第38話 ボクが守りたいもの

 カイはリビングのソファに深く腰を下ろし、静かに目を閉じた。先ほどのリサからの電話で説明された「堕天の兆候」の恐ろしさが頭を離れない。


(人類を……何度も滅亡の危機に追い込んだ『堕天』……か)


 そして過去、人類の絶滅を阻止してきたのが0ゼロと呼ばれた人間達で、自身がそのひとりかもしれないと。



 ふと目を開けると、視界に映ったのはキッチンで家事をする母親のフブキと、隣で手際よく料理を手伝うメイの後ろ姿だった。こうやって眺めていると、二人はまるで本当の親子のように見える。


 その光景を眺めながら、カイの胸に一つの記憶が蘇った。




 ——幼い頃、ボクは父親に尋ねたことがある。


 「お父さん、なんで火の中に飛び込むの? 怖くないの?」


 父、佐藤光輝さとうこうきは消防士だった。危険を顧みず、炎の中から人々を救う姿は、幼い自分にとってヒーローのようだったが、同時に不安でもあった。


 「そりゃ怖いさ。でもお父さんは、普通を守るために危険と戦ってるんだよ」


 父のその答えに、ボクは首を傾げた。


 「普通?ってお父さんより大事なの?」


 父は少し驚いたように笑いながら、ボクの頭を撫でた。


 「みんなが普通だと思える世の中が、お父さんの幸せなんだよ」


 その言葉の意味が当時はよくわからなかった。ただ、それが父の信念だったのだということだけは、子どもながらに感じ取っていた。


 そして父は、大火事の現場で子供を救出した後、自らの命を落とした。




 「普通って、なんだろう……」


 カイは呟き、目の前の光景に視線を戻した。


 父の死後、母親はますます仕事に打ち込むようになり、家にいる時間は少なくなった。カイ自身も学校で孤立し、イジメにあい、家庭の温もりを知らずに育った。


 あの頃のカイは、普通の意味なんて考えたこともなかった。

 けれど、今は目の前にこうして笑顔で並ぶ母とメイがいる。

 

 カイにはそれが、父の言う「普通」のように思えた。


 「だったらボクも……普通を守りたい」


 自然と口から漏れたその言葉に、自分でも驚いた。



 そして夕食の時間。


 テーブルにはフブキが用意した料理と、メイの手際の良さが光る副菜が並べられていた。


「ねえ、カイ」


 母親がふとカイを見て声をかける。


「あなた、けっこう背が伸びたわよね? 顔もちょっと大人っぽくなった気がするけど」


 その言葉に、カイは箸を止めて笑った。


「それは、母さんが家に帰ってくるの久しぶりだからじゃないかな」


 すると、メイが控えめながらも、さも当然のような口調で補足する。


「カイ様の身長は、私と出会ってから10.5センチメートル増えています」


「えっ、そんなに?」


 フブキが驚いて笑顔を見せる。


「男の子の成長期ってすごいのね。ねえ、カイ、また最近無理してるんじゃない?なんでもかんでも我慢しちゃだめよ」


「うん、大丈夫だよ」


 カイは、母が自分のことを気にかけてくれるのが嬉しかった。


 だからこそ、自分の身に起こってるすべてを話すことは出来なかった。


 ――カイが12000年の修練を強制されていたあの時間。


 神楽アヤメの分析によれば、その間カイの肉体は成長を止められていたが、現実世界に戻った後、能力に適応する体型へと急速に変化しつつある。それが見た目にも急成長している理由らしい。


 もちろん、事実を母親に説明しても理解してもらえるはずもない。


「それはそうと、私、明日からまた開発に戻らないといけないのよ」


 ふと母親が思い出したように言う。


「しばらく家に帰れなくなるけど、メイちゃんがいるから安心ね」


「はい、フブキお母様。この家とカイ様のことはすべて私にお任せください」


 メイがきっぱりと言い切ると、フブキは嬉しそうに頷いた。


「頼もしいわ! ねえメイちゃん、いっそカイのお嫁さんになってよ」


「ちょ、母さん!?」


 突然の発言に、カイが箸を置いて立ち上がる。しかしメイは真剣な顔でフブキを見つめた。


「お母様が望まれるなら私は……カイ様のお嫁さんになります」


「メイ、普通そういうことは、簡単に決めないんだってば……」


 カイは赤面して反論するが、フブキは面白がる様子で笑っている。メイも表情を崩さず、カイに質問を投げかけた。


「この場合の『普通』とは、どういう状態を指しますか?」


 カイは言葉を失い、再びため息をつく。


「……もういいよ。ボク、寝る」


 そう言い残して席を立ったカイの背中を見送りながら、フブキは笑みを浮かべ、メイも無言で家事を続けた。


 その夜、ベッドに横たわりながら、カイは心の中で呟いた。


「ボクの普通を壊すものは、なんであれ許さない。それが『堕天』だっていうなら……たとえどんな相手でも、やるしかない」


 カイの瞳は、月明かりを反射して鋭い輝きを宿していた。



◇ ◇ ◇


 翌朝。カイはメイと一緒に学校へ向かおうと家を出た。


 柔らかな朝日が差し込む中、カイは通りに広がる静けさの中で何か異変を感じ取った。視線を前に向けたまま、耳を澄ます。風の流れ、街路樹の葉が揺れる音、アスファルトを踏む車輪の微かな振動。その全てが、彼の感覚に情報として入り込む。


 カイは自然な動作で立ち止まり、小声でメイに伝えた。


「メイ、通常より重量の重い車が二台、こっちに向かってきてる。それぞれに二人ずつ乗ってるみたいだ。道の反対側には、こっちを監視してるやつが二人……」


 すると、メイも軽く頷きながら答える。


「はい、気配は察知しています。ただ、敵意は感じません。どうしますか?」


 カイは一瞬考え込むと、周囲の状況をもう一度確認した。視界に不審な動きはない。それでも、この状況が偶然でないことは明らかだった。


「普通にして、様子を見よう」


 二人はそのまま歩き出したが、数十秒後、予感が現実となる。


 黒塗りの車が二台、カイとメイの前後を挟むように停車した。静かな道に突然現れた車の音が、かすかな緊張感を漂わせる。


 前方の車のドアが開き、一人の男性が降りてきた。黒いスーツに身を包み、背筋を伸ばした姿は、明らかにただの通行人ではない。外国人らしき顔立ちに冷静な表情を浮かべながら、カイたちの方へ歩み寄る。


 その瞬間、メイが自然な動きでカイの前に一歩出た。防御の姿勢を取るわけでもなく、だが全身から発せられる気配は、彼女が警戒を緩めていないことを示している。


0ゼロ級のカイさんですね?」


 黒服の男は、威圧感を一切見せずに話しかけてきた。その丁寧な口調に、敵意は感じられない。


「申し訳ないのですが、あなたに会いたい人がいまして、ぜひ一緒にお越しいただきたいのです」


 カイは眉をひそめながら問い返す。


「いったいどこへ?」


 男は少し間を置き、深く一礼して答えた。


「USA大使館です。大使と、USAダンジョン国務長官、そして、USAの0ゼロ級の人物とお会いしていただきたいのです」


 その言葉に、カイは瞬時に思考を巡らせた。0ゼロ級――自分と同じ、あるいはそれ以上の存在が会いたがっている。


 これがたんなる面会でないことは明白だった。


(何が目的だろう……やっぱ『堕天』と関係があるのかな)


 カイはメイと一瞬視線を交わした。


「どうしますか?」メイが尋ねる。


 カイは一瞬迷いながらも、静かに頷いた。


「……とりあえず話を聞こう。それから判断すればいい」


「承知しました」


 メイが再び前に立ち、いつでも対応できるよう警戒を保ちながら、カイに付き従う。


 二人が黒塗りの車に乗り込むと、そのドアが静かに閉じられた。周囲の空気が微かに動き、車が発進する。その中でカイは、心の中で呟いた。


 ——やっぱり何か、普通じゃない事態が、起こっているみたいだな。

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