうことなら、さっさと俺を起こせよな」
「私もさっき起きて、ようやく把握したところなんだ」
父子揃って遅帰宅の遅起き。
これに対して嫌気を差して出ていった線だって考えられる。
いや、むしろそうであってほしいと願う。
“頼むから戻ってこいよ、お袋”
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