記憶というものは、その時見たり聴いたり感じたりしたものを、いくら写真や動画に収めたとしても、完璧な形で残せる訳ではない。その時五感と心で感じた経験は、もう二度と味わうことはできない。だからこそ私は、あの頃の記憶が失われていくのが怖い。絶対に忘れたくない大切な思い出が、年を追うごとに遠くへ行ってしまうのが、憂わしくてしょうがないのだ。もしこの世界が、記憶を金庫に入れて、鍵をそっとかけられる世界なら、どんなに嬉しいことか。

 昨日より、自室の棚から、小学一年生の時から去年までの日記帳を出して、古くなった絵画を細い筆で徐々に復元するように、記憶を濃くはっきりと蘇らせようと試みている。やはり日記をつけるのはこういう面でも役に立つらしく、さまざまな出来事を懐古して感傷に浸ることはできた。しかし、記憶は楽しく甘酸っぱいものばかりではない。過去を振り返る時、心の古傷は少々痛むものである。

「ねぇ、蓮」

「どした?」

「私、あなたのこと、好きなんだと思う」

 唇にも似た真紅の薔薇が咲き初める中二の五月。帰り道、蓮と別れる交差点で、私は勢いのままに告白した。臆病な性格の私が何故、こんなにもあっけなく人に好意を伝えられたのかといえば、それはひとえに、居ても立っても居られなかったのである。いつの間にか凜音が彼氏を作っていたことと、蓮に想いを寄せていた自分自身の気持ちに気づかなかったことが、二重螺旋を描き瞬く間に私の心を執拗に攻撃してきたのだ。「今ここで告白しないともうチャンスはない」とさえ思っていたのだから、衝動というのは恐ろしい。

 心がさまざまな色に次々とフラッシュしていくあの感覚は、蛹のような精神を持った中学時代特有のものである。

 あのときめきは、遠くからは儚い青春の一ページに見えるかもしれない。だが、不用意に近づき触るとその蛹の中身が飛び出す。

「え、あ」

 蓮は大層驚いて、絶句した。これは振られるだろう、と私の脳内は満場一致でそう判断した。私は突然我に帰って、「ごめん。告白された側って困るんだよね? ごめん、そういうつもりはないんだけど」と必死に弁明したが、もうあとには引き返せないことを悟り、続けて「でも、好きなのは、ほんとだから。私と付き合って欲しい」とトドメの一撃と言わんばかりにダメ押しした。さながら漫画の世界である。

「えっと、なんていうか」

 蓮の頬が紅くなっていたのは、誰の目から見ても明らかだっただろう。蓮は少し笑って、俯き頭を掻いた。そして「僕も実を言うと」まで言いかけて口籠った。ここから私を振るような文章は思いつかなかったので、私は心の中で「来た」と思った。

「え、なになに、実は?」

 私は柄にもなく、蓮を茶化すように攻める。これが、私のできる最大限のアプローチであり、照れ隠しだった。

「いやちょっと待って、やっぱ恥ずかしい」

 笑い混じりでそう言った蓮が顔を隠す。交差点の信号が赤に変わった。

「そこまで言って後戻りできないよ! 私は私の気持ち言ったし、今度は蓮の番だよ」

「僕の番って、もうオッケーする前提じゃんか」

 蓮はその後もしばらく続きを言い渋っていたが、私が「早く答え言わないと告白撤回するよ」と脅したら、一発で「僕も前から好きでした」と言い放った。

 どうやら蓮は、実に半年前から告白の機会を伺っていたらしい。鈍感な私も私だが、私よりずっと早く自分自身の好意に気づいていたのに、ついこの前自分の気持ちに気づいた私に先に告白された蓮も蓮である。

 かくして私たちは、一年間友達として仲良くしていた実績があったからか、これと言った刺激もなく、円滑な流れで付き合うことになった。クラス内にこのことがバレると確実に学校で過ごしにくくなるため、私はこのことを、翌日の昼休みにこっそり、凜音にだけ報告した。

「え、蓮くんと結月って、もう付き合ってるもんだと思ってた! いいじゃん、お幸せに!」

 凜音はまるで自分のことかのように驚いて、喜んでいた。

「凜音もね」

 すると、彼女は「あ」と、何か思いついた様子で、私の顔をじっと見た。

「あのさ結月」

「なに」

「わたしって誠と付き合ってるじゃん?」

「うん」

「結月は蓮くんと付き合ってるじゃん?」

「うん」

「わたしと結月、誠と蓮くんはそれぞれ友達じゃん?」

「そうだけど、顔近いから」

 凜音は「おっと」と徐々に近づけた顔を引っ込めて、ニヤつき、目を細め、囁くように、言った。

「だからさ、ダブルデートしようよ」

 凜音の提案はいつも突拍子もなく、それでいてパワフルであった。

「ダ、ダブルデート?」

「知らない? 簡単に言えば、わたし達四人でデートするってことよ」

 私と蓮はまだ一度もデートなんてしたことがなかった。なにせ、この前の日に付き合い始めたばかりなのだから。

「いや、名前くらいは知ってますけど、私と蓮はまだ一度も恋人らしいことしたことなくて、ですね」

 不意に変な口調が出た。

「だからこそよ! わたしと誠がきっちりお手本を見せてやるから。それに、心配することないよ。わたしね、結月と一緒にまた遊びたかったんだ。でもどうしても、恋人のこと優先しちゃって。今までごめんね」

 私はこの時、凜音が私のことをずっと考えてくれていたことを知ったと同時に、どうやら凜音と誠さんはかなり親しい仲であったことを察した。

「ううん。ずっと気遣ってくれてたって分かって、嬉しかった。ダブルデート、一緒に行ってみたいな!」

 私はこのあと凜音に、前々から渡そうと思っていた自分の連絡先のIDを渡した。そう。この時期、私の中である種の革命が起きたのだ。それは、スマホの所持である。二年生に進級するタイミングで、母と父が「友達と連絡できないと困るでしょ」と、当時の最新型をくれたのだ。実際、今までお互いの家電で電話するか、携帯ゲームのフレンド欄にある一言メッセージで無理やり連絡をしていたことを考えると、連絡という面においては、農耕を覚えた人類と同じくらいの進歩を遂げたと言えるだろう。

「あれ? 結月ってスマホ持ってたっけ?」

「買ってもらったんだー。あんまり詳しくないんだけど、最新型? らしいよ」

 この日の夜から、凜音、誠さん、蓮、そして私の四人のグループが、スマホを通して出来上がった。

 しかしここで小さな問題が生まれた。凜音と私、蓮と私の組み合わせでは当然話せるのだが、小学三年生の時に知って以来、たまたま覚えていただけの誠さんとはどう接するべきなのか、と言う点である。初対面の男子であることに加え、友達の恋人という絶妙に関わりにくい属性を持った彼と自然に友達になるにはどうしたらいいのか。私は頭を悩ませた。

 が、この心配は杞憂に終わった。トントン拍子で予定が決まったダブルデートの当日、誠さんとは、まるで昔から友達であったかのようにすぐに打ち解けた。それから、私と誠さんと同じ構図である凜音と蓮も、お互いのコミュニケーション能力からか、あっという間に仲良くなっていた。この日はショッピングモール内の映画館に行ってから同施設内のフードコートでご飯を食べて解散する予定だったのだが、服屋でファッションショー紛いのことをしたり、ゲームセンターでクレーンゲーム対決をしたり、日没まで遊び尽くした。私たちの、いわゆる「いつメン」での絆が、ここで生まれた。

 四人でしょっちゅう遊ぶ日々が続いた六月の夜のこと。メッセージアプリのグループルームで、凜音が「みんな夏休み何したい?」と言ってきた。男子二人は、それぞれやりたいこと、行ってみたい所を次々に挙げた。私も、「水族館とか行ってみたいかな」とベタな提案をした。しかし、いくらアイディアはあっても、それぞれのお小遣いは限られている。結局、四人で行く場所は、夏祭り、水族館、そして海の三つに絞られた。小三の時、凜音と計画を立てたあの瞬間と同じときめきを感じながら、私はみんなとメッセージを送り合った。

 迎えた七月。まず水族館に行った私たちは、誠さんの魚に関するうんちくを聞きながらじっくり見て回った。彼は小三の時の研究内容からも分かる通り、生粋の小説好きであるが、本を大量に読む内に自然と身についた知識を共有したくてしょうがないのだ。これを踏まえれば、好奇心旺盛で成績優秀な凜音とくっつくのも合点がいく。他にも、イルカショーで盛大に濡れた顔を見てそっとハンカチを差し出した蓮に改めて惚れてみたり、ワカメは感じで若いに布と書くことを凜音に教わり、こやつは海藻までカバーしているのかと改めて彼女の植物愛に感動したりした記憶がある。

 八月の始め、海に行った。最初は水着をみんなに見せるのが恥ずかしくて着替えを渋っていた私だったが、蓮の「どんな結月も可愛いよ」の一言で百八十度気が変わった。実際、着替えて見せると好評で、つい調子に乗った私は、小さな流木を砂浜に突き立てて、「ビーチフラッグやろうよ!」とみんなに言ったのだが、いざやってみると全敗した。

 夏休み最後の思い出は、やはり夏祭りだった。夕方、四人全員が浴衣姿で集まるという非日常は、並外れた高揚感があった。凜音は最近高めのポニーテールを結っていたが、今日も例外ではなかった。

「みんな似合ってるねぇ」

 両腕を互いの袖に通してそう言った誠さんは、最早文豪のようでもあったが、落ち着いているのは雰囲気だけである。

 縁日は流石に人が多かったが、景色はあの頃より少し高く、屋台がよく見える。

 私も男子組も、どこに行くか迷いながらうろうろしていると、誠さんが自信ありげに言った。

「よし! 射的対決でもやるか」

「お、いいね。誠射的得意だったっけ?」

 誠さんがそう聞くと、誠さんは「蓮よりはね」と笑顔で言い放つ。

「言ってくれるじゃない」

「おっと。やれるものならやってみろ」

 凜音は二人の言い争いという名のじゃれ合いを見ながら、「あいつらはあいつらで盛り上がってるっぽいし、わたしたちはわたしたちでやろうか」と、私の顔を見た。

 というわけで、次の目当ては射的屋で決定した。

「お、ねぇちゃん達。ダブルデートっちゅうやつか?」

 射的屋の親父は五年前とは違う人だったが、屋台の親父というものは決まって陽気だ。

 私は凜音の横、一番右端に立って、コルクを銃口に込める。

「なーんか、昔のこと思い出すね」

 凜音は振り向き、彼女の水色のシュシュをぼんやりと眺めていた私に微笑んだ。

「あの時はなんにも取れなかったけどねー」

 私も凜音も、さながら射撃訓練に勤しむ兵隊の如く、コルク銃を構える。すると、ふと静寂が訪れたような感覚に陥った。

「ねぇ結月」

「なに」

 構えたまま私たちは言葉を交わす。

「あれから夢、見つかった?」

 刹那、凜音の銃からコルクが勢いよく飛び出した。

 小学生の頃からずっと、私は凜音と夢を探していた。それなのに、なんの成果もないまま暗闇をだらだらと歩いている自分に、喝を入れられたような気がして、引き金を引く指が一瞬、固まった。

「あちゃー、やっちゃった。景品に当たってすらないよ。結月、あんたも早く撃っちゃいな」

 外したくせに口笛を吹いて得意げな顔をする彼女は、凄腕ガンマンのなり損ないである。

「分かってる」

 直後、続けて私も撃ったが、案の定外した。チャンスはあと二回。再び腰を低くして、引き金に指を添える。

「誠はね、作家になりたいんだってさ」

「そっか。誠さんらしいね。凜音は?」

「わたしは、変わって、ないっ!」

 言葉と共に射出された凜音のコルクは、クマのぬいぐるみめがけて進み、左目に当たってコルクだけ地面に落ちた。

「手強いなぁジャックちゃん」

「てか、もう名前付けてるし。でもあんなの取れないよ」

「いや、今のでちょっとズレた。次でいける」

 変わってない。そう。凜音はずっと変わってなかった。それは私も一緒。だけど、私と違って凜音は、最初から射的のコルクと同じくらい、真っ直ぐ前だけを見ていた。

「結月! 凜音もあのぬいぐるみ、狙おうよ。一緒に倒そ」

「え、それってありなのかなぁ」

「バレないって」

 できることなら、夢も凜音と一緒がいい。二人で目指すものは、一つでありたい。そう思っていた。でも、凜音は勝手に突き進んでいく。だから、「待って、私も連れて行って」なんて、言えるわけなかった。

「さっきの答え、言ってなかったね。私、まだなんも決まってないよ。将来の夢」

「ふーん。なーんか怪しい。結月、どっか遠慮してんじゃない?」

 内臓全体が締め付けられるような、そんな感覚を覚えた。凜音はいつも、お見通し。

「よし、せーので撃つよ」

「うん」

 私は頷いて答えた。

「せーのっ!」

 コルクはそれぞれぬいぐるみの右目と左足に命中したが、倒れることはなかった。

「私、もう一発残ってるから、やってみる」

「結月、ファイトー!」

 凜音を横目に、私は意識を両手に集中させ、コルクをクマのぬいぐるみに放った。

 ジャックという名のそれは、少しふらついたのち、見事に倒れ、そのまま地面に落ちた。

「おー!やったじゃん結月!」

 私は反射的に、凜音が掲げた両の手を迎えるようにハイタッチした。

「お。ねぇちゃん、漁夫の利ってやつだなぁ? はっはっ! あい、こいつはねぇちゃんのもんだ!」

 今の今までよそ見をしていた射的屋の親父は、ジャックを私に差し出した。

「あれ? いつの間に! 結月すご。お手柄じゃん」

「結月さんやるなぁ」

 隣で白熱した射的対決を繰り広げていた男子組も、私の持っているものに気付いた。

「ありがとうございます! やった! ほんとに取れた!」

 私は幼児のように凜音と笑い合った。同時に、これが私の求めていた感覚なのだと、軽やかな気分になった。

 あの夏の日々は、咲いたばかりのクチナシが甘い匂いを周囲に振り撒くかのように、多幸感に満ち溢れていた。しかし、そのクチナシはやがて、強風に煽られ瞬く間に散っていくのだった。

 こうやって過ぎ去った時間という名のフィルムを脳内の映写機に入れ、ハンドルを回して思い返すと、やはりここで、上映は止まるものなのだということを思い知らされる。ここからの出来事は、向き合うのに少々勇気がいる。

 紅葉が見頃を迎えた十一月のある朝。誠さんから借りた小説を自分の席で読んでいた私に、蓮が話しかけてきた。

「なぁ結月、一応確認としてなんだけど、結月の誕生日って来月の一日だよね?」

「そうだけど」

 私の誕生日はクリスマスと同じ月なので、よくプレゼントが一緒くたにされるなど損な目に遭ってきた。

「だよね。そこでなんだけど、四人で誕生日会、やらない?」

「いいの? 嬉しい! けどやっぱりそういうことは事前に言うのね」

「う、うん。でもそこ、突かないで欲しかったなぁ」

 蓮は出会った時からサプライズの類いが下手くそ、というより、いつも予定通り行っていないと不安になる性分らしく、今回も例によって私に予約を取ってきたので、ちょっと面白がっていじってみた。

 そんなわけで、私の誕生日会が蓮の家で行われることとなった。それからというもの、校庭の桜の葉は徐々に少なくなっていったが、私の期待は日毎に増大していったのだった。

 そして、十二月一日。

 平日のこの日は生憎の天気で、私は傘をさし一人相澤宅へ向かっていた。他の三人は既に集まっているらしく、どうやら何か企んでいそうな雰囲気を醸し出している。私の指摘が響いたんだろうか。

「あーさむ」

 そんな独り言を発して、わざと白い息を吐いた。太陽は十七時の時点で完全に落ち、車の四輪で水たまりを切る音が、寒さを助長していた。

 あの時の私は、まさかあんなことが起こるなんて、思いもしなかった。悲しみというものは、身構えられないものである。もしこの時の杉野結月に戻って、もう一度あの事件を経験したとしても、私はまた絶望してしまうだろう。たとえ事前に知っていても、悲しみは避けることができない。

 映写機の手は止まり、水たまりを踏む私の歩みも、降りしきる雨の粒も動かなくなった。もちろん、上映をここで止めることもできる。だが、静止した過去の時をもう一度進めることは、私が乗り越えなければならない大切な行為だと、私は信じたい。

 だから凜音、ごめんね。

「え」

 前方に交差点が見えた。学校から帰る途中に蓮と別れる、いつもの交差点。

 ただいつもと違うのは、正面に鼻先が崩れた一台のボックスカーと、赤い警告灯が絶えず回転する救急車、そして原型を留めていないほどに前方が変形した、一台の水色の自転車の存在だった。

「何? 事故?」

 私は傘をさしたまま思わず走った。ぼんやりと、見覚えのある人物の姿が見えたからだ。

 まさか、まさかそんなことがあるはずない。私はそう信じて走ったつもりだった。しかしそれは、根拠のないただの淡い期待だったのかもしれない。

「すみません、ここで何があったんですか?」

 久しぶりに疾走した私は、息を切らし、立って忙しそうに話をするその人物に聞いた。辺りを見回すと、ざわめく大人たちが交差点の四角に立ち尽くしていた。

「結月ちゃん!」

 既視感を覚えたシルエットの正体は、凜音の母親だった。

「結月ちゃん、凜音が、凜音がね」

 今にも泣き崩れそうな凜音の母親は、最早これ以上何かを言えるような精神状態には見えなかった。私はただ、今起こった状況を認識することで精一杯だった。

 凜音の母親は、無言で真横を指差した。筋肉が引きつり、心臓が大きく脈を打つ中、私はハッと、視線を差された方へ向ける。

「そんな、嘘」

 事故に巻き込まれた水色の自転車が、間違いなく凜音のものだと理解すると、全身に悪寒が走った。

 何か悪い夢でも見ているようだった。取り返しのつかないことが起こってしまったかもしれない、蓮と誠に早く伝えないと、息をするのがやっとで何もできない。瞬時に数多の思考が脳を駆け巡った。こんなこと、あっていいはずがない。

「結月!」

「結月さん、これ、どういうこと」

 横断歩道の向こう側から蓮と誠が駆けつける。凜音が家に来ないことに心配したのだろう。

「蓮、誠さん、凜音、がね」

 私は、あの自転車の前に座って、まるで自分の人格が欠落したかのような、白い心になっていた。

「この自転車って」

 蓮より先に誠さんが気づいた。

「結月さん! これって! 凜音の、自転車」

 サイレンの音が鳴り始めた。救急車が動き出すのである。私の手は震え、寒空の下にも関わらず汗が滲み出ていた。

「凜音、その中にいるの? ねぇ、ねぇ」

 走り疲れた脚はさらに緊張し、膝を地面に打ちつけ立ち上がれなかった。

 この日、凜音は交通事故に遭った。原因はボックスカーの信号無視で、運転手は酒気を帯びていたらしい。

 あれから私たちは、凜音が救急搬送された病院へと徒歩で向かった。あまりにも突然の出来事に愕然とする私に、蓮と誠さんは「大丈夫」と、何度も言葉をかけてくれたが、その声は明らかに震えていた。

 雨の中を歩くあの時、二十分ほどの道のりが、何時間にも感じられた。

「凜音、もう助からないんじゃないかな」

 雨はいつしか霰へと変わった。

「結月、そんなこと言うな。俺も凜音さんの安否を考えると怖くてたまらないけど、だけど、今は祈るしかない」

 俯きながら歩いていると、歩道と車道とを隔てる植え込みの中に咲いた、鮮やかなマゼンタの、薔薇のように花弁が折り重なった花が目についた。

「寒椿と山茶花、開花時期も見た目も似てるから識別は難しいけど、八重咲きのものが寒椿、花弁が六枚程度のものは山茶花と見分けられる。だからこれは寒椿」

 アスファルトを見ながらそうぶつぶつ言っていると、自然と歩みが速まってしまった。

 凜音から教わった知識が、花を見るたびに否が応でと反射的に出てくる。それはどこでも、どんな状況下においてもそうだった。

 凜音がこんな言葉を言ったことがある。「わたしはね、花も人も、同じように綺麗だと思ってるの。どっちも、いつか枯れるからさ」霰が傘に当たる小気味の悪い音を聞きながら、私は、「凜音にはこんなところで枯れてほしくない」そう願っていた。私たちには蓮の言う通り、祈ることしかできなかったのだ。このままもう二度と会えないかもしれない。お願い、お願い、こんなところで枯れないで。と。

 病院に着くと、私たちは、凜音が生き延びようと精一杯心臓を動かしていたことを知った。そして、知りたくなかった彼女の最期も。

 あの晩、私はいつまでも咽び泣き、他人の言葉など一切入ってこなかった。蓮と誠さんが私にしきりに声をかけ、手を握って寄り添ってくれた。でも恐らく彼らも、行き場のない悲しみや怒りと絶えず戦っていたのだと思う。彼女の体を拝むことなく閉じるこの夜の幕が下りるのを、私たちは認めたくなかった。

 あの表情、あの声、あの白い手。彼女の全てに

 もう会えないと理解するたび、体は重くなり、吐き気が止まらなくなった。あの時、もし何もせず死を選べることができたなら、私は迷わなかったかもしれない。

 病院の窓から見える霰は、やがて雪になった。初雪だったらしいその結晶たちは、凜音の魂を弔うかの如く、何も語らず降り続けた。

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