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 視界がぼやける、という表現はよく聞くけれど、実際にそんな体験をしたことが私は無かった。涙で視界がぼやける、霞む、歪む。似通った表現はいくつもあるが、どれも私には理解できない。涙が溢れ出てきた時は私は咄嗟に瞬きをして涙を払い落とすように心がけているから、常に目の前はクリアだ。もちろん、涙が迫り上がって下瞼にとどまっているその瞬間は、魚眼レンズを通して覗いているかのように風景が変形する。それを人々は視界の歪みというのだろうか、しかしまつ毛でその涙粒を払い落とす落とすその瞬間、魚眼レンズにひびが入り砕け散るように風景が割れる、そう、視界が割れる、その表現の方が私には馴染むのだ。私の中では、涙は溢れ上がるものでも流れるものでもなく、ただただ払い落とすべきものだからだ。視界を覆い、まつ毛の一撃を喰らった瞬間に粉々になる脆いガラス、それが私の涙。唾棄すべきもの。

 だから目が覚めた時は、私は視界がぼやけるという初めての経験に戸惑い、自分の頬を人差し指で拭った。しかしそこは鈍く痛むのみで、全く濡れていない。泣いているわけでは無いようだ。なぜ、と体を起こそうとすると節々が骨を削られるような痛みに襲われて私は再び、仰向けに寝転ぶ。硬いが体に馴染んだマットレスが、私の背骨の形に窪むのがわかった。

 「まだ寝てなよ、お墓はちゃんと作っといたからさ。」

 声が先に届いた。続いて不明瞭なシルエット。何度か瞬きをしたのちに焦点があってくると澪の鼻先が私の視界を覆い尽くす。

 澪。

 生まれて初めてぼやけた視界の先に、澪ではなく他の誰かの姿があったのなら、私はどうしようもなく傷ついただろう。

 澪がいてよかった。

 澪は無言のまま私の左手をとり、親指の、甘皮から半月型の白い箇所にかけてを繰り返し撫でてくれた。私は物心ついた時からそこを撫でられるのが好きだった。夜は枕カバーの端をそこにあてがわなければ眠れず、登園する時も、親戚の家を尋ねるときも、ライナスのように、お気に入りの枕カバーを持ち歩き、はじっこを触っていなければ不安に苛まれてしまうのだった。就学するまでにはその癖は消えるだろうと気長に構えている母親の表向きのスタンスは、実は極度の心配症に裏付けられていたものだったようで、就学時は母の不安の臨界点を超えてしまい、私はそれを手放すようにどつかれながらさまざまな場所に連れて行かれてさまざまな大人が母を宥めるのを、やはり左の親指の甘皮を大事そうに撫でながら見ているしかなかったのだ。

 私が安心して目を細めると、澪はデスクに置いてあった例のMP3を手に取り、私の左耳にイヤホンを差し込んだ。自身は私が横たわる腰高のベッドに顔がくるようにかがみ込み、右耳にイヤホンを突っ込む。四分の三拍子の旋律は、秘密めいた空気感を作り出す。澪に突き飛ばされた時の頭の痛みは、まだ三半規管の奥にうずくまり続け、幾重にも重ねた羽毛布団の下に隠した一粒の豆のような違和感を残していたが、旋律に体を委ねることだけに意識を集中させると、瞼の重みに逆らえなくなってきた。再び眠りに落ちる寸前、庭の一角に澪が立てたらしい、「カエルのお墓」と下手くそな字で書かれたお札を見つけた。

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