ゆっくりと、葬って
ハナダイロ
ゆっくりと、葬って
太陽神アポロンや葡萄酒と豊穣の神、ディオニュソースを讃えるために大勢の全裸の青年が円形の広場で踊り狂う。若者たちは鍛錬された全身の筋肉を惜しげもなく使い、神々を讃える詩を朗誦し、合唱する。彼らが舞うたび跳ねるたび、艶やかな肌から流れ落ちた汗は焼けた広場の石畳にかすかな湯気を立てながら吸い込まれる。豚、うさぎ、ガチョウ、生贄を定めるその時、首肯いた雄の家畜は喜んで自ら生贄を引き受けたと見なされ祭壇にて頭を鞭打たれる、萎びた生贄は追い打ちをかけるように頸動脈をナイフで裂かれ、滴る血は無発酵の硬いパンを浸したワインやミルクと共に、すっかり酩酊した青年たちの舌に受け止められる。ギュムノパイディア、古代ギリシアの祭典。サティはこの祭りの様子が描かれた壺から「ジムノペディ」の曲想を得たというが、三曲構成のその曲には一番から三番までこんな指示がついている。第一番、「ゆっくりと苦しみをもって」、第二番「ゆっくりと悲しみを込めて」、第三番、「ゆっくりと厳粛に」。その曲調はニ長調とも口調調ともつかず、至って静謐なメロディーだ。サティの曲解か、あるいは祭典に対する皮肉を込めたのか私の感性の問題か、ギュムノパイディアのイメージとジムノペディは私の中で噛み合わない。
「ほんと、梅雨は嫌になる。」
ほんとそれな、休日も家に籠っていられる正当な理由はできるけど、雨が伝って窓ガラスが爛れていくように見える時さ、まるで自分も溶けて水たまりになっちゃうような気がしない?酸性雨が皮膚も内臓もゆっくり溶かしていって、最後に私がいた場所に残るのは穏やかな水面だけ。
「焼身自殺の現場には死体の跡がくっきりと残るでしょ。焼かれて死んだら地面に自分の永遠の影を残すことができるんだよ。」
だからなに?水たまりは蒸発してしまうから私の、死に対する穏やかな発想は魅力的じゃない、炎を被って自分の影を落として死んでいくという澪の、その発想の方が情熱的で魅力的だって言いたいわけ?
「別にこっちは死に情熱も何も求めてなんかいないよ。それってさ、生への執着の裏返しじゃん。西日がさ、あれだけ強い光放つのってもうなんか自分が沈んでいくことに対する恨みとしか思えないよね。自分の爪痕を残すためにはそこらじゅう焼け野原にしないと気が済まないみたいじゃん。ああいうの、きつい。どうせまた明日昇ってこれるくせに。こっちは生にも死にも無気力だから、自分は彼みたいにはならない。消えるときはすっと誰にもばれずに消えたい。忘れ物なんてせずにさ。」
「彼」というのは西日のことなのだと数秒遅れて理解した。澪は会話の端々に比喩を使う。投げやりな口調に反して、文学少女みたいな表現を使う。
じゃあなんでそんな例え持ちだしてきたの?
澪の瞳に、怯えの色がよぎった。この弱気な表情に理由は特にない。特に。澪はいけしゃあしゃあと死について語った後、必ずこういう顔を見せる。罪悪感とか恐怖とか敗北感とかネガティブな言葉はこの世に山ほどあるけれど、澪には澪にしか分からない緊張感でできた世界があって、澪はその中で澪特有の感情に襲われ、そういう顔を見せる。私と話した後、我に返ったようにその世界に閉じこもって、こういう顔になる。だから澪のその表情の理由は、私が探る必要は無い。澪の世界に踏み込むつもりは無かった。
「まあ、理由は無いけど。」
澪は虚勢を張るように私の目を見据えてから居住まいを正した。胡坐をかいた澪の膝に傾いた日の光が落ちて、角ばった膝の輪郭に沿って産毛が薄く発光している。雨雲に遮られてその日の西日は頼りなかった。
「なんか影踏みがしたくなっただけ。」
なにそれ、わけがわからない。
私が笑うと
「無理だよね、こんな天気じゃ。」
そう言って目を伏せる。瞼が小さく痙攣していた。
澪大丈夫?疲れてるんじゃない。
「平気だけど。」
そう。ならいいけど。
「だるい。」
澪が頭を掻きむしる。「こういう日は。」ぶっきらぼうだが、私に対する悪口では無いのだと、慌てて取ってつけてくれた言葉だった。一度掻きあげられた黒髪が額にさらさらと流れ落ちる。折り曲げていた膝を伸ばして立ち上がると、澪はMP3プレーヤーにイヤホンを繋ぎ、部屋の隅、本棚に遮られて入り口からは死角になっている場所で体育座りをして目を瞑った。澪の定位置だ。
私にも聴かせてよ。
そう頼み込むと、澪は迷惑そうに目を開けて私を見上げ、片耳のイヤホンを外して私を招き入れた。澪が差し込んでくれたイヤホンから、聴き馴染んだピアノの独奏曲が耳の中に重く垂れ込める。
「ゆっくりと、苦しみをもって」
澪と私を繋ぐ導線は、サティを流すにはあまりにも無機質だ。少しずつ少しずつ、老いていく、生き物。立ち止まることは許されないという穏やかな強迫観念は、不確かな暗がりのなかで私たちの歩を進めさせるにはあまりにも頼りないものだけれど、私たちのおぼつかない足取りは惰性によるものではなく、至って切実なもの。西日の凄烈な光さえ隠してしまう厚い雨雲は、寒々しい夜に私たちを包み込む、暖かな毛布。私たちは、枯葉剤のせいで二対の頭をもった双子。ゆっくり、苦しみながら、同時に老いていく、生き物。私たちの間に立ち込めたジムノペディは、そんな錯覚を起こさせる。こうしている間、私は密かに世界を「私と澪」と「その他」に分類する。
雨を吸収したスニーカーはずっしりと重く私の足に吸い付き、泥のなかに足が埋め込まれてしまった気分だった。アスファルトに張られた水は自動車が通るたびに小さく飛沫を上げながら割かれ、穏やかな水面が現れる前に次の自動車がやってきて再び白い泡を噴き上げる。国道の車通りは激しかった。赤や白やオレンジの何百ものヘッドライトが水面に反射し、光が増幅される。太陽が出ている日よりもずっと明るかった。
運送業者の大きなトラックが真横を通る時、腰から足元にかけて水を浴びてしまった。私は傘の柄を握りしめ、軽く悲鳴を上げる。ちょうど向かいから慌ただしくやってきた自転車が、歩道の水を跳ね上げ私の足首のあたりはさらに濡れた。どこか飲食店で休憩でも取りたいところだったけれど、このまま冷房の効いた室内で汗を蒸発させたらいっぺんに体温も吸い取られてしまうだろう。私は歩き続けた。近くの公園の木の枝は風になぶられ、風景全体が大きく揺れて見えた。雨粒が立て続けに私の腕や足を叩き、身体の表面が冷えていく分、皮膚の裏側は熱く腫れあがる。歩くたびに運動靴のスポンジが音を立て、間違えてカエルを踏んでしまった感触を思い出す。
暑さのせいか弱り切ったカエルが、アスファルトの上に伸びていた。
小さかった私は、地面を踏みしめるたびに空気が抜けて鳴るあの高い音をどうやって自分の靴の裏から生み出すのかに必死だった。スーパーや公園でよく見かける自分より少し小さな子供たちは、どうやってあの玩具みたいなかわいい音を鳴らしているのだろうか。軽やかな音を立てて走り回る彼らは、私の目には世界を従えているみたいに映った。魔法など、もう信じる年じゃない。きっと何か仕掛けがあるのだろうけれど、自分の動きに合わせて音が鳴る、そんなことが起こったときの全能感はきっと凄い。
私は靴の裏を地面にこすりつけたり、膝のばねを最大限に使って飛び跳ねたりした。わざわざ質感の違う地面―たとえばデパートのつるつるした床やゴム舗装された遊具の下の地面や、こっそりとリビングのフローリングの上など―で足裏が捉える感触を慎重に比べてみたりした。靴に覆われていたとて、足の裏は敏感にその下の平坦な地面を掴んでいるものなのだ。下腹と土踏まずのあたりに拳を握るほどの力を込めて、かかとからつま先にかけて足裏の筋肉を使い、順番に地面から引き離していくイメージで跳び上がる。そうすると少しだけ、中敷きのあたりから空気がしゅっと抜けていく感覚がした。それでも一度も期待した音が鳴るようなことはなく、躍起になればなるほど中敷きは汗で土踏まずに吸い付いてしまう。いくらやっても満足のいく音は出なかった。
ねえどうしようこれ。
にょっきりと生えた後ろ脚は生白く、太ももから脛にかけた曲線が艶めかしかった。あれ、と思って振り返り覗き込んだとき、小さな女の人が寝そべっているように見えたのだ。よく絵本で見かける黄緑色の可愛い生き物と目の前のそれはどうしても結びつかず、嫌に緊張した。
カエルは仰向けになり、ひし形をかたどるように後ろ脚を投げ出していた。脂汗をかいたような腹にはうっすらと靴の跡が付き、破けた横っ腹から身が零れてアスファルトの上で光っている。短い前脚は、二本足で立った犬が持て余してぶら下げるときのように胸の前にあった。細い足の指の線が一本一本見えた。その間に張った薄い膜は裂けていたが葉脈よりも細い血管がうっすらと通っているのも分かった。
自分の足の指の付け根のあたりにこびりついているさっきの感触の結果がこれだとは信じたくなかった。足の裏はなんの抵抗も受けずに柔らかく沈み込んだ。その後に感じる、かすかな手ごたえ。薄くなったカエルを通して感じる、アスファルトの固さ。途中、トランポリンや萎みかけたボールにはある弾力が一切感じられなかった。理不尽だとはわかっていても、それが恨めしくもあった。
しゃがみ込んでいると日光が背中に重石のようにのしかかり、体中が汗ばんできて自分も体の中のものを吐き出したくなってしまった。
「弔ってあげればいい。」
泣きそうな顔で屈みこんでいた私に、澪は優しく言った。見上げると、照り付ける太陽から私を守るようにして澪が立っていた。逆光で表情は確認できなかったが、後にも先にもこれほど澪の優しい声を聞いたことは無い。
わかった。そうする。
弔うということの意味はその時の私には分からなかった。でも多分、お墓をつくってあげればいいってことだと直感した。
干からびてしまう前に、この子を涼しくて清潔な土の中に埋めてあげないと。
私が恐る恐る手を伸ばした途端に澪は眉間に皺を寄せた、のが分かった。澪の顔は相変わらず陰っていたけれど。さっきの声とは一変して、ぞっとするほど冷たい声で「なんで触るの。」と言い放った。平坦な口調だった。私の答えなど求めていなく、その声はただ私の行為を咎めていた。
え。埋めてあげないと、いけないからさ。
私の指先は屍骸の真上で止まりその腹に影を落としている。微動だにしないカエルの上で、小刻みに震える私の指の影。
「卑怯だよそういうの。」
なんで。
澪はなんの予備動作もなく、近くの木の幹に停まっていたアブラゼミを片手で掴んだ。アブラゼミは澪の右手で激しく暴れ、体中を最大限震わせて聞く者の心臓を引き絞るような鳴き声を上げた。
澪はそのアブラゼミを器用に左手に持ち替え、右手のひらを私の顔の前にかざした。その手首を、さらりとした黄色っぽい液体が伝う。
一瞬の事だった。澪は腰を低くして、しゃがんだ私の首に左腕を強く巻き付け、抵抗する隙も与えず右手のひらを私の左頬にこすりつけた。酸の匂いが鼻をつく。澪は自身の膝を私の膝に押し当て、折り曲げた私の脚は完全に固定されている。前のめりにしゃがんでいたせいでうっ血していた額から、下腹に熱が降りて溜まる。頬が引っ張られたことで口は間抜けな形に開き、不意に喉の奥から変な音が出た。左耳元でひっきりなしにセミはわめいている。蝉しぐれから切り取られ拡大された鳴き声が鼓膜を震わせる。澪の手の中で腹を震わせてずっとわめいている。
頬の上でぬるりと澪の手が動く。手のひらだけでなく、さっき手首に垂れた分も私になすりつける。塗りたくられた生暖かい液体が皮膚組織の中に浸透して、頬から歯茎まで届いてしまうのではないかと思う。それならそっちのほうがいい。その液体はきっと、口のような生暖かい粘膜に流れ込むのがちょうどいい。頬の上で澪の手を滑らせるより、いっそのこと口腔内の粘膜を浸してしまう方が馴染むのでは無いだろうか。澪が私に塗りつけたセミの尿は、夏日に焼かれてむけた肌には明らかに異物で、ヒリヒリと頬を刺激した。
そんな私の心の中を見透かしたのか、澪はゆっくりと指を私の唇へ滑らせていく。さっきの素早い動作とは打って変わって、もったいをつけているみたいだ。薄目で澪の顔を見た。逆光であるよりも、自分のまつ毛が庇となっていることが原因でこんなに近くの表情が分からない。必死に唇をかみしめ、澪の指を避けるように首を振れば振るほど澪の腕は大蛇のように私の首をきつく締めあげる。
目を固くつむり、声を上げないように歯を食いしばるけれど、澪が私の唇の端に指をかけ無理やり開こうとしたときは歯の間から細い空気が漏れて悲鳴のように聞こえた。閉じた瞼の裏側に涙がたまり、そのまま眼球を覆って零れなければいいと思ったが、不可抗力だ。セミの尿ととおなじくらい生ぬるい涙が流れて頬の上でぐちゃぐちゃに混ざり合う。
突然澪は腕をほどいて私の肩を放した。反動で後ろに倒れ、自分の頭が焼かれた地面の上でバウンドするのが分かった。羽虫のような黒くて小さな粒子が視界をちらつく。澪はその視界の中で、まっすぐに立っていた。私が倒れているからか、澪の手足は普段よりすらりと長く見えた。冬の夕方にできる影みたいだ。こんなに暑いのに。
「こういうことだよ、そっちがしようとしてたことって。」
ちっとも高圧的な口調ではなかった。とても自然だった。
「こっちと、こいつは、フェアだから。」
そう言ってセミを離す。こっち、は多分澪のこと、こいつ、はおそらくセミのこと。セミはじじっと小さく声を漏らしてから飛び去り、蝉しぐれの中に帰っていった。
私の視界が粒子で完全に埋め尽くされて、深夜のテレビ画面みたいになる寸前、澪が小さく身震いしてから方向転換して遠ざかっていくのが見えた。
頭蓋骨が電熱棒で打たれているような鈍い痛みに襲われ咳き込むと、みぞおちから熱い塊がごぼりと溢れた。朝からほとんど食べていないからか首に流れ落ちるそれは案外さらさらしていた。
こっち。と、そっち。
澪は私たちをそう区別する。私からしたら私がこっちで澪がそっちなのに。
周囲の雑音が耳の周りで行ったり来たりしてから、徐々に遠ざかっていった。
視界がぼやける、という表現はよく聞くけれど、実際にそんな体験をしたことが私は無かった。涙で視界がぼやける、霞む、歪む。似通った表現はいくつもあるが、どれも私には理解できない。涙が溢れ出てきた時は私は咄嗟に瞬きをして涙を払い落とすように心がけているから、常に目の前はクリアだ。もちろん、涙が迫り上がって下瞼にとどまっているその瞬間は、魚眼レンズを通して覗いているかのように風景が変形する。それを人々は視界の歪みというのだろうか、しかしまつ毛でその涙粒を払い落とす落とすその瞬間、魚眼レンズにひびが入り砕け散るように風景が割れる、そう、視界が割れる、その表現の方が私には馴染むのだ。私の中では、涙は溢れ上がるものでも流れるものでもなく、ただただ払い落とすべきものだからだ。視界を覆い、まつ毛の一撃を喰らった瞬間に粉々になる脆いガラス、それが私の涙。唾棄すべきもの。
だから目が覚めた時は、私は視界がぼやけるという初めての経験に戸惑い、自分の頬を人差し指で拭った。しかしそこは鈍く痛むのみで、全く濡れていない。泣いているわけでは無いようだ。なぜ、と体を起こそうとすると節々が骨を削られるような痛みに襲われて私は再び、仰向けに寝転ぶ。硬いが体に馴染んだマットレスが、私の背骨の形に窪むのがわかった。
「まだ寝てなよ、お墓はちゃんと作っといたからさ。」
声が先に届いた。続いて不明瞭なシルエット。何度か瞬きをしたのちに焦点があってくると澪の鼻先が私の視界を覆い尽くす。
澪。
生まれて初めてぼやけた視界の先に、澪ではなく他の誰かの姿があったのなら、私はどうしようもなく傷ついただろう。
澪がいてよかった。
澪は無言のまま私の左手をとり、親指の、甘皮から半月型の白い箇所にかけてを繰り返し撫でてくれた。私は物心ついた時からそこを撫でられるのが好きだった。夜は枕カバーの端をそこにあてがわなければ眠れず、登園する時も、親戚の家を尋ねるときも、ライナスのように、お気に入りの枕カバーを持ち歩き、はじっこを触っていなければ不安に苛まれてしまうのだった。就学するまでにはその癖は消えるだろうと気長に構えている母親の表向きのスタンスは、実は極度の心配症に裏付けられていたものだったようで、就学時は母の不安の臨界点を超えてしまい、私はそれを手放すようにどつかれながらさまざまな場所に連れて行かれてさまざまな大人が母を宥めるのを、やはり左の親指の甘皮を大事そうに撫でながら見ているしかなかったのだ。
私が安心して目を細めると、澪はデスクに置いてあった例のMP3を手に取り、私の左耳にイヤホンを差し込んだ。自身は私が横たわる腰高のベッドに顔がくるようにかがみ込み、右耳にイヤホンを突っ込む。四分の三拍子の旋律は、秘密めいた空気感を作り出す。澪に突き飛ばされた時の頭の痛みは、まだ三半規管の奥にうずくまり続け、幾重にも重ねた羽毛布団の下に隠した一粒の豆のような違和感を残していたが、旋律に体を委ねることだけに意識を集中させると、瞼の重みに逆らえなくなってきた。再び眠りに落ちる寸前、庭の一角に澪が立てたらしい、「カエルのお墓」と下手くそな字で書かれたお札を見つけた。
国道に十字にまたがる歩道橋を渡る。片手で冷たい手すりに触れると、指先が鈍く痺れた。風が私のスカートを巻き上げて、雨で髪が張り付いた首筋の上を吹き荒ぶ。道路には、さらに歩道橋に平行に首都高速が流れていて、大型車が灰色の煙を吐き出しながら走る。雨の中の高速は、座礁した巨大なクジラが横たわっているようだ。仲間とはぐれたった一人、砂漠のように熱い砂浜に打ち上げられ風化しそれだけ残ったクジラの骨組み。私はよくクジラの骨の下に逃げ込んだ。それは私を外気の棘から守った。クジラの骨の下に居る時だけ私は孤独を許された。振り込んでくる雨は私の頬が私の涙で湿る前に濡らしてくれた。騒音に耳を澄ませる。国道と高速道路に挟まれたこの場所に一人で立っていると、自分は忙しない時間の狭間で宙ぶらりんになっていると思う。上下で行き交う時間の摩擦を受けて、私はこのまますり潰されるのだと思う。傘を閉じてクジラの骨の下に佇む。私はそうしている間は、何の制約も受けない感情でいることができた。雨に叩かれ裏側が熱を帯びた頬を冷えた両手で包み込み、孤独を味方につける。そうすればもう私はちっとも寂しくない。自分が世界にひとりぼっちなのだと確信している間は甘やかな気持ちになれる。孤独をものにすることとは孤独に依ること。自分が孤独にさえ見放されていると思う瞬間ほど辛いことはない。私は孤独を自分の中にしたためておきたい。
「そっちにはさ、学校も友達も私もいるじゃん。こっちにはなにも残ってないよ。こっちはそっちの愚痴でさえ吐く相手いないんだから。」
澪は常に孤独をものにしたがっていた。澪の孤独とは、物理的に一人になることだ。だから澪はよく私を拒否した。そうしておきながら、私にはそれを許さない。孤独は誰にもあげない。澪は孤独がどれだけ甘やかな気持ちをもたらしてくれるかを知っていたからだ。寂しさも涙も怒りも死も全て自分のもの、そっちには渡さないから。澪はそう言わんばかりだった。しかし孤独がもたらす頬の湿りは私の心も潤したから、私は澪からそれらを奪いたかった。自分だけが浸るな、気に食わない。
澪が携えていたのは絶対的な孤独だった。一種の驕慢だ、痛々しい。けれど孤独が自分だけを取り巻いていると信じて疑わない澪の自意識の過剰ささえ羨ましいのだ私は。私の孤独は相対的なもので、周囲の人間が飼い慣らしている孤独や不幸によって常に姿を変えた。私はその度に苦しんだ。私は澪のように物理的な距離を孤独と捉えるのではなく、精神的な孤立を孤独と捉えるようにした。澪を取り巻いているのは他人の接近で簡単に破壊できるやわな孤独だ。頑固で単純な澪は愛おしい。そう思うことで私は澪に勝っている気分に浸る。こんなことを話したら、人からは不幸体質だと笑われるだろうから誰にも言わない。澪にはなおさら。だから私は無条件に頬を湿らせてくれる雨の中のクジラの骨の下が好き。
クジラは氷原に迷い込み、氷河の裂け目から差し込む一筋の光は細く頼りない。このまま私は暗い海の底に沈んで、息絶えるのだと錯覚する。冷たさに皮膚感覚が麻痺していくのに伴って、体の内側が熱く腫れ上がっていくのを感じる。隅々に膿が行き渡り、高熱でうなされた私の体はよまいごとを並べ続ける。
I字型の剃刀を手首の皺に沿って走らせると、皮膚の上に赤い点がふつふつと並んで浮かび上がる。小さな発疹のようだったそれらが、刃が肉に本格的に食い込んだその途端に滲み出し一筋の線を繋ぎ、しまいにはその線もどくどくと脈打ちながら決壊していくあの感覚は、奇妙な恍惚状態を引き起こす。膿が押し出されて私のよまいごとも止む。頭の芯の火照りも冷めていく。水面に浮かび上がってやっと私は息ができる。
澪がやったのだと言ったら親はなんだか悍ましいものでも見るような顔つきで再び様々な場所に私を連れて行って、様々な大人と話をさせられた。身体中を冒している膿を押し出すため、息継ぎをするため、そう説明したら頬をはたかれた。母はヒステリーに陥り、私の肩に爪を食い込ませそれって誰なのよそんなのいないわよあんたがおかしいのよあんたが自分でしたことなのよおと泣き叫ぶ。父は怯えるような目つきでそれを眺めているだけだ。カフカの、朝突然虫に様変わりしていた青年はきっとこんな気持ちだろうか。いつも通りの自分を、周囲は突然拒絶し始める。変わったのは自分ではなく自分を取り巻く世界の方だ、宙ぶらりんで心細い。彼には唯一、理解者の妹がいてよかった。こんな時に限って、澪は現れてくれない。澪が私のためにしてくれたことなのだから怒らないで欲しいと言うと、母は私を突き飛ばしてこっちが限界なのよと夜なのに家を飛び出して行った。でもまあ、手ぶらだったからすぐに帰ってくるだろうと思う。
自室に入ると、澪が両耳にイヤホンを差し込んだまま、定位置にうずくまっていた。
澪。
呼びかけると顔を上げる。
「修羅場だったね。」
まあ、ちょっと。なんか怖がらせちゃったみたい。
澪は端によって私のためのスペースを空けてくれた。永遠にジムノペディを聴いていると、心地よい倦怠感に包まれる。酔うとペシミストになってしまう母のくぐもった泣き声を、明け方のサティの奥に聞く。
座礁したクジラの骨の下に佇みながら、私は澪の姿を探していた。近所の公園、図書館、コンビニ、駐車場、澪と二人で出かけたところは全て探した。行動範囲の狭い私たちのことだから、しらみつぶしに場所を巡っていけば必ず会えるだろうと慢心していた。澪がいなければ私が息継ぎをできないように、澪も私がいなければイヤホンを外して外に出かけることはできないはずだと確信していた。しかしこの歩道橋には、一度たりとも澪を連れてきたことはなかった。忙しない道路と高速の間に無心になってぶら下がることが自分には必要だったのだ。
だから、歩道橋がちょうど分岐するところの欄干に、澪の姿を認めた時は、自分の秘密基地が侵略されたことへの怒りではなく、ついに自分と澪の境界がなくなってしまったのだと諦めにも似た気持ちになった。
道路を覗き込むような形で腰から二つ折りになって欄干にぶら下がった澪の背中は、土砂降りの中取り込むのを忘れられたシーツのように所在ない。
澪。
その力ない背中に呼びかけながら私は澪と同じ姿勢になってみる。道路では、赤やオレンジや白の光が、すり替わるように両方向に流れていく。
横に顔を向けると、水浴び中にうっかり溺死したカラスのように、水滴を滴らせ続ける黒髪に覆われた澪の顔がある。触れたら、卑怯だ、と怒るだろうか。死んだカエルに触れようとしたら澪は怒った。触れても無抵抗と分かりきっているものに安易に触ることは干渉してはいけない部分に踏み込むことと同じ、無理やり汚いものを塗りつけるような、暴力と同じだということなのだろうか。数年前、祖母が亡くなった時、遺産分割がフェアではないと母と叔母の両者の間で揉め事が起こり、母は自分の死んだ母親に対する悪口を言っていた。「死んだ人のこと悪く言っちゃいけないのに。」とその時澪は独りごちていた。世の中、愛し合い恨み合い褒め合い貶しあい噂し合いながら人々は相互に関係を築いていく。片方が死んだらそれは成り立たず、一方通行の好意も悪意も、行き着く場を失いそれは世界の暗黙の秩序を狂わせる。だから、死んだ人の悪口はもちろん、懐古話さえ良からぬこと、それが澪の考えだった。
澪、ごめんね。
私は冷たくなった澪に触れた。澪の背後から抱き抱えるようにして欄干から離すと、まだ弾力のある皮膚に私の指が沈み込み、その感覚に鳥肌がたった。重力に逆らわず、しなだれかかってくる澪を背中におぶると、色を失った澪の唇が私の頬の間近にあった。
戦時中、生き残った自分は腐乱死体を、その唇や傷口から湧き出る蛆や集ってくる蝿や強烈な匂いに何度も嘔吐しながらおぶって安置所まで運んだ、何往復もした、生き残った兵士は少なかったから、死んだ人の何百万分の一くらいしか生きているのはいなかったから何百回も往復しなければならなかった、その度に吐かなければならなかった、黒焦げのもあったし、とても人とは思えない、茹蛸みたいに真っ赤っかになってるのもあったし、抱き上げようと腕を引っ張ると粘液を滴らせながらずるっと皮膚が剥がれて何度試してもおぶれないものもあった、だから初めて助かる見込みのある少女をおぶった時、自分の顔の横にあるのは黒焦げでも茹蛸でも爛れたのでもなく、血潮の通った人間だと実感した時、どれだけ嬉しかったか。
曽祖父の話を思い出す。私は、再び、澪以外の誰か、生きている誰かをこの背中におぶることはあるのだろうか。
私は高速道路のおかげで雨が遮られる場所まで戻った。
ここさ、澪来るの初めてでしょ。
慎重にかがみ込んでから澪を濡れた歩道橋に横たわらせ、肩を撫でるようにして澪の服を脱がせた。澪が羽織っていたシャツの胸ポケットからプレイヤーが転がりでるのと同時に、澪の耳からもイヤホンが外れた。座ったまま澪の上半身だけを抱え起こそうとするが、澪はびしょ濡れのコンクリートに同化しようとするかのように重たく、うまくいかない。諦めて再び澪を仰向けに寝かせ、私も澪の薄い体に覆い被さる。澪の感触は、私にとてつもない安心感をもたらしたが、これを味わってしまってはもうこの先一生、この安息には巡り会えないと思って怖くなる。澪の肩に縋りつき、お願いだから置いてかないでと間抜けで、ベタで、役立たずな言葉を繰り返し、息継ぎをするように上を向くと高速道路を残して自分だけがぐんぐん落下していくように思えてまた澪にしがみつく。嗚咽が喉を穿って、私の視界も砕け散った。薄いガラスが何枚も何枚も現れて視界を覆うが、その度に割れて破片となり澪の裸に突き刺さっていく。澪の鎖骨の窪みに私から流れ落ちる涙が溜まる。もうあと少しでこの涙も乾ききってしまうのだろうか、このガラスの破片が突き刺さる先にあるのは澪の身体ではなく、歩道橋の地面で、私の涙は雨粒と同じように公平に吸収されてしまうのだろうか。
私は再び澪の上半身を抱え起こす。首が座っていない、雨を吸収しすぎて重みを増した澪を引き止めておこうとその薄い肩を掻き抱くと、二人分の重さを受け止められなくなり私は仰向けに倒れた。視界が九十度回転する。軽い眩暈とともに、クジラの骨組みが視界に広がる。澪の髪の毛が、私の首に張り付く。澪を感じられて安心する気持ちもある一方、その感触があまりにも鮮明なことに戦慄している自分がいる。澪の背骨の窪みに自分の人差し指を走らせる。彫刻刀ですっと入れたように完璧な線だった。
そのままの姿勢で、転がったオーディオプレイヤーを手繰り寄せ、左耳にイヤホンを差し込む。濡れた髪を耳にかけてやり、片方は澪の右耳に入れる。私たちの上下を行き交う自動車の轟音に負けないよう、かちかちとボタンを押して音量を上げる。
ゆっくりと、苦しみをもって、サティのジムノペディが流れ出す。今この瞬間にもゆっくりと朽ちていっている澪と、まつ毛で涙を払い落とし続けることしかできない愚かな私をかろうじて繋ぎ止めていてくれる。夜が近づいて少し衰えた自動車の騒音を、片耳のサティの奥に聞く。
ゆっくりと、葬って ハナダイロ @yaki_yaki
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