リンネに花束を
一文字零
上
記憶を、再び私の頭の中で、映画として上映することにした。今になってなぜ、この儚く輝いている記憶たちを呼び起こすのか。それは単なる思いつきではない。
記憶というのは、小学生の頃から高校卒業間近の今現在までに出会った、かけがえのない仲間たちとの思い出であり、今でも、私、杉野結月の人生という名の道を照らしている光のことである。
「結月ちゃーん」
小学一年生の時、あの子が最初に私を呼んだ時の声は、今でもはっきりと、頭の中でリピート再生することができる。
その声の主は、佐伯凜音。名前の由来が、カール・フォン・リンネという植物学者から来ていることは、私と彼女が仲良くなってからすぐ、彼女が自ら誇らしげに言ってきた情報である。
「え、なんで私の名前、知ってるの?」
私はあの時、目を丸くしてそう返した。
「だって、自己紹介の時そう言ってたじゃん! それに、話しかけて欲しかったんでしょ?」
私は子供ながらにかなり驚いた。あの時はまだ四月で、クラスメイト三十人分の名前なんて覚えているはずがない時期なのにも関わらず、私の名前をはっきりと覚えていて、人見知りの私が、教室で彼女に話しかけようとして失敗していたことにも、気づいていたというのだから。
「うん。そう、だけど」
「だったら一緒に遊ぼ!」
おまけに凜音は、昼休み、上学年の生徒が元気に走り回るグラウンドに勇気を出して単身で繰り出したものの、結局何をしていいか分からず満開の桜の下で花見をしていた滑稽な私を見かねて声をかけてくれた。あの時の彼女には頭が上がらない。
「桜、見てたの?」
私が「うん」と頷くと、凜音は私と首の角度を同じにしてこう言った。
「桜ってね、薔薇の仲間なんだよ。知ってた?」
「え、そうなの?」
凜音は私の驚く顔を見るや否や、子供らしく、立派に笑顔を輝かせた。
私はこのあと、彼女の名前の由来について知るわけだが、それと同時に、彼女の父親が大学の農学部で研究をしていたことも知ることになる。
彼女の植物に関する知識は、やはり父親から譲り受けたものらしい。私が彼女に出会ってからというもの、私は数えきれないほどの植物の知識を教わった。日本でいうところのクローバーは、丸い形をした葉を持つシロツメクサのことで、ハート型の四枚が合わさった形のカタバミとは別物であるということや、木には針葉樹と広葉樹の二種類があり、木材として見た時の特徴もそれぞれ異なるということ、竹にも花があり、一度咲くと地下茎で繋がった竹が一斉に枯れてしまうことなど、例を挙げればキリがない。
こうして凜音は私に、多くの植物学の知識を瞬く間に共有していった。私は、今までなんとなく好きだった花や木のことがもっと好きになったし、凜音は凜音で、植物についての話を聞いてくれる友達に初めて出会ったらしく、とても喜んでいた。
小学三年生の時、クラス替えがあった私たちは、運良くまた同じクラスになり、新学期早々夏休みの予定を練っていた。具体的には、自由課題と夏祭りである。
なぜ、そんなに早く夏休みの準備をすることになったのか。きっかけは、凜音と昼休み中に何気なく交わした会話にある。
「ねぇ結月、わたし、自転車乗れるようになったんだよ」
凜音が囁く。
「あれ? 乗れなかったの?」
思わず私は、口元を手で押さえつつ言った。
「ちょっと、声大きい!」
成績も優秀で運動神経もいい凜音が、まさか。と思った。この事実は中々に衝撃的だった。言われてみれば、今まで彼女が自転車に乗っているところを見たことがない。私と凜音がよく遊んでいた公園は、互いに徒歩で行ける距離だったこともあって、彼女が自転車に乗れるかどうかなんて、考えたことがなかったのである。
「わたし、ずっと目標だったんだ。自転車に乗るの。だって、悔しいじゃん。みんなができることができないなんてさ」
「ふーん」
「なに、ふーんって。少しは祝ったらどうなのー」
凜音がむすっとこっちを見る。物知りなところも好きだけど、仕草や表情が可愛いのも、彼女の魅力。
「あぁ、ごめん。おめでとう。これから二人で色んなところ行こうね」
「うん」
いい感じに締めくくられそうだった会話は、ここでは終わらなかった。
「じゃあ結月、どこ行こうか?」
凜音は間髪入れずに私に聞いた。
「どこ、って言われてもー。まだ分かんないなぁ」
「ないの?」
彼女は、私にぐいっと顔を近づける。
「今は、ないかな」
「ほんとにー?」
「顔、近い、よ」
凜音は「あ、ごめん」と、その端正な顔を引っ込めてから、続けて言った。
「わたしね、ずっと気になってたの。結月の夢が」
「夢?」
さっきまで教室の中で収まっていた凜音が、なんの前触れもなく天井をぶち抜いて、空に飛んでいったかのような、そんな感覚を覚えた。
「わたしはね、今までも散々言ってきたけど、将来の夢があるの。お父さんみたいに、植物の研究をするって夢が。でも結月は、夢とか、目標とか、やりたいこととか、言ってくれたことなかったじゃない? だからね、気になるの」
凜音があまりにも情熱的に語るので、私は温度差を感じて、少し萎縮してこう言った。
「私の夢、かぁ。夢も何も、まだやりたいこととか、全然決まってないし」
すると、凜音は再び、私に顔を埋める勢いで迫ってきた。
「じゃあさじゃあさ、一緒に探そうよ! 結月!」
「え?」
私はずっと、凜音の植物へ情熱を注ぐ姿が好きだった。尊敬していた。でも、それと同時に、羨ましくもあった。だけど凜音は、私のこの気持ちに、とっくに気づいていた。一年生の時から、凜音はなんでもお見通し。
この日を境に、私は彼女と一緒に、夢を探すことにした。夏休みの自由研究と夏祭りの計画を早々に練っていたのは、凜音が「まずは、そうだなー。自由研究一緒にやるとか、どう? あと、夏祭りも行こ!」と提案してきたからだ。
まずは研究のテーマを探すために、放課後、近所の図書館へ行った。あの時は、親に何も言わずに家を出て、閉館時刻の十七時までひたすら一緒に本を読み漁っていたから、私を心配した母にとても怒られたのを覚えている。
そして迎えた夏休み。自由研究の課題について先生から聞いたクラスメイトは、何をしよう、全然考えてない、などと口々に言っていたが、私たちはもうすでに研究を始めようとしていた。合同研究のテーマは、ずばり「植物図鑑を作る」である。その名の通り、植物の分類について調べて、実際にこの町に生えている植物を写真に撮ったり、採取したりして、できるだけ多くの植物を発見し、図鑑としてまとめようといった内容だ。図鑑のタイトルはこの町の名前を取って、「神山町植物図鑑」。そのまんまである。
夏休み初日の朝、いつも二人で遊ぶ近くの公園にわざわざ自転車で来た凜音は、先に待っていた私に駆け寄って、「見て見て、この自転車」と自慢げに言ってきた。この公園には、桜の木が全体を囲うように何本も生えていて、季節ごとに多くの草花が咲く。そのあり様は、まさに模範的な公園と表現するに相応しい。
「可愛い自転車だね」
「でしょ? ランドセルと同じ水色」
「好きだねー」
確かこの時期、凜音は筆箱も水色だったと思う。
「じゃ、植物観察、始めますか! まぁ、とはいえこの公園にある植物はほとんど見尽くしたけどね」
張り切る彼女を見ているだけで、私の心は満たされていった。
公園で無闇に植物を採取することは良くないので、今日は私の父から借りたカメラを使って、植物の姿を写真に撮ることにした。
私はカメラを、凜音は植物図鑑を手に持ち、次々に図鑑を埋めていく。この神山町公園は、全然滑らない金属製の滑り台と、鉄棒しか遊具がない。けれど、二人にとっては、ここの敷地内全てが唯一無二の遊具だった。
「ま、こんなもんかな。結月、一旦ご飯食べよっか」
「ちょっと待って!」
私は公園から出ようとする彼女を呼び止めて、手招きした。
「どしたの?」
「これ、今まで見たことない花だ」
そのアメジストにも似た色の花は、他の草が生い茂る柵の股下で、大きく、超然と咲き誇っていた。
「キキョウだ! こんなところに咲いてたの、全然気がつかなかった。自生してるところは初めて見た」
私たちはしゃがんで、キキョウに影を落とした。
「へぇ、珍しいんだね」
「今となってはね。この花は、自生してるものは段々と数が減っていってるの。絶滅危惧種ってやつかな」
日々装いを変え、見るたびに新たな驚きや発見がある。私は、自然のそんなところが好きだった。多分それは、凜音も同じだったと思う。
それから、私たちは各々家から持ってきたお弁当を公園内で食べた。まるで、ピクニックをしてるような感覚だった。
午後からは次の公園に向かった。
「はぁ、凜音、ちょっと、待って!」
「ひゃっほーい! 結月! 早くしないと置いてくよ!」
次の公園へは、小学三年生が自転車で行くにはそれなりの距離があった。凜音はようやく乗れるようになった自転車を漕ぎたくて仕方ないのか、元気が有り余っている様子て、私は息を切らしながら追いつこうとするので精一杯だった。
「よし、着いた! ここはあっちよりおっきいから、もっと沢山見つけられそうだね!」
目を輝かせる彼女に、私は「うん」と頷くことしかできなかった。疲労困憊である。
こんな調子で、私たちはさまざまな植物を発見し、図鑑にまとめていった。
そのうち、夏祭りの日がやってきた。夏休みに立てたもう一つの計画を実行する時である。
まぁ、計画といっても大層なものではない。ただ、今までそれぞれ家族と行っていた夏祭りに、今年は二人きりで行ってみようというだけの話だ。「そんなことが夢や目標を探すのに役立つのか」と私は思ったりもした。しかし凜音は「目標ってのは、色んなことをすれば自然と見つかるものなのよ」とやけに大人びたことを言ってきたので、私は彼女を信じてみることにしたのだ。
「結月ー! お待たせ! てかその浴衣、めっちゃ可愛いね!」
事前に「何も言わずに浴衣を決めて、当日見せ合おう」と決めていた。
「いいでしょ、ピンク色! 凜音は水色の浴衣着てくるだろうと思ってこの浴衣にしたんだけど、やっぱり着てきたね」
「うそ、予想的中ってこと?」
「凜音が水色大好きなのは重々承知してるからね」
「さっすが結月」
全長一キロメートル近くある縁日に、大縄跳びの縄に意を決して入るような気持ちで繰り出すと、私たちはすぐにその人の多さに圧倒された。神山町で毎年開催されているこの祭りだが、やはり二人きりだと、身近な大人がいない心細さが相まって、毎年のように見ている人混みがどこか恐ろしいもののように感じた。
「結月! はぐれないようにしないとだね」
「うん」
この時は、凜音の言う通り、屋台に夢中になっているとすぐにお互いを見失ってしまいそうなほど、通路いっぱいに人が詰まっていた。
そんな中、彼女は言った。
「よし。手、繋ご」
「う、うん」
少し戸惑ったが、離れ離れにならないためにはそれが最適解だった。
凜音の手が、私の小さい手を握ってきた。細く白いその手は、熱帯夜に負けないくらい、温かかった。
「結月! お面とか買ってく? 雰囲気出るよ」
「あ、うん!」
私は凜音に引っ張られて、思わずよろける。彼女と関わるといつもこうだった。私は一生懸命、凜音に着いていくのでやっと。でも、そうやって彼女に振り回されたり、追いかけたりするのは、これ以上ないくらい楽しかった。
「うわ! たっか! こんなの買えるわけないじゃん」
「しっ、凜音! 声でかいよ」
お面屋の前で叫ぶ彼女に、私は囁いた。
考えてみれば、毎月五百円ほどのお小遣いと、「縁日に行く」と両親に言ったらくれた千円札で、どのくらい縁日が楽しめるのかなんて、高が知れている。
結局、私は綿飴を一つ、凜音はりんご飴を一つ買って食べたあと、二人で射的勝負をした。結果は引き分け。つまり、何も景品を取れなかったのである。
「あー、がっかり。結月、わたしゲームソフト当ててたの見たよね? なんであれでダメなの」
帰り道、凜音は悪態をつきながら言った。
「しょうがないよ、当てた上に倒さないといけないんだもん」
「ケチね、あの屋台のオヤジ」
彼女は負けず嫌いなところもあった。そもそも競争が苦手な私とは正反対だったけど、この凸凹が、私にとっては面白かった。
自由研究以外の宿題に追われつつ、あっという間に夏休みは終わっていった。町の隅々まで探検した私の体は、すっかり小麦色に染まった。色白の凜音も、少しは日焼けしたように見えた。
「ねぇ結月、ついに来たね」
「だね」
迎えた始業式。気だるそうに登校している生徒も多くいる中で、私と凜音は動悸を抑えきれずにいた。この日は、合同研究を先生に提出する日なのだ。私の通っていた小学校では、毎年校内で、優秀な夏休みの自由研究、自由工作を表彰するしきたりがあった。私たちは、そこで受賞者になって、体育館で記念の賞状を受け取るために、今日まで頑張ってきたというわけだ。
先生には事前に「合同でやってもいいですか」と聞いて、許可を貰っているとはいえ、提出の時間にいざ二人揃って担任の先生の前に植物図鑑を出すと、「本当にやってきたのね」と驚かれた。それから先生は、かつてはハリがありしなやかであっただろう、シワが所々目立つ指先でパラパラと図鑑をめくり、大きく唸った。その反応を見て、私と凜音は顔を見合わせた。
「ねぇ凜音、もしかしたら受賞できるかもよ」
「やばいね」
すると、パタン、と図鑑を閉じた先生が私たちに言った。
「あとでよーく見ておくわね。これ、読み応えがあって、とっても面白い図鑑だわ」
先生の優しい言葉に、胸がいっぱいになるのを感じた。
数日後、自由課題のクラス代表が決まった。
私と凜音の植物図鑑である。
先生は「どれも力作揃いで悩みましたが、この図鑑が一番熱量を感じました」と言ってくれた。
後日、全校集会で生徒たちは体育館に集められた。各クラスの代表達は、まとめて端に座らせられ、気ぜわしく校長先生の発表を待つ。
校長先生の話は長い、というのはあるあるだと思うが、珍しくここの校長は手短に話すタイプだった。「こんにちは!」と大きな声で始まり、「皆さん、元気ですか?」とどこかで聞いたことのある台詞を、これまた張り上げた声で全校生徒に問いかけるのが、彼のテンプレートである。
「それでは、早速受賞作品の発表に入りたいと思います」
賞は、工作部門と研究部門があり、それぞれ準大賞と大賞が存在する。最初は研究部門準大賞の発表があった。
軽快なドラムロールの効果音と共に、校長先生は「準大賞は」と言葉を溜めた。
「速水誠さんの、『小説の歴史』」
一斉に拍手が巻き起こる。この男を、私はこの時知った。今まで一度も絡みがなかったのだから、当たり前のことではあるのだが。
「小説の移り変わりを年表にして、上手くまとめていました。小説への愛が伝わってくる、素敵な研究でした。これからも、沢山の本を読んでいってください」
ステージに上がった誠という名の男は、校長先生の講評が終わると、他の生徒達が見守る中、私たち生徒の方を向いて、堂々と、上品に頭を深々と下げた。それを見た私は単に、「礼儀正しい人だな」くらいにしか思わなかったが、何故か記憶に残る存在となった。
「それでは続いて、研究部門大賞の発表に移りたいと思います」
私は体中から汗をだらだらと流していた。多分、傍から見ると、不安と緊張で鋼鉄のように固まった見窄らしい表情をしていた気がする。と言うのも、すぐ横に座っている凜音が、正にそういった顔をしていたので、あの凜音があんなに顔を強張らせるなら、私はもっと酷い顔だったに違いない、と思ったのだ。
ドラムロールのあと、シンバルの音が壮大に体育館全体に広がる。
「大賞は、『神山町植物図鑑』」
音が一瞬、消えた気がした。まるで、この空間に私しかいないような、そんな感覚に陥った。この刹那の静謐の中で、頭の中にさまざまな感情が巡った。淡くぼんやりとしていた感情達が、一斉に結合を起こし、濃くはっきりと私の全身を一周した。
「り、凜音、私たちほんとに、ほんとに大賞?」
盛大な拍手が私たちを包む。気がつくと大粒の涙が溢れていた。嬉し泣きをするのはこれが人生で初めてだった。
「やったね、結月!」
私と凜音は立ち上がって、壇上へと進む。まるで、レッドカーペットを渡るハリウッド女優のような、あるいは、バージンロードを歩く新婦のような気持ちになった。
校長先生の前に立つと、講評が始まった。
「合同研究ということで、私も大変驚きましたが、非常に良くまとまっていました。植物学の熱意がこもった、素晴らしい研究です。この経験と二人の絆は、これから生きる上で大きな意味を持つでしょう」
私たちは二人分の賞状をそれぞれ受け取って、顔を合わせて笑った。
今考えると、あの時校長先生が言った「この経験と二人の絆は、これから生きる上で大きな意味を持つでしょう」という言葉は、本当に大切なことを教えてくれたのだと思う。
かくして、小学三年生の夏は、最高の思い出と共に幕を閉じた。この出来事は、私の人生の中で、大きなターニングポイントとなったことは間違いない。
小学生のうちは、凜音と常に遊んでいたような気がする。あの夏に探した夢や目標は、はっきりとは見つからなかったけど、これからも凜音と一緒に、自然の魅力を見つけていったら幸せだなと、ぼんやり感じていた。
そして、いつしか私は、制服を着るような年齢になっていた。
ぜんまいの茎くらいの細さの、えんじ色をしたリボンの付いた女子の制服は、私にとってあまり着心地のいいものではなかったが、周囲の人はそれを嫌がるどころか、むしろ、制服を通して、中学生になった感動を覚えているように見えた。
中学一年生の頃は、個人的に、暗黒期と呼ぶに相応しい一年だった。凜音と初めてクラスが離れ離れになったり、日頃から凜音と一緒に勉強していたお陰もあって成績優秀だった小学校時代とは打って変わって、急激に難しくなった勉強についていくのがやっとになったり、背伸びして入った陸上部を辞めようと、夏休みの終わりに退部届を出したら、顧問の先生にこっぴどく叱られたりした。こんな時凜音がいたらな、と思い、久しぶりに家電で凜音に連絡したが、どうやら彼女はなにかと忙しいらしく、中々遊ぶ時間が取れないというのだ。なにで忙しかったのかは、この時は「部活と委員会」としか教えてくれなかったが、私はもう一つの理由をあとになって知ることになる。
中一時代が、私にとって暗黒期であることは間違いないのだが、一つだけいい出来事があった。相澤蓮という友達、いや、好きな人ができたのだ。元々友達の少ない方だった私が、まともに男子と話すなんて一年もしていなかった故に、蓮が初めて教室で私に話しかけてきた時は、持ち前の人見知りが顕著に出てしまった。でも、彼はとことん優しかった。若干の緊張を覚えながら話す私に、ほどいい距離感で接してくれた。こういうのはかなり高度なコミュニケーションの技術だと思うのだが、中一の時点で既にその技術を使いこなしていた彼は、月並みな言葉だがかなり凄いと思う。そして、彼と会話を交わしていく内に、私は次第に彼の内面に惹かれていった。だが、私はそんな自分自身の気持ちに、あろうことか気づかぬままでいた。
蓮との出会いはあったものの、結果的に、私はこのまま、まるで種が発芽せずに腐っていくような調子で、中学二年生となったのだが、実のところ、その種は腐ってなんかいなかったことを、ジンチョウゲの花の香りがする四月、ついに思い知る。
この中学では、毎年クラス替えがあるのだが、この年はなんと、名簿に私と蓮、凜音の名前が並んでいた。
「結月、久しぶりー! 今まで中々会えなくてごめんね!」
始業式の前日であるクラス替え発表の日、学校の職員室前に貼られた名簿表を見た凜音は私にすぐさま駆け寄りそう言った。
「凜音ー! 会いたかったよ! またいっぱい遊ぼ」
「う、うん。そうだね」
凜音の返事は心なしかぎこちなく感じた。だが、このあと知ったあの時の凜音の状況を思えば、あんな話し方になるのも無理はないのだろう。
「結月、また同じクラスになったね。よろしく」
後ろから蓮の柔らかい声が聞こえた。
「よろしく、蓮」
私が振り返って彼に微笑むと、凜音が言った。
「あ、あなたが蓮くん?」
「はい。そうですけど」
「わたし、凜音です。佐伯凜音。話は聞いてると思うけど」
「あぁ、誠の彼女の凜音さん! 地味に初めまして、か」
蓮と凜音は軽く会釈し合った。まるでビジネスマンみたいだった。
「え、え、どゆこと」
初めはどういう状況なのか整理できず戸惑ったが、話を聞くと、どうやら凜音は半年前から彼氏ができていたのだ。凜音が私と遊ぶ時間が取れないと言っていたのは、部活や委員会が忙しいから。これは本当だが、他にも彼氏ができていたのも理由だったなんて、それだけでも驚きだが、さらに、その凜音の彼氏と蓮は友達だったという事実も知った。全く、運命というのは摩訶不思議なものである。
そしてもう一つ、驚くべきポイントがあった。
「てか、蓮の言ってた誠って名前、どっかで聞いたことあるような?」
「あぁそうそう、よく覚えてたねー。小三の時、自由研究の準大賞取った人だよ」
「やっぱり!」
何を隠そう、凜音の彼氏は、五年前「小説の歴史」で自由課題の研究部門準大賞を掻っ攫った、速水誠その人であった。二人は同じクラスになってから、自然と仲良くなったんだそうだ。
「結月、やっぱり謝らなくちゃだよね。今まで誠のこと黙ってて、ごめん。淋しい思いさせちゃうかなって、あえて言わないようにしてたんだけど、無意味だった」
「あ、いやそんな! 気遣ってくれて嬉しいよ」
気を遣ってくれたのは、確かに嬉しかった。けど、それ以上にやっぱり、どこか淋しい気持ちになったのも事実だった。勉強も、運動も、いつの間にか恋愛も、私は彼女に何歩先も越されている。ちょっと悔しい、と彼女に対して初めて思った。
「そういや、誠のクラスは?」
蓮が凜音に尋ねると、彼女は「誠は別のクラスだよ」とあからさまに悲しそうな表情と声色で言った。
楽しそうに談笑する二人を見た私は、まるで赤色の花ばかり咲く花壇の中に、一輪だけ存在してしまった青色の花になったような気分になり、その日は一人で帰った。
私にも好きな人くらい、いればいいのにな。そう考えた矢先、私は「あっ」と、誰もいない自室で思わず声を上げた。
この瞬間、ニューロンと呼ばれるらしい脳の神経細胞たちが、私の頭の中を火花を散らしながら駆け巡った。
脳裏に浮かぶは、柔和で温かい雰囲気のある、あの顔だった。
「もしかして私、蓮のこと好きなのかな」
蓮と知り合ってから好きになるまで、三ヶ月もかからなかったと思う。そのくせその気持ちに気づくまで、半年以上かかった。我ながら、遅すぎである。
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