第10話 水面下の駆け引き


 トルクメニスタン。『地獄の門』上空。


 人間サイドと悪魔サイドの交渉は成立した。


 契約内容に関して言えば、問題や不備は一切ない。

 

 前世で打ち合わせていた通り、取引は都合よく終わった。


 ――たった一つの誤算を除いて。


(記憶を改竄されたカ、あるいは、記憶そのものを消されたノカ……)


 羽根を動かし、空中で思考するのは、長い黒髪の女悪魔。


 黒のミニワンピースを着用し、濃い目の化粧が施されている。


 見た目だけなら、平々凡々。水商売をしていそうな女性と言えた。


 ――そのイメージに反し、肩書きは第一級悪魔。


 悪魔界の頂点に君臨する魔神を支える『十二貴族』の一員。


 数万匹規模の悪魔を手中に収め、直接的な指揮権を持っていた。


 高い地位にいる割に頭を悩ませているのは、人間の頃の因縁にある。


(カルド……。アタイが目を離していた間に何がアッタ……)


 第一級悪魔――蓮玲レンリンは赤い瞳を眼下に向けている。


 大穴の際に立つのは、白い司祭服を着る男――カルド。


 前世では、二人目の夫として迎え、将来を誓い合った関係。


 家庭円満の計画を立て、ここまでは織り込み済みのはずだった。


 合言葉を送って、一致すれば終了。その最後の最後で問題が生じた。


 ――『アタイの顔と身なりに覚えはナイカ?』 


 ――『全く覚えがありませんね。どちら様でしょうか』


 演技にはとても見えず、操られている気配もない。


 完全に忘却している。能力者の影が嫌でもチラついた。


「これから結界を解きますが、異論はありませんか?」


 こちらの気も知らず、カルドは他人行儀で尋ねた。


 頷けば、『地獄の門』全体を覆っている第二の門は開く。


 そうなれば、統率の取れた悪魔が人類を侵略することになる。


(計画通りなら問題ナイガ、どうもきな臭いネェ……)


 頭の片隅に引っかかったのは、記憶を忘却したカルド。


 計画に一点の曇りもなければ決行したが、即断できない。


 悪魔界で培われた危機管理能力が、『乗るな』と告げていた。


「……いや、もう少し様子を見させてもらえナイカ?」


 微妙な匙加減が求められる不穏な場で、蓮玲は提案する。


 ここから先の展開は予測不能。経験と直感だけが頼りになる。


「…………構いませんが、どれほど待てばよろしいでしょうか」


 やや間を置きながらも、カルドは了承していた。


 話題に上がるのは時間。短すぎても長すぎても駄目。


 恐らく内容次第で、計画の成否に直結する確信があった。


「24時間。水と食料はコッチが用意する。排泄物は穴に垂れ流すとイイ」


 諸々の事情と、今までの経験を踏まえ、蓮玲は条件を提示する。


 カルドの懐を探り、状況を把握して、記憶を奪った犯人を割り出す。


 外と内の緊張状態をギリギリ保て、計画に支障がないか、擦り合わせる。


 ――それが24時間。


 ベストな判断かどうかは、終わってみるまで分からない。


 予測不能の未来を歩むには、ある程度の割り切りが必要だった。


「いいでしょう。それが我々の計画に必要となるならば……」

 

 カルドは承諾するものの、不穏な空気を発する。


 感動の夫婦の再会は、かなり先の出来事になりそうだった。


 ◇◇◇


 トルクメニスタン。『地獄の門』近辺の砂漠地帯。


 そこに足を踏み入れたのは、黒い衣装に身を包む三人。


 予測不能な事象を前にして、立ち往生を余儀なくされていた。

 

「うわぁ……。高度な結界だね、アレ。見るだけで目まいがするよ」


「最低でも、あらゆる物理的干渉の無効。最悪なら、触れたものに罰則……」


 ソフィアとダヴィデは、眼前の黒い結界に対し、所感を語る。

 

 意見に多少の違いはあれど、警戒に値するものだと判断していた。


 恐らく、二人の見立てに間違いはない。現状の手札では、突破は困難。


「カチコミは論外。……ただ、待ってれば開きそうだけど、どうする? 局長」


 諸々の事情を考慮し、尋ねてきたのはソフィアだった。


 考えなしに突っ込みそうに見えるが、危機察知能力は高い。


 利口と馬鹿を兼ね備えているからこそ、最強の名を冠していた。


 一級品のじゃじゃ馬とも言え、扱うには上司としての器が問われる。


「……この件は後回しにする。根拠は勘だ」


 吟味と思考を重ねた上で、ダンテは指示を飛ばす。


 本部では理詰めが全てだったが、現場では通用しない。


 不測の出来事が必ず起き、臨機応変に対応する必要がある。


 単純なことだが、敵の事情と能力を全て把握するのは不可能だ。


 それらを一切考えず、作戦と理屈に固執すれば、必ず痛い目に遭う。


 ――時には直感に頼るのも重要だった。


 この世の理は分かるものより、分からないものの方が多い。

 

 それを知った者と知らない者との間には、大きな差が生まれる。


 今回の件に関しても、理屈を通すなら、フリーズ必須の案件だった。


 結界を調査し、ラインを見極め、突入するか考えていたら、日が暮れる。


 ――だからこそ、割り切る力が必要だ。


 部下の命を背負っているなら、なおさらだった。


 例え間違いでも、正解にする強引さがなければならない。


「オーケー。余裕があるから今回は従うよ。ただ、修羅場なら話は別だからね」


 するとソフィアは、やや含みのある回答をした。


 場合によっては、従わないことも視野に入れた言い回し。


「……おい、待て。上官に向かって、その言い方はないんじゃないか」


 その発言に食いついたのは、ダヴィデ。


 組織の命令系統を考えれば、限りなく正しい。


 ルールや規範に則るなら、満点に近い回答と言えた。


 ただ、命令系統に縛られていては、達成困難な任務もある。


「いや、ソフィアの意見は間違ってない。現場……特に修羅場での嗅覚は、今のお前たちの方が上だろう。実際、私は現場をしばらく離れていた。余裕のある今は、本部にいた頃と同じ精度で命令を飛ばせるが、数万匹の悪魔に囲まれて、精度の高い判断ができるとは思えん。緊急時の戦術レベルな対応は個々に任せる」


 ダンテは現場経験の鈍りを素直に認め、自由な解釈を付け加える。


 恐らく、これが現状のベスト。臨機応変に調整する必要はありそうだがな。


「おーし。そうこなくっちゃ!」


 ぐっと拳を握りしめ、ソフィアは嬉々とした表情を見せる。


 反応から考えるに、強敵との戦いに指図されたくない口だろう。


 お眼鏡に適う敵がいれば、命令を無視する。頭に入れておかねばな。


「承知しましたが、次の目的地はどうされますか?」


 一方ダヴィデは、冷静に話を区切り、有意義な質問をぶつける。


 現状なら、命令権は有効。ソフィアと言えど、異論は差し挟まないだろう。


「首都アシガバート。『エリーゼ』と接触し、場合によっては清算を行う」


 危ういバランスの中、ダンテは最優先事項を再設定する。


 これが吉と出るか凶と出るかは、接触するまで分からなかった。

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