第5話

 翌週、佐和田と相間は新潟市内の大学を訪れていた。

 その後も取材を重ねたものの、これと言った産業もないP市の魅力を伝えるにあたってはG山以外に見栄えのするものも少なかった。結局G山に関連するものでランキングを埋めるしかないのでは、と言うことで話が纏まった。


 そこで、G山についてまた違った角度から──山の歴史やその成り立ち、信仰といった話について民俗学の先生に取材をすることとなった。

 

 その民俗学者──幸田教授へのインタビューは以下の通りである。


 「このG山はですね、記録に残されている限りでは、今から九百年前、鎌倉時代の頃には既に神聖なものとして崇められていました。

 当時の人々の間では山岳信仰が広まっていたこともあり、当時の山に住む人々を中心にG山を信仰する風土があったそうです。

 

 山伏達はこの地で修行に励み、里のものはこの山の豊かな大地が与えてくれる恵みを元に生活を送り、山と共生していたのです。

 

 そして、時は流れ、戦国時代に差し掛かった頃──この地で大きな合戦があり、G山で多くの人が亡くなりました。

 この地方では有力な大名同士の衝突に、両陣営が入り乱れての乱戦となり、それは熾烈を極めたそうです。

 

 G山はね、緩やかな傾斜の割に入り組んだ形状をしていまして。似たような景色が続くためか迷いやすく、方向感覚も無くしやすいところでして。合戦では敵味方の区別もまともにつかないような状態で戦うしかなかったようです。

 

 長引く合戦の戦況が決する頃には山には敵味方関係なく、多数の遺体がそこかしこにあるような有様だったようです。


 最も激しく衝突があったのが山の中腹にある峠、泪峠という地名なのですがね。

 当時、合戦に負け、大将を守れなかった者たち、そして無念の思いのまま戦いに破れ命を失っていった総大将の悲しみといったものが後に言い伝えとなり、話が継承されていくうちにいつからか泪峠と呼ばれるようになったのです。」


 「それは、その…高台から反対に進んだところにある、小さな峠道のことですか…?」


 「ああ、そうです。あなた方も通りかかったのですね。

 凄惨な戦いの後──この山の状況を見るに見かねた山伏達がそこここにある遺体を回収し、麓に下ろし、手厚く弔ったと言われています。


 手厚く、と言っても山伏達にすれば圧倒的な数のご遺体ですから。結果的には一箇所に集められ、積み上がるほどのご遺体を一気に焼いたそうです。

 その時そこにいた山伏達は、死者達が悲しみに暮れ泣き叫ぶ声、怨む声、苦しむ声を聞いた、という逸話が残されています。


 ほら、このあたりの学校の行事では恨めし節というのがあると聞きませんでした?この話から始まったものです。

 

 経をあげ、供養し、そして無縁仏として石碑を建てた、というのがあの高台にある石碑の所以になります。

 ああ、そうですよ。元々は里にあったんですけどね。街の宅地整理が進む中で移設されたんですよ。


 山伏はその頃、里に降りる者、山に残る者に分かれ、里に降りた者はそこに住んでいた村人たちと自然と同化していったそうです。

 ですから、P市の住人の多くは山伏の末裔、とも言えるのですね。


 ああ、泪峠に行かれたということはその先の神社にも行かれましたかね?」

 

 「あ、あの湧水が出ているところの近くの。立ち寄らせてもらいました」


 「あの社はね、正式には神社ではありません。あの辺りじゃ皆シスイさんって呼ばれているのですが、いわゆる山伏の子孫達が建てた社なんですよ。それでなのか、誰か特定の人が管理している、とかもない。神主もいない。ただ山の神を祀り、山で生きた人々を鎮めるためにあの地で暮らす人々が皆で管理しているのです。


 そうそう、シスイの社に纏わる話にはこんなものもあります。その昔、山伏達だけが存在を知っている隠れた源水がどこかにあった、という言い伝えが残されているようです。山伏達はそれを飲んでいたため病気や怪我にかからなかった、と言うことです」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る