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 「ほんと、梅雨は嫌になる。」

 ほんとそれな、休日も家に籠っていられる正当な理由はできるけど、雨が伝って窓ガラスが爛れていくように見える時さ、まるで自分も溶けて水たまりになっちゃうような気がしない?酸性雨が皮膚も内臓もゆっくり溶かしていって、最後に私がいた場所に残るのは穏やかな水面だけ。

「焼身自殺の現場には死体の跡がくっきりと残るでしょ。焼かれて死んだら地面に自分の永遠の影を残すことができるんだよ。」

 だからなに?水たまりは蒸発してしまうから私の、死に対する穏やかな発想は魅力的じゃない、炎を被って自分の影を落として死んでいくという澪の、その発想の方が情熱的で魅力的だって言いたいわけ?

「別にこっちは死に情熱も何も求めてなんかいないよ。それってさ、生への執着の裏返しじゃん。西日がさ、あれだけ強い光放つのってもうなんか自分が沈んでいくことに対する恨みとしか思えないよね。自分の爪痕を残すためにはそこらじゅう焼け野原にしないと気が済まないみたいじゃん。ああいうの、きつい。どうせまた明日昇ってこれるくせに。こっちは生にも死にも無気力だから、自分は彼みたいにはならない。消えるときはすっと誰にもばれずに消えたい。忘れ物なんてせずにさ。」

 「彼」というのは西日のことなのだと数秒遅れて理解した。澪は会話の端々に比喩を使う。投げやりな口調に反して、文学少女みたいな表現を使う。

 じゃあなんでそんな例え持ちだしてきたの?

澪の瞳に、怯えの色がよぎった。この弱気な表情に理由は特にない。特に。澪はいけしゃあしゃあと死について語った後、必ずこういう顔を見せる。罪悪感とか恐怖とか敗北感とかネガティブな言葉はこの世に山ほどあるけれど、澪には澪にしか分からない緊張感でできた世界があって、澪はその中で澪特有の感情に襲われ、そういう顔を見せる。私と話した後、我に返ったようにその世界に閉じこもって、こういう顔になる。だから澪のその表情の理由は、私が探る必要は無い。澪の世界に踏み込むつもりは無かった。

「まあ、理由は無いけど。」

澪は虚勢を張るように私の目を見据えてから居住まいを正した。胡坐をかいた澪の膝に傾いた日の光が落ちて、角ばった膝の輪郭に沿って産毛が薄く発光している。雨雲に遮られてその日の西日は頼りなかった。

「なんか影踏みがしたくなっただけ。」

 なにそれ、わけがわからない。

私が笑うと

「無理だよね、こんな天気じゃ。」

そう言って目を伏せる。瞼が小さく痙攣していた。

澪大丈夫?疲れてるんじゃない。

「平気だけど。」

そう。ならいいけど。

「だるい。」

澪が頭を掻きむしる。「こういう日は。」ぶっきらぼうだが、私に対する悪口では無いのだと、慌てて取ってつけてくれた言葉だった。一度掻きあげられた黒髪が額にさらさらと流れ落ちる。折り曲げていた膝を伸ばして立ち上がると、澪はMP3プレーヤーにイヤホンを繋ぎ、部屋の隅、本棚に遮られて入り口からは死角になっている場所で体育座りをして目を瞑った。澪の定位置だ。

 私にも聴かせてよ。

そう頼み込むと、澪は迷惑そうに目を開けて私を見上げ、片耳のイヤホンを外して私を招き入れた。澪が差し込んでくれたイヤホンから、聴き馴染んだピアノの独奏曲が耳の中に重く垂れ込める。

 「ゆっくりと、苦しみをもって」

 澪と私を繋ぐ導線は、サティを流すにはあまりにも無機質だ。少しずつ少しずつ、老いていく、生き物。立ち止まることは許されないという穏やかな強迫観念は、不確かな暗がりのなかで私たちの歩を進めさせるにはあまりにも頼りないものだけれど、私たちのおぼつかない足取りは惰性によるものではなく、至って切実なもの。西日の凄烈な光さえ隠してしまう厚い雨雲は、寒々しい夜に私たちを包み込む、暖かな毛布。私たちは、枯葉剤のせいで二対の頭をもった双子。ゆっくり、苦しみながら、同時に老いていく、生き物。私たちの間に立ち込めたジムノペディは、そんな錯覚を起こさせる。こうしている間、私は密かに世界を「私と澪」と「その他」に分類する。

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