第14話 過去の悪夢
夕方、仁恵と裕貴君を送り、真白と二人で帰宅した。
すぐに父が玄関まで出てきて、俺たち二人を外に出す。
「何かあったのか?」
なんだろう、父が出てきたのも驚きだが、母に聞かれたくない何かがあったということだ。胸騒ぎがする。
俺は、一度真白に目を向け、父に尋ねた。
「――祥子が来たのか⁉」
「ああ。」
短く父は答えた。
「お前の母さんと揉めて、大変だったんだ。真田さん(お隣さんだ)が介入してくれなかったら、俺一人ではどうにも…」
そう言って肩を落とした父は、心底疲れ果てているように見える。
真白が俺の腕にしがみ付いてきた。
祥子が来たのなら、最近目撃されていたのも本人だったのだろう。俺たちを見つけられずに、母に会う覚悟で家まで来たに違いない。そんな切迫した理由があったのか?
「理由は聞いた?」
「『真白を連れていく』とだけ。承諾してない!母さんは興奮して会話にならなかったし、物を投げて壊して――大変だった。」
大きくため息を吐く。
昔も大変だったが、母が年取った分、一方的にやられていたのでは…と心配になった。
「母さんは…無事?」
「ああ。気が参って寝てる。お前らがいなくて良かった。」
夕食はどうしたとか会話しながら、三人静かに家に入る。手を洗ってすぐに二階に上がった。父は母の様子を見に行った。気づかず寝ててくれると有難いのだが――。
「お父さん、怖い。」
ずっと震えながら俺にしがみ付いていた真白が、やっと口を開いた。
「大丈夫だ。真白はお父さんといればいい。」
ゆっくりと言い聞かせる。
「本当に大丈夫?――おばあちゃん、私のこと嫌いでしょ?」
真白を抱きしめて、背中をとんとんと叩く。「うさ!」と言ってちょっと動いて、震えが治まってきたようだ。とんとん…と規則的に背中を叩きながら見やると、部屋の隅に置いていた真白のお気に入りのぬいぐるみ「うさ」を見つけて抱きしめていた。
「そうだった。うさ、有難うな。お父さんも助かったよ。真白のお守りだな。」
そう声をかけると、真白はうさを抱きしめたまま何度も頷いた。
ぎしり、と階段を軋ませて父が上がってきた。珍しいが、こんな状況では仕方がない。俺は立ち上がって部屋の襖戸を開けた。
「すまん」と小さく一言付けて、父は俺の部屋に入ってきた。本当は両親のための部屋だったはずだ。俺があの部屋を拒絶したから、譲ってくれた形になっている。
親子三代、狭い部屋に座って、無言に耐える。――親父、何か言ってくれ!
「おばあちゃん、どうだったの?」
沈黙を破ったのは真白だった。あんなに嫌われていても、祖母を気にかけているようだ。優しいな。
「まだ寝てた。息はしている。」
父の笑えない報告に、俺は聞いた。
「祥子が来たのはわかった。で、『真白を返せ』って言ってきたのか?他に何か聞いてないのか?」
父は、なんとも言えない顔で真白を見た。そして、頭を抱えて畳に突っ伏する。
「ああああぁー…」
そのまましゃくり上げて泣き出した父の背中をとんとんと叩いた。
「俺も、いろいろと噂は聞いてる。何が本当で嘘なのかわからないけど、よくない話だったんだろ?」
半ば確信めいて父に話しかけた。
「…そうだ。俺も信じてなかったけど、お前たちが結婚したころから少しずつ噂はあった。多分、母さんだろうからと気に留めてなかったんだが――。」
「何が本当なんだ?」
聞きたいことが多すぎる。父も動揺しているし、話しやすいように曖昧に尋ねた。
「真白はお前の子じゃないと…会社辞める口実に、どっかの男に頼んだ子だって。」
慌てて真白を見る!――と、涙を流していた。「お母さん、なんで」と呟きながら泣き出した。
父から少しずつ話を聞く。真白がいるから、とも思うが、噂を知っているようだし、当事者だ。それに、今は一人にはできない。ずっとうさを抱きしめ、静かに聞いている様は、変わってやりたいほど痛々しかった。
結局、父から聞けた話はこうだ。
祥子は仕事が嫌で早く結婚して辞めたかったが、俺がプロポーズしないから、他の男に頼んで子どもだけ作ったこと。
真白は俺の子じゃない、だから返せと言って乗り込んできたこと。
母と揉めあって大騒ぎになり、お隣さんが警察を呼んできて収まったこと。
聞いていて、俺は頭痛と胃痛がぶり返してきた。無意識に胃を擦って額に手を当てる。さすがに警察沙汰は…一家の醜聞である。いや、無事を喜ぶべきなのはわかるが。
「悪い、親父。迷惑かけた。」
俺は、話終わってとぼとぼと部屋を出て行こうとする父の背中に声をかけた。
「お父さん、今日ここで寝てもいい?」
俺は真白を抱きしめて、「いいぞ!」と答えた。
俺の布団に真白を寝かせる。
今日はだいぶはしゃいでいたようだったし、夜聞いた話の衝撃もあっただろう。俺も眠りたい。頭が思考を拒絶している。――夕食がまだだったが、もう食欲はない。
真白はベッドにマットレスで布団がないので、俺の部屋の押し入れに入っている、いつ干したかわからない布団を出して、真白の横に敷いた。暖かい敷パッドだけは洗濯したものをかける。枕は自分のものを置いて寝た。
翌日、俺は真白を学校まで送っていくことにした。
いくら祥子が警察に連行されたからって、犯罪者とは違う。きっと一晩留置所で過ごして、身元保証人に引き渡されているだろう。昨日の今日で来るとは思えないが、安心できない。いや、祥子の行動力なら、必ずまた来る。それがいつかというのがわからないのが怖い。
俺でさえ恐怖心を感じているのに、真白は学校に行くと言ってきかなかった。無理もない。この家の居心地は最悪である。学校の方が安心できるだろう。
会社には、少し遅れるかもしれない、と専務にSMSで連絡を入れておく。助かる、スマホ文化!常務は電話でないと受け付けてくれないが、始業1時間以上前のこの時間に誰が出勤しているというのか!理解ある上司に感謝である。
二人で玄関横の車庫に向か――おうとして、玄関を一歩出た瞬間。
誰だ⁉
表現のできない面相の…女がこっちに向かってきた!
真白の方に手を伸ばしてきたので、身を盾にして庇う。
「真白を返して――‼」
その言葉を聞いて、目の前の女が祥子だと気づいた。
「おまっ、その、顔!」
背中に真白がしがみ付いてきた。飛びかかってくる祥子をいなしながら、声を上げる。
「その顔はどうしたんだ⁉」
崩れている…というのか、壊れている、と言えばいいのか、腫れあがりアザだらけの上、鼻が変な方に曲がっている。目は見えているのだろうか?
外の異変に気付いた父が玄関に出てきた。
「和弘!真白をこっちに‼」
祥子が声の方を向いた瞬間、真白は俺の背からさっと道路へ駆けて行った。
一瞬だけ真白を振り返り、祥子が叫んだ。
「ねえ‼あたしの顔、どうなってるの⁉」
そのまま体重を乗せて、祥子が俺に掴みかかってきた。思わずよろける。
「――壊れてる。」
思わず、正直に答えてしまった。
え⁉と声を上げながら、祥子は自分の顔をなぞっている。
その様子を、呆然と眺めていた。
「ぇえっ⁉顔がぁー!ましっ…お金…か…ぉ」
意味不明な言葉を呟きながら、ふらふらと俺から離れていく。
「――祥子?」
俺は、恐る恐る声をかけた。
いやあああぁぁー‼
あたりに絶叫がこだました。
そのまま、祥子は道路に向かって走り出す。
俺は、顔の崩れた女――祥子の――駆け去る様を呆然と立ち尽くして見ていた。
「和弘!真白は?」
父の声で我に返った。
と、すぐにお隣さんと一緒に真白が戻ってきた。
「石田さん!大丈夫でしたか⁉」
お隣さんの若夫婦の後ろに、小学生の野次馬が付いてきている。
「真白を…ありがとうございます。」
お礼を言うのがやっとだ。声が掠れている。
すぐに真白が駆け寄って、抱きついてきた。抱きしめ返す。
「警察に通報しましたので、すぐに来てくれるはずです!」
この距離でそんな大声を――と思って気づいた。道路に結構な野次馬が集まってきている‼無理もない、昨日の今日だし、みんな出勤前だろう。小学生はランドセルを背負っている。
この騒ぎだ、母が気づかぬはずがない。だが、真白を曝していられない。手をとり玄関へと促す。
「お父さん…。」
不安そうだ。
「すまない。安全のためにも家の中に入っていてくれ。」
真白は寂しそうに小さく頷いた。――すまん。心の中でも謝る。
気を取り直して、野次馬を捌く。
「みなさん、朝からお騒がせして大変申し訳ありません!どうぞお仕事に向かわれてください。」
頭上で手を叩きながら、声を張り上げ――気づく。祥子はどこに行った⁉
ふっと玄関を見やり、父と目が合った。玄関に近づき小声で尋ねる。
「親父、祥子はどうする?」
父は、二度頷き、「警察に任せるしかない」と答えた。
すぐにパトカーが一台到着した。
「石田祥子さんはどちらですか?」
警官が二人降りてきて、尋ねてくる。
ただ、事実を答えた。
「わかりません。走り去りました。――それに、顔を見ても、別人にしか見えません。」
警官にさっき起こったことを話し、昨日のアリバイを聞かれ、深く深くため息を吐いた。
急にパトカーの無線が忙しなくなってきた。こぶしが効きすぎていて、内容は全く聞き取れないが、俺と対峙していない方が無線をとりに行った。戻ってきて、同僚に耳打ちする。
「人相不明の女性が、高架から高速道路に投身自殺したそうです。服装から、牧野、祥子さんと推定されます。」
牧野?――祥子の旧姓だ。苗字を戻していたのか。昨日は警察に連行されている。もしかしたら、保釈後そのままうちに来たのだろう。さっきの話しぶりからして、そう推察される。
が。
「どういうことですか?祥子と思われる自殺者がいるってこと…?」
まったく理解が追い付かない。
「はっきり申し上げます。高速道路なので、まず、顔も手足もないと思ってください。身に着けている衣類や靴が、昨日保護した時と同じ物と推定されました。」
俺は、祥子の顔を思い出し――嘔吐した。
結局、欠勤して警察の相手をした。
真白は仁恵さんの家に一時避難することになった。――母が、今更実家を頼れない、というのだから仕方がない。俺に兄弟がいれば、手分けすることができたのに、とちらと思った。
俺と父は、警察で聴取を受けた。すでに精神が参っている母は、病院を受診後、医師の指導を受けながら聴取を受ける。未成年だし、昨日の騒動を知らない真白は、「俺たちの証言だけで十分」と判断され、免除だった。良かった。
娘にとって、これ以上のトラウマはない。
俺も真白も父も、近所の人たちも。悪夢にうなされないことを願う。幸いなのは、母が何も見ていないこと。声くらいは聞こえていたはずだが、いくらか刺激は少ないだろう。
翌日、遺体が祥子と断定された。
祥子に暴力を振るった同棲相手は逮捕された。被害者はすでに被害届を出せる状態ではないが、精神的に追い込んで自殺させた――と判断されたらしい。納得である。
今回の件で、どこまで捜査が入るのか、俺は恐々として日々を過ごした。
真白はというと、意外なことに落ち着いている。母親が自殺し、自分を連れて行こうとした遠因も逮捕されたことで、安心したようだ。どうも、同棲相手が祥子に似て「顔がいい(と思われる)女子中学生」の真白を利用して、金儲けさせようと考えていたようだ。事前に阻止できて良かった。本当に、真白が巻き込まれなくて良かった。
祥子の顔の説明もあった。身元引受人にされた同棲相手が逆上し、釈放後にかなりの暴力を振るったらしい。遺体の確認できるところだけでも、全身にアザがあったという。特に顔を重点的に殴り、プチ整形していた鼻が、骨折のせいもあってひどい状態になってしまったという。事故で車に曳かれたのは、むしろ故人にとっては名誉を守る結果になったと考えられなくもない。とにかく、顔のいい女だった。
祥子は自殺と断定された。
俺たち家族は、敷地内に不法侵入した祥子を起訴しないことにしたので、同棲相手の裁判だけ呼ばれることになった。だいぶ先になるようなので、ちゃんと覚えていられるか自信がないが、あの顔は…忘れられない。ちゃんと証言できるだろう。
真白は、忌引きで数日欠席して(学校が配慮してくれたが)、復帰した。
俺も、すぐに会社に復帰できた。すでに離婚していたのだ。忌引きもなにもない。真白の付き添いだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます