第6話 甘いコーヒーは危険な飲み物



甘いコーヒーは危険な飲み物




「おはようございます。安藤さん、コーヒーいい匂いですね。」


 朝、出社してパソコンの電源を入れていると安藤さんが「おはよう」と言いながら部屋に入ってきた。

 安藤さんの手にはホットコーヒーのカップが握られている。

 

「良い匂いでしょう。今日、開店したらしいよ。」


「ええ。とても良い匂いです。今日開店だったんですね。だからお店の前を通った時人が沢山いたんですね。」


 駅を降りてから会社に来るまでの道に本日コーヒースタンドがオープンしたようだ。

 数日前から気になってはいたが、遅刻しそうだったので今朝はスルーしたのだ。


「昨日の帰りに割引券を配っていたからね。今朝は少しだけ早起きしてよってみたんだ。コーヒー豆にこだわっているとか。」


「へぇ~。じゃあ、それなりに提供までには時間がかかるんですね?」


「そうだね、注文してから豆を挽いていたいたよ。」


「ははあ。それはそれは、凝っていますね。私には当分朝コーヒーを買う時間はなさそうです。」


 私は朝が弱い。

 目覚ましのアラームが鳴ってもすぐに起きることができない体質なのだ。平気で二度寝だってしてしまう。

 遅刻しそうになったのも一度や二度ではない。


「麻生さんは早起きする癖をつけないとね。早起きは三文の得だというし。」


「そうですね。ブルーマウンテンですか?」


「麻生さん、君って匂いに鈍感なのかな?」


 安藤さんのお小言を回避するために話題をさり気なく変えようとするが、安藤さんに怪訝な表情をされた。


「……ほっといてください。」


「これはね、コピ・ルアックだよ。香りに甘みを感じないかい?」


「……そう言われれば、少し甘いような。それにしても、コピーラック……?って初めて聞く名前ですね。」


 耳なじみのないコーヒーの名前に首を傾げる。

 

「コピ・ルアックね。ルアックっていうのはねジャコウネコのことなんだよ。」


「へぇー。ジャコウネコですか。なんで、ジャコウネコの名前が?」


 コーヒーの名前にジャコウネコが含まれているなんてとても不思議に思い思わず質問してしまう。

 由来とか気になるし。

 すると安藤さんはにっこりと満面の笑みを浮かべた。

 

「一口飲んでみるかい?ほら、君が常備しているカップを出しなさい。一口だけあげるから。」


「え?いいんですか、じゃあ一口飲ませてください。」


 私は会社用に常備しているカップを机の中から取り出すと安藤さんの前に出した。

 安藤さんは私からカップを受け取ると、器用に一口分だけコーヒーを別けてくれた。

 ……一口なんて言わずにもうちょっとわけてくれても……。なんて思ったり。まあ、わけてくれるだけありがたいけど。

 

「あ、美味しい。なんかまろやかですね。甘味もあってコーヒー独特の苦みも少し軽減されていて飲みやすいです。」


 一口飲んだコーヒーは私の口に合った。

 ほのかな甘みとまろやかな苦みが口の中に広がる。


「美味しいでしょ。これ一杯6,000円なんだよ。」


「えっ……。冗談ですか?」


 安藤さんに告げられた値段に思わず口をぽかーんと開けた。

 コーヒー一杯6,000円だなんてにわかには信じることができない。

 コーヒーってそんなに高いものだったっけ?

 

「冗談じゃないよ。冗談だとおもうならコーヒースタンドに行ってみてごらん?」


「あ、ははっ。そんな高価なコーヒーを飲ませてくれてありがとうございます。」


 安藤さんはケチだなんて思った自分が恥ずかしい。一杯6,000円もするコーヒーを飲ませてくれたのだから。


「でも、どうしてそんなに高いんですか?豆の入手が難しいとか?でも、栽培していればそんなに豆の値段が高騰するとは……。」


「うん。そう思うだろう?そこに、ジャコウネコが関係してくるんだよ。」


「はあ。」


「このコーヒー豆はね、ジャコウネコが食べたコーヒー豆を拾い集めたんだよ。」


「ジャコウネコってコーヒー豆食べるんですか?」


「うん。食べるみたいだね。でね、ジャコウネコが食べたから、ジャコウネコの体内でコーヒーの苦み成分が分解されてまろやかになるんだよ。」


「う……ん?」


 ジャコウネコが食べたコーヒー豆って……。もしかして……。


「そう。ジャコウネコが排せつしたコーヒー豆だよ。それも消化されずにちゃんと豆の形が残っているものだけを選んだものなんだ。」


「あ……うん。ワカリマシタ。アリガトウゴザイマス。」


 聞かなきゃよかったと思ったのは言うまでもない。


 プルルルル。プルルルル。


 その時、私たちの会話を断ち切るように電話が鳴った。

 まだ始業開始前だというのに。

 

「はい。情報システム部の麻生です。」


『パソコンが起動しないんだ!なんとかしてくれよ!!』


 嫌な予感がして出た電話からはそんな声が聞こえた。

 

「電源は入っていますか?パソコンの電源コードが抜けていたりましませんか?」


『そんなことどうでもいいから、早くなんとかしてよ!もうすぐ始業時間になっちゃうじゃないかっ!!始業時間までになんとかしてくれよ!!』


 ……こっちだって始業時間前なんですけど。

 

 電話口でのあまりの言い方に思わずムッとしてしまう。

 でも、これも仕事だとぐっと抑え込む。


「では、すぐにお伺いいたします。お名前と部署をおしえていただけますか?」


 相手は名乗らないので、すぐに様子を見に行きたくてもどこに行けばいいのかわからない。

 普通は電話口で開口一番に名乗るのがマナーなんじゃないかな。

 

『営業部の磯野!!早くしてよ!あと一分で始業時間じゃないか!!』


「わかりました。今からお伺いいたします。」


 磯野さんは電話口でワーワーと喚き散らしている。

 磯野さんというのは入社してまだ数ヶ月の新入社員だ。第二新卒で採用したと聞いているがあまり良い噂を聞かない。


「朝からごめんね。対応をお願いします。」


 安藤さんの気の毒そうな表情に見送られて私は情報システム部を後にした。







「オレのせいじゃないっ!情報システム部が悪いんだっ!!パソコンを管理しているのは情報システム部だろう!!パソコンが起動しないのは情報システム部の責任だっ!!」


 営業部に行くとコーヒーの匂いが鼻をくすぐった。

 どうやらみんな、今日オープンしたばかりのコーヒースタンドに寄って来たらしい。

 喚き散らしているのは電話をしてきた磯野さんだった。

 喚き散らす磯野さんを上司である御手洗さんが睨みつけている。


「すみませんっ。遅くなりましたっ!パソコンの状況を詳しく説明していただけませんか?」


「遅いっ!!始業時間になっちゃったじゃないかっ!!オレが御手洗さんに怒られただろう!!」


「……もうしわけ……。」


「麻生さんは謝らなくていいから。パソコンが起動しなくなったのは磯野くんが悪いんだろう?自分のミスを他人に擦り付けるなと何度も言っているだろう。」


 条件反射的に謝ろうとしたら、御手洗さんに止められた。

 少なくとも御手洗さんは私の味方のようでホッと安心して止めていた息を吐きだす。

 

「オレは悪くないっ!!」


「……パソコンにコーヒーを溢したのは磯野くんだろう?」


「えっ……。」


「コーヒーを溢したくらいで起動しなくなるようなパソコンを割り当てた情報システム部が悪いんだっ!!オレのせいじゃない!!」


「えっ……。」


 御手洗さんと磯野さんのやり取りを驚きながら聞く。

 御手洗さんの言うことは正論だ。対して磯野さんの言葉は暴論だ。

 パソコンは機械だ。機械には電気信号が通っている。

 電機は水に弱い。電気信号の伝達の妨げになる。

 それどころか真水以外の水で機械を濡らすと金属が腐食し、電気信号の伝達の妨げになる。つまり、故障をするというわけだ。

 綺麗に乾かせば起動する可能性はあるが、それはあくまで水だったらの話だ。

 

「……パソコンは機械なんです。機械が水に弱いくらいいくらなんでもご存知ですよね?」


 磯野さんの暴論に思わず低い声が出てしまう。

 パソコンにコーヒーを溢して壊れたのを情報システム部の所為にされるなんて、明らかにおかしい。

 

「オレのスマートフォンは防水機能つきだ!今時防水機能のついていないパソコンを使っているなんて言語道断だろうっ!!」


「じゃあ!コーヒーを溢してパソコンの防水機能を確かめる前に、情報システム部にパソコンにコーヒーを溢していいか確認してください!パソコンの購入予算は限られているんですよ!磯野さんのパソコンだけ防水機能付きのパソコンにすることはできませんっ!」


「ああん!?オレに仕事をさせたいのならそれ相応のパソコンを用意すべきだろう!!」


「それを言うなら高価なパソコンを与えられるくらいに営業成績をあげてください!話はそれからですっ!!」


「はあ?パソコンが先だろ!!」


「あなたの実力を示すのが先ですっ!!」


 徐々にヒートアップしていく磯野さんと私。

 次第には同じ言葉の投げ合いになってしまった。

 

「二人とも落ち着きなさいっ。」


 見かねた御手洗さんが私たちの間に割って入る。

 周りで見ていた人たちも磯野さんと私をなだめにかかる。

 

「二人の言い分はわかった。というか、磯野くんの言い分ははっきりいって理解できない。君は営業成績が最下位だということを知っているかい?営業先には訪問時間を過ぎてから伺う。挙句の果てには約束があったことを忘れて家で寝ている。そんな態度じゃあ君に特別仕様のパソコンは与えることができないよ。麻生さんの言う通り、まずは実力を示しなさい。」


「……ちっ。」


「すみません。思わず頭に血が上ってしまいました……。」


 御手洗さんの言葉に磯野くんはそっぽを向いた。

 私は磯野くんの営業成績のことを聞いてしまって思わず吹き出しそうになるのを堪えて御手洗さんと周りにいた人々に謝罪する。

 

「パソコンにぶっかけたのはコーヒーですね。無糖ですか?微糖ですか?ミルクは入っていましたか?」


 気を取り直して磯野さんのパソコンの状況を確認する。

 

「……キャラメルマキアートだよ。」


 磯野さんも少しは落ち着いたのかぶっきらぼうに答えた。

 

「えっ……。」


 私は思わず声を上げてしまった。

 まわりもざわざわとし始める。


「なんだよ。甘党で悪いかよ……。」


「いいえ。甘党は問題ありません。疲れた時やストレスが溜まっているときには甘い物は心を癒してくれる効果が期待できます。磯野さんは積極的に甘いものをとってもいいと思います。」


「そ、そうかよ……。」


 鳩が豆鉄砲をくらったような表情を磯野さんはした。

 私、なにか変なこと言っただろうか。まあ、いいや。


「それよりも溢したのが砂糖たっぷりの飲み物だというのがいただけません……。糖分のたっぷり入った飲み物は乾燥するとベタベタに基盤にくっついてしまいます。そうするとパソコンは修復不可能です。修理にだせば、基盤を交換をしてくれるかと思いますが……。基盤交換は下手をするとパソコンを新規購入するくらいの金額になります。それに修理を依頼してからパソコンが戻ってくるまで最低でも一週間はかかるかと……。」


 甘い飲み物ほど大敵なものはない。たとえ防水仕様のパソコンだったとて、糖分がたっぷり入った飲み物は危険がいっぱいだ。

 パソコンは起動してもベタベタなのはちゃんとに拭き取らなければならないし、パーツを分解して拭き取らないと僅かな隙間に糖分が流れ込み、べた付いてしまう。

 パソコンに溢すのには最悪な飲み物だ。

 そのことを磯野さんに説明をする。


「……わるかったよ。」


 どうやら磯野さんはわかってくれたようだ。

 

 結局パソコンを分解して真水で清掃してみたが、糖分のベタベタは取りきることができず修理に出すことになった。

 磯野さんにはパソコンが急に壊れた時のために在庫してある予備のパソコンを割り当てることになったのだった。

 



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