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 雨を吸収したスニーカーはずっしりと重く私の足に吸い付き、泥のなかに足が埋め込まれてしまった気分だった。アスファルトに張られた水は自動車が通るたびに小さく飛沫を上げながら割かれ、穏やかな水面が現れる前に次の自動車がやってきて再び白い泡を噴き上げる。国道の車通りは激しかった。赤や白やオレンジの何百ものヘッドライトが水面に反射し、光が増幅される。太陽が出ている日よりもずっと明るかった。

 運送業者の大きなトラックが真横を通る時、腰から足元にかけて水を浴びてしまった。私は傘の柄を握りしめ、軽く悲鳴を上げる。ちょうど向かいから慌ただしくやってきた自転車が、歩道の水を跳ね上げ私の足首のあたりはさらに濡れた。どこか飲食店で休憩でも取りたいところだったけれど、このまま冷房の効いた室内で汗を蒸発させたらいっぺんに体温も吸い取られてしまうだろう。私は歩き続けた。近くの公園の木の枝は風になぶられ、風景全体が大きく揺れて見えた。雨粒が立て続けに私の腕や足を叩き、身体の表面が冷えていく分、皮膚の裏側は熱く腫れあがる。歩くたびに運動靴のスポンジが音を立て、間違えてカエルを踏んでしまった感触を思い出す。

 暑さのせいか弱り切ったカエルが、アスファルトの上に伸びていた。

小さかった私は、地面を踏みしめるたびに空気が抜けて鳴るあの高い音をどうやって自分の靴の裏から生み出すのかに必死だった。スーパーや公園でよく見かける自分より少し小さな子供たちは、どうやってあの玩具みたいなかわいい音を鳴らしているのだろうか。軽やかな音を立てて走り回る彼らは、私の目には世界を従えているみたいに映った。魔法など、もう信じる年じゃない。きっと何か仕掛けがあるのだろうけれど、自分の動きに合わせて音が鳴る、そんなことが起こったときの全能感はきっと凄い。

 私は靴の裏を地面にこすりつけたり、膝のばねを最大限に使って飛び跳ねたりした。わざわざ質感の違う地面―たとえばデパートのつるつるした床やゴム舗装された遊具の下の地面や、こっそりとリビングのフローリングの上など―で足裏が捉える感触を慎重に比べてみたりした。靴に覆われていたとて、足の裏は敏感にその下の平坦な地面を掴んでいるものなのだ。下腹と土踏まずのあたりに拳を握るほどの力を込めて、かかとからつま先にかけて足裏の筋肉を使い、順番に地面から引き離していくイメージで跳び上がる。そうすると少しだけ、中敷きのあたりから空気がしゅっと抜けていく感覚がした。それでも一度も期待した音が鳴るようなことはなく、躍起になればなるほど中敷きは汗で土踏まずに吸い付いてしまう。いくらやっても満足のいく音は出なかった。

 ねえどうしようこれ。

 にょっきりと生えた後ろ脚は生白く、太ももから脛にかけた曲線が艶めかしかった。あれ、と思って振り返り覗き込んだとき、小さな女の人が寝そべっているように見えたのだ。よく絵本で見かける黄緑色の可愛い生き物と目の前のそれはどうしても結びつかず、嫌に緊張した。

 カエルは仰向けになり、ひし形をかたどるように後ろ脚を投げ出していた。脂汗をかいたような腹にはうっすらと靴の跡が付き、破けた横っ腹から身が零れてアスファルトの上で光っている。短い前脚は、二本足で立った犬が持て余してぶら下げるときのように胸の前にあった。細い足の指の線が一本一本見えた。その間に張った薄い膜は裂けていたが葉脈よりも細い血管がうっすらと通っているのも分かった。

自分の足の指の付け根のあたりにこびりついているさっきの感触の結果がこれだとは信じたくなかった。足の裏はなんの抵抗も受けずに柔らかく沈み込んだ。その後に感じる、かすかな手ごたえ。薄くなったカエルを通して感じる、アスファルトの固さ。途中、トランポリンや萎みかけたボールにはある弾力が一切感じられなかった。理不尽だとはわかっていても、それが恨めしくもあった。

しゃがみ込んでいると日光が背中に重石のようにのしかかり、体中が汗ばんできて自分も体の中のものを吐き出したくなってしまった。

「弔ってあげればいい。」

泣きそうな顔で屈みこんでいた私に、澪は優しく言った。見上げると、照り付ける太陽から私を守るようにして澪が立っていた。逆光で表情は確認できなかったが、後にも先にもこれほど澪の優しい声を聞いたことは無い。

 わかった。そうする。

弔うということの意味はその時の私には分からなかった。でも多分、お墓をつくってあげればいいってことだと直感した。

干からびてしまう前に、この子を涼しくて清潔な土の中に埋めてあげないと。

私が恐る恐る手を伸ばした途端に澪は眉間に皺を寄せた、のが分かった。澪の顔は相変わらず陰っていたけれど。さっきの声とは一変して、ぞっとするほど冷たい声で「なんで触るの。」と言い放った。平坦な口調だった。私の答えなど求めていなく、その声はただ私の行為を咎めていた。

 え。埋めてあげないと、いけないからさ。

私の指先は屍骸の真上で止まりその腹に影を落としている。微動だにしないカエルの上で、小刻みに震える私の指の影。

 「卑怯だよそういうの。」

 なんで。

澪はなんの予備動作もなく、近くの木の幹に停まっていたアブラゼミを片手で掴んだ。アブラゼミは澪の右手で激しく暴れ、体中を最大限震わせて聞く者の心臓を引き絞るような鳴き声を上げた。

澪はそのアブラゼミを器用に左手に持ち替え、右手のひらを私の顔の前にかざした。その手首を、さらりとした黄色っぽい液体が伝う。

 一瞬の事だった。澪は腰を低くして、しゃがんだ私の首に左腕を強く巻き付け、抵抗する隙も与えず右手のひらを私の左頬にこすりつけた。酸の匂いが鼻をつく。澪は自身の膝を私の膝に押し当て、折り曲げた私の脚は完全に固定されている。前のめりにしゃがんでいたせいでうっ血していた額から、下腹に熱が降りて溜まる。頬が引っ張られたことで口は間抜けな形に開き、不意に喉の奥から変な音が出た。左耳元でひっきりなしにセミはわめいている。蝉しぐれから切り取られ拡大された鳴き声が鼓膜を震わせる。澪の手の中で腹を震わせてずっとわめいている。

 頬の上でぬるりと澪の手が動く。手のひらだけでなく、さっき手首に垂れた分も私になすりつける。塗りたくられた生暖かい液体が皮膚組織の中に浸透して、頬から歯茎まで届いてしまうのではないかと思う。それならそっちのほうがいい。その液体はきっと、口のような生暖かい粘膜に流れ込むのがちょうどいい。頬の上で澪の手を滑らせるより、いっそのこと口腔内の粘膜を浸してしまう方が馴染むのでは無いだろうか。澪が私に塗りつけたセミの尿は、夏日に焼かれてむけた肌には明らかに異物で、ヒリヒリと頬を刺激した。

 そんな私の心の中を見透かしたのか、澪はゆっくりと指を私の唇へ滑らせていく。さっきの素早い動作とは打って変わって、もったいをつけているみたいだ。薄目で澪の顔を見た。逆光であるよりも、自分のまつ毛が庇となっていることが原因でこんなに近くの表情が分からない。必死に唇をかみしめ、澪の指を避けるように首を振れば振るほど澪の腕は大蛇のように私の首をきつく締めあげる。

 目を固くつむり、声を上げないように歯を食いしばるけれど、澪が私の唇の端に指をかけ無理やり開こうとしたときは歯の間から細い空気が漏れて悲鳴のように聞こえた。閉じた瞼の裏側に涙がたまり、そのまま眼球を覆って零れなければいいと思ったが、不可抗力だ。セミの尿ととおなじくらい生ぬるい涙が流れて頬の上でぐちゃぐちゃに混ざり合う。

 突然澪は腕をほどいて私の肩を放した。反動で後ろに倒れ、自分の頭が焼かれた地面の上でバウンドするのが分かった。羽虫のような黒くて小さな粒子が視界をちらつく。澪はその視界の中で、まっすぐに立っていた。私が倒れているからか、澪の手足は普段よりすらりと長く見えた。冬の夕方にできる影みたいだ。こんなに暑いのに。

 「こういうことだよ、そっちがしようとしてたことって。」

ちっとも高圧的な口調ではなかった。とても自然だった。

 「こっちと、こいつは、フェアだから。」

そう言ってセミを離す。こっち、は多分澪のこと、こいつ、はおそらくセミのこと。セミはじじっと小さく声を漏らしてから飛び去り、蝉しぐれの中に帰っていった。

 私の視界が粒子で完全に埋め尽くされて、深夜のテレビ画面みたいになる寸前、澪が小さく身震いしてから方向転換して遠ざかっていくのが見えた。

 頭蓋骨が電熱棒で打たれているような鈍い痛みに襲われ咳き込むと、みぞおちから熱い塊がごぼりと溢れた。朝からほとんど食べていないからか首に流れ落ちるそれは案外さらさらしていた。

 こっち。と、そっち。

澪は私たちをそう区別する。私からしたら私がこっちで澪がそっちなのに。

 周囲の雑音が耳の周りで行ったり来たりしてから、徐々に遠ざかっていった。

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