第2話 消えてくんねぇかな
翌日、居酒屋“くまんだもん”へと出勤した哲人。
「お疲れ様です」
「おう。ちょっと急いで準備をしてくれ」
店長の水野は険しい顔をして、低いトーンで哲人に促した。
「なにかありました?」
「なにかじゃねぇよ、ったく! 吉川の野郎が突然辞めるって一言だけ連絡しやがってブチりやがったんだよ!」
普段から不機嫌な水野は、今日は増して機嫌が悪い。
本日の仕事場は特に怒号が飛び交いそうだ。
哲人は内心、彼の機嫌の悪さを嫌だなと思いながらも驚きに満ちていた。
吉川が辞めた?
いや、たしかに店への忠義なんてものは微塵も感じなかったが、今日明日とすぐに辞めるようなことは言っていなかったはず。
まさか昨夜の内に転職が決まったなんてことは――もちろんないはずだが。
「正社員としての責任の欠片もねぇ奴だな! 普通、辞めるにしても2週間以上前には言っておくのが常識ってもんだろ!」
水野は怒り任せにフライパンを振って焼き飯を調理をする。
「河村っ。ほら、ボケっとしていないでさっさと支度をしろ! 吉川の穴の分、今日はいつもの二倍頑張ってもらうからな」
土曜日ということもあり、昨夜と比較的客入りは変わらない。
やれやれ。吉川が辞めたのは嬉しいが、こっちに皺寄せがきたんじゃ、それはそれで面倒臭い。
哲人は無心で働こうと思った。
終始イライラする店長の前に、他のアルバイトたちもなんとかこれ以上機嫌を損ねないようにと、普段よりもキビキビと動く。
数が少ない中でなんとか乗り切り、営業終了。
「おう、お疲れさん。明日も頼むわ」
制服を脱ぎ、帰宅しようとしていた哲人の背中を叩く水野。
「え。俺、明日は休みのはずですけど」
「吉川が辞めたんだ。協力してくれよ」
「いやぁ、明日はちょっと……」
「あ? こっちは融通が利く奴だと思って雇ってんだ! じゃなきゃ、お前みたいに社会人経験もろくになく、愛嬌も才能も器用さもない奴を取るわけないだろ。こっちは同情して拾ってやったんだ。少しぐらいは俺や店に貢献しようって思わないのか!」
あまりに理不尽だ。
この現代社会で、まだこんな模範的なパワハラを受けようとは。
”ダメだ。今すぐ辞めたい。それかこの店長、消えてくんねぇかな”
結局、抑圧に負けて明日も出勤することになる。
日曜日。どれだけ寝ても身体の疲労は回復しない。
「あれ? アンタ、今日は休みじゃなかったっけ?」
母親の奈津美が玄関で靴を履く息子の背に気付き質問をする。
「仕事が入った」
「それならそうと、早く言いなさいよ! こっちはアンタのご飯のことまで考えてつくってんのよ! もうっ。今日は鍋にしようと思っていたのに!」
「親父と食っていればいいだろ。俺の分は取り置きしておいてくれたら、勝手に食うし」
「はぁ~あ。はやく、一人立ちしなさいよ。そうしたら、私たち老夫婦は簡単なご飯で済ませるだけでいいのに」
べつに込んだ料理なんて頼んじゃいない。
あー。うざい。
「いつまでも親は生きていないんだからね!」
どうしてわかりきったことを態々言うんだ。
ただでさえ、こっちは休みだと思った日に仕事を入れられて怒りを覚えているというのに。
「返事は!」
ガミガミとうるせぇな。
“ッチ。こいつも消えてくんねぇかな”
――――――――――――――
“くまんだもん”への出勤。
億劫な時間が始まる。
哲人は「はぁ~」と深い息を吐き出し、従業員出入口である引き戸を開ける。
「おつかれさまで~す」
普段から誰かから声が返ってくることはない。
もしかしたら、今頃は若い連中らが自分のことを小馬鹿にして笑いの種にしているのではないだろうか。
そんなマイナスな考えが過っただけで、足を進めることに気が重くなる。
「河村さん、大変っすよ」
キッチンから顔をひょこっと出した大学2年生の佐藤が、彼の顔を見るなり、バタバタと駆け寄ってくる。積極的に話しかけてくることはなかったので、哲人は驚き反応に困る。
「えっと、どうしたんですか?」
「それが店長と連絡がつかなくて」
「あれ。今日って出勤でしたよね?」
「そうそう。もしかしたら休みだと勘違いしているのかなって思って、エリアマネージャーに緊急連絡をしたんすよ」
「それで?」
「出ません。もしかして寝ていて気付いていないんすかね」
クスクスと笑う佐藤だったが、それはそれは笑いごとではない。
店長がいなければ、アルバイトたちだけで回さないといけなくなる。
今日に限って、他の社員は休みであった。
「最悪だよ」
キッチンからもう一人顔を出す。
大学4年生の三浦である。
すでに就職先も決まっており、春の入社目前までは“くまんだもん”で働くつもりのようだ。
「どうしたんすか?」
「エリマネが今から来るんだってよ」
「えー。まじっすか」
水野と同等あるいはそれ以上に皆に嫌われているのが、エリアマネージャーである大友である。
哲人もかなり苦手な部類であり、あの普段から機嫌の悪い水野でさえ大友の前では委縮して子犬のようになる。それほど恐い人物なのだ。
「あの人がいるだけで空気が重いんだよな」
「そうっすよね。俺なんか散々トロいって罵倒されましたよ、この間」
哲人も何か事あるごとに叱責を受けた記憶ばかりが蘇る。
“勘弁してくれよ。頼むから来ないでくれ”
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