3 この距離はいったい!?


 週に一度の学園の休日。

 普段のイリーナであれば、「カリス様に会えない……」と落ちこんでいるところだ。


 しかし、今日ばかりはちがっていた。


(どうしましょう、どうしましょう、どうしましょう……)


 朝早くに起きてからというもの、イリーナはずっと落ち着きがなかった。

 部屋の中を歩き回って、3分に一度は姿見に自分の格好を映す。


「イリス! 私のかっこう、変ではないかしら?」


 メイドのイリスにこの質問をするのも、これが5回目だ。


「はい、お嬢様。とてもよくお似合いですよ。カリス様もきっとそうお思いになると思います」


 イリスに笑顔で励まされても、イリーナは安心できなかった。


 先週、家に招待状が届けられたのだ。そこにはカリスの直筆で、「週末、家にお茶を飲みに来ませんか」というお誘いのメッセージが書かれていた。


 そのカードを目にした瞬間、イリーナは卒倒しかけた。あまりに嬉しすぎて。


 8年、カリスとの関係を築いてきて、このような手紙をもらえたことはもちろん、カリスからお誘いを受けたのは初めてのことだった。とりあえず、そのカードは額縁に入れて室内に飾った。


 しかし、それからの数日間が大変だった。


 カリスのお家にお呼ばれ……! そのことを考えるだけで、胸はドキドキと不協和音を奏で続けるし、その様子を想像するだけで頭がぽーっとなってしまう。


(変じゃない……ですよね?)


 イリーナはもう一度、姿見に自分を映してみた。


 栗色のロングストレートヘアは、メイドが丁寧にヘアセットしてくれたおかげで、編みこまれ、アップにまとめられている。同色の瞳は不安そうな色を湛え、さながら雨の日の濡れた子犬のようだ。


 今日のためにあつらえたドレスは黄色と白を基調として、派手すぎず地味すぎないデザインのもの。華やかな装いは、いつもは幼く見られがちなイリーナの顔立ちを少しだけ大人っぽく見せている。


(カリス様と向かい合ってお話するなんて……私の心臓は無事でいられるでしょうか)


 イリーナは不安になった。


 通学中、隣を歩くだけでも幸せな気持ちにひたれるくらいなのだ。それが近い距離で向かい合って、顔を合わせるなんて……想像しただけで顔から火を吹けそうだ。


 シュラール家の屋敷に向かっている間、イリーナの胸は期待と不安でいっぱいだった。


 しかし。


(えっと……なぜこのようなことに……)


 イリーナは困惑しきっていた。待ちに待ったカリスとのお茶の時間。


 イリーナの想像では、のんびりまったりとカリスとお茶を飲んで会話をする予定だった。しかし、その想像は打ち砕かれた。

 いったい何が起きているのか、簡単に状況を説明すれば。


 テーブル、長――!

 距離、遠――っ!?


 イリーナとカリスを隔てる物。それはとてつもなく長いテーブルだった。その両端にお互い座って、向き合う形になっている。


(カリス様の表情が……ほとんど見えません……!)


 声を張り上げなければ、お互いの声が届かない。


 これでは楽しく会話などできようはずもない。

 話しかけようと思ったら、「カリス様ー! 聞こえますかー!?」と、怒鳴り合い大会になってしまう。


 混乱のあまり、いつもは雄弁なイリーナの口も固まってしまっている。何の話をしたらいいのかわからない。


 イリーナは呆然と目の前のカップを手に取った。紅茶の豊かな香りが漂ってくる。紅茶も付け合わせのお菓子も、うっとりするくらいに美味しかった。しかし、イリーナの心は落ち着かない。


 室内に満ちるのは沈黙。それも最高潮に気まずい。


 イリーナは目を瞬かせながら、向かいに視線をやった。……顔を上げたくらいではカリスの姿がよく見えないので、必死で目を凝らした。


 先ほどからリュビがずっと落ち着かない。カリスの肩と膝を行ったり来たりして、時折「きゅいきゅい」と鳴いている。まるで何かを急かしているようだった。

 やがて、リュビが痺れを切らしたようにカリスの耳をがじがじとやり出して、


「……わかってる」


 と、カリスは冷めた声で応えた。


「これを……君に」

「え!?」


 カリスがテーブルの上に何かを乗せる。

 しかし、悲しいことに距離が離れすぎているあまり、それが何なのかイリーナには見えなかった。


「私に……ですか?」

「いらないなら……」


 カリスは何かを言っているが、よく聞き取れない。文脈からよくないことだろうと察してイリーナは声を張り上げた。


「そんなことはありません! いります! 欲しいです!」


 立ち上がって、さっそくそれを受けとりに行こうとした。

 が、


「近づかないで」


 カリスの鋭い声が返って来て、イリーナはそのまま硬直する。


 カリスがテーブルの上のベルを鳴らした。すぐにメイドがやって来る。


「カリス様、お呼びでしょうか」

「これをイリーナに届けて」


(私、ここにいますけど!?)


 メイドはカリスから受け取った物を手に、すすすっとイリーナに寄って来る。


「イリーナ様。カリス様からのお届け物です」


(知ってます、見てました……!)


 と、イリーナは内心で叫んだ。

 が、表面上はにこりとほほ笑んだ。


「ありがと……ありがとうございます!!」


 優雅にお礼を言おうとしたが、それではカリスのところまで聞こえないと思い、気合を入れて声を張り上げた。向かいではカリスがほんのわずかに頷いてくれたような気がした。


 それは丁寧にリボンで飾りつけられた箱だった。

 そっとリボンを外して、中を開けてみる。


 すると……


「まあ……」


 イリーナは言葉を失った。


 中から現れたのはイヤリングだった。氷の結晶のようなデザインだ。通学中、アクセサリー屋のショーウィンドウでいつもイリーナが目を留めてしまう物だった。


 気になってしまうのは、デザインがどことなくカリスの雰囲気に似ているからだったのだが……。


(カリス様……気付いてくれていたのですね)


 幸福感が全身に染み渡って、体がぼっと熱くなる。

 いつも自分に興味がなさそうにしているカリス。


 そんなカリスが、イリーナの通学中の様子を気にかけてくれていた。

 それだけで涙が出そうになるくらいに嬉しい。


 イリーナはそっとイヤリングに手を触れた。それから顔を上げて、カリスの方を見る。


「カリス様……ありがとうございます。すごく嬉しいです……! 大事に使わせていただきますね」


 自然と笑みが零れる。嬉しすぎて、頬も口元もゆるゆるになってしまう。


 カリスの表情筋はうんともすんとも動かない。とてつもなく興味がなさそうに、冷たい声で、「……うん」と答えるだけだった。


 ――本当に冷たい声だった。実際、イリーナの頬をぞっとするほどの冷気がかすめたほどなのだ。


(わかっていたことではありますが……少しだけ、悲しいです……)


 イリーナは内心、落ちこんだ。


 カリスがプレゼントをくれたのはこれが初めてなのだ。だから、これを機に距離を縮めることができたらと期待してしまった。その期待した分だけ、カリスの反応が冷たすぎてショックだった。


 イリーナは気を取り直そうと、カップに手をやった。

 しかし、


(え、冷っ……!?)


 さっきまで熱々だった紅茶はすっかりと冷え切っていた。


 これはホットティーではない。極寒アイスティーだ。


(……なぜでしょう?)


 理由がわからず、イリーナはこてんと首を傾げるのだった。




 ◇ ◇ ◇



 お茶会後の訓練室にて。

 カリスとリュビは向かい合って、反省会を行っていた。


「いや、あのさ」


 と、リュビが呆れきったように呟く。


「あのテーブル……ないよ。ないわ」

「だって、しょうがないんだ……」


 カリスは肩を震わせながら答えた。もうすでに床が凍り始めている。


「イリーナと至近距離で向かい合うなんて……心臓が爆発してしまう」


 ぴきーん! 想像だけで興奮が高まったのか、カリスの隣で氷の山が高々と出来上がった。


「でもさ。イリーナは絶対、困惑してたと思う」

「それはわかってる……」

「最後なんて、紅茶を凍らせそうになってたし」

「もう……嫌われただろうか」


 使い魔の言葉に打ちのめされて、カリスは項垂れた。

 氷の山がどんどんと高く積み上がっていく。その様を眺めて、リュビはやれやれと首を振るのだった。

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