第13話 大人たちの青春
祥子は綺麗な女だった。
なぜ俺と付き合っていたのか…「真面目なのがいい」と言っていた記憶はある。
俺と付き合っていても、友人と思われる男と談笑していることはあった。祥子の周りもそれをとやかく言わなかった。女子短大ではそんな付き合いは珍しくなかったのだろう。集団デートもよくあった。だから、顔を合わせれば挨拶する程度には、祥子の男友達を知っていた。
もし、その中に祥子の本命がいて、真白の父親だったら…
俺は「都合のいい男」だったんだろうか?「真面目なのがいい」って「好き」とは違うよな?
贅沢は言わない。平和な家庭が欲しい。叶うなら、真白が笑えるように――明るい家庭がいい。
今日、真白に聞かされた話を振り返る。
「仁恵さんなら、いいかな?」
自然、そう思えた。
なんであたしが――‼
サラサラのロングヘアを振り乱して、女は叫んだ。
「わざわざ年増に付き合ってんのに、金くらい持って来いよ!」
ドスを効かせた声で、男は言い返す。
「仕事に金が要るんだよ!わかれよ⁉ったく。」
頬を抑えて女は
洋室1間の狭いアパート。ひょろりとした、色白を通り越して青白くくたびれた女と、短髪で筋肉質な体にピタリと沿う派手なデザインのシャツとジーパン、太い金の喜平ネックレスと大ぶりのシルバーリングを複数身に着けた男は一緒に暮らしている。元々は、女の一人暮らしだった部屋だ。
この部屋で喧嘩しているのはいつものこと――と近所では認識されている。女が殴られていることも。
手癖の悪い男に騙された――と祥子は思っている。
あいつのアクセサリーだって、今のシルバーアクセサリーの仕事だって、あたしのお金じゃない‼ちょっと見た目がいいからって、若い女に色目使って!――
「30で卒業だ」
たった一言。
金持ちの愛人から転落するのはすぐだった。たっぷりの手切れ金をちらつかせ、「年増はいらん」と言ったじじいを思い出す。
――すでに何年も経っているのに、華やかな時代が忘れられない。
もう、あの頃みたいに若くない。外見だけで男が貢いでくれたのは過去の話。職場のセクハラに耐えられず逃げ出したのに、世の中お金。お金のためには男に媚を売るのが手っ取り早い。どうにかしてお金を持ってこなきゃ。お金さえあれば、彼もまたあたしに優しくなるわ、と、さっき殴られたことも忘れ、思った。
「まーちゃん…」
彼は言った。「お前にそっくりだったっていう娘を連れてこい」と。
「稼げるぜ。」
「おはよう」
いつものように声をかけて事務所に入る。
「おはよ、大丈夫―?」
微妙に語尾が上がっていくが、いつもと同じ話し方の仁恵さんだ。
「ご心配おかけしました。」
頭を下げる。どうにも顔を合わせづらい。
「おはようございます。」
仁恵さんの横から平井さんが挨拶してくる。
いつもの朝だ。
さて。パソコンを起動して、溜まったメールをチェックすることにした。
昼休み。隣で買ってきたおにぎりを食べている相沢に聞いた。
「なぁ、仁恵さんと俺ってどう思う?」
「ぶっほうっ――‼」
盛大に吹かれた。どういう意味だ。
慌ててティッシュでデスクを拭き、口元を手の甲で拭いながら、「今更ですかっ⁉」と相沢に言われた。
そんなに驚くほど、あからさまだったのだろうか…?
「子どもらで話してたみたいで。夕べ聞いた。」
相沢は、ペットボトルのコーヒーを直飲みしながら、「子どもたちの方がわかってるんですねー」などと感心している。――何を?
「仁恵さん、『毎朝気持ちを伝えてるのに、受け取ってもらえない』ってバーベキューで話してましたよ。」
――待て待て。
「いつの話だ⁉」
「え?」
「そのバーベキューって、いつの?」
「一昨年の夏休みですってば。」
一気に血が上っていく。今の俺は真っ赤だろう。
相沢が「それから会社でやってないでしょ?」と続けるのも耳に入らない。
「俺、…そんなに鈍かった?」
デスクに突っ伏した姿勢から上目遣いで相沢を見やった。
「それはもう!酷いもんでしたよ(笑)」
相沢の笑い声が事務所内に響く。
「いやー、もう『中学生か⁉』ってくらい初心ですよ。きっと子どもらの方がヤキモキしてたんじゃないですか(笑)」
そんなに笑うな!と言おうとして、入り口に専務が見えたので堪えた。
「やー、しばらくこのネタで揶揄えそうです(笑)」
「どうした?」
おいおいおいおい!専務に聞かれてるじゃないか⁉
「よーやく、石田さんが気付いたんです。」
相沢は、そういって事務所の入り口の方をゆっくりと指さす。
専務の視線が外に動き――真っ赤になって両手で顔を隠した仁恵さんが立っていた。
「そうかー。石田に春か~(笑)」
「勘弁してください‼」
俺も真っ赤になった顔を両手で隠し、再度机に突っ伏した。
ガシャンッ‼
額をぶつけ、はし箱が大きな音を立てた。
慌てて片手で抑えると、ガラス越しに事務所の入り口周辺に人混みが見えた。
「はあぁぁぁ…」
どうしていいか、ため息が漏れる。
ふと、人混みの中、泣きそうな平井さんの顔が見えた。
あの後、散々揶揄われ囃し立てられて、午後の業務は進まなかった。
それでも、残業する気分にはなれず、それ以前に、少しは男らしいところを社内に示そう、と仁恵さんを誘って帰る。――といっても、仁恵さんは車なので、実際には仁恵さんの車に乗せてもらっているのだが。
「すいません、乗せてもらって。」
誠に恐縮である。
「いいのよー。こっちこそ、びっくりしたけど嬉しかったから。」
駐車場から道路に車を出しながら、仁恵さんが聞いてきた。
「どっか行きたいお店とかあるー?私飲めないけど、居酒屋でもいいし。」
「そうですね、じっくりお話したいです。って今更な気もしますけど(笑)」
「そうよね、そうなのよね~?」
交差点を右折車線に入る。どこに向かっているのだろう?お互い地元なので、あまり人目のある店は困る。
「こっちだと…『早と(はやと)』にしませんか?」
「あ!いいかも~。じゃ、早とに向かうねー。」
早とは今ではちょっと古風な感じの飲み屋だ。席が少なく、L字型にカウンターがあるだけ。メニューも日によって変わるので、昔、家で食べたくない時はよく世話になってた。おかみさんはいい年になってるよな?
「良かった!駐車場空いてる。」
2台分しかない駐車場が空だった。
まだ18時だ。飲み屋に出掛けるには早い。俺たちが定時で退勤して直行しているのだから、週の半ばのこの時間に珍しい客だろう。仁恵さんはアルコール禁止なので、俺も合わせないとな…店に悪いか?ちょっとだけ飲もう。
俺が先を歩き、仁恵さんがぴたりと付いてくる。先に店に入って仁恵さんが店に入ったところで戸を閉めた。
「いらっしゃい。」
落ち着いた、おかみさんの声で出迎えられた。
「変わった組み合わせね?奥にする?」
まだ客のいない店内で、奥側の席を勧められたので、一番奥の席を引き、仁恵さんが腰かけやすいように少し戻す。俺も隣に腰かけた。ここなら入り口から見えにくい。正直助かる。
「お二人とも、お酒は大丈夫?」
おかみさんが小首をかしげて尋ねてきた。
「俺はビール。で、彼女は…」
「私はピーチティで。」
申し訳なくも仁恵さんにアルコールは出せないが、乾杯くらいは飲んでおこう。
「乾杯」
二人の声が重なる。
仁恵さんは一口飲んでグラスを置き、口元に手を当てて小さく笑っている。
俺は――どう反応すればいいのだろう?中ジョッキを卓に置いて、両手で太腿を擦った。視線が泳ぐ。
「あの、どう言ったら…」
「嬉しい!」
今度は二人の声が被った。
仁恵さんは楽しそうだ。
「いいの?俺で。」
恐る恐る聞いてみる。――そうだ!お互いはっきりさせていない‼
仁恵さんは大きく頷き、目頭を押さえた。どっと涙が溢れてくる。
俺は慌ててハンカチを出して…手渡す。
「石田さん、『俺』って言うんだね?会社じゃ『私』だったから、なんだか新鮮――」
そこまで言って、大きくしゃくりあげる。
「――ごめんね、ちょっと待って。…嬉しくて。」
俺にもこみ上げてくるものがある。きっと真っ赤だろう。――恥ずかしい。ハンカチを渡したのと逆の手で口元を覆い、視線を逸らす。
しばらくして、「今日はね、玉こんがあるわよ?イカと大根も一緒に煮込んでるの。」とおかみさんが声をかけてくれた。
助かった――そう思っておかみさんの方を見や…って目が合った。微笑ましそうに離れた場所からこっちを見ていた。
もう一度、にこりと笑って、「いいじゃないの。人生、青春は一度じゃないのよ。」と柔らかな声をかけてくれた。
俺もほろりと涙が零れた。
唾を飲み込み、お品書きを指さし、仁恵さんに聞く。
「とりあえず、頼みましょう。」
玉こんと、アボカドとチキンの炒め物、タコのニンニク焼き、海鮮チヂミを頼んだ。
「ふう…」
二人のため息が重なる。自然、見つめ合って笑みがこぼれた。
「こういうのがいいな。」
思わず、言葉が口から出てしまう。
「そう思ってもらってるの?」
「家族が欲しい。――できれば、真白が笑えるような。」
「なら任せて!」
仁恵さんが自分の胸をパタパタ叩く。
「笑いの絶えない家族には自信があるの(笑)」
――これで告白完了?俺たちは両想いになった???無縁過ぎて忘れてしまった。
とりとめのないことを話し合って、ふと現実に向き合う。
「俺たち、『付き合う』ってことでいいんだよな?」
俺の口調も砕けている。
「ありがとう!そうよ。」
仁恵…さんの瞳がキラキラしい。いつもこんなだったか?
「で、会社では――どうしよう?って、もうどんな噂になってるんだか…(笑)」
俺は両手で顔を覆った。
「明日が楽しみね(笑)」
お酒の飲めない仁恵に気を遣ったのと、急な外食になったし、明日も仕事なので、早めに切り上げる。俺は会計を済ませ、仁恵に会社まで送ってもらった。
そのまま、自転車に乗って帰宅した。
夜中。
夢を見ていた。あられもない格好の仁恵の姿に興奮して――目が覚めた。
「中坊かよ…」
顔を手で覆う。俺はこんなにも節操なしだっただろうか?過去に付き合った女性は少ない。そんな中で、祥子に完全に篭絡されたのは事実だ。
「真白は俺の子だよな…」
小遣い制の貧乏学生だったころと違い、バイト代があった祥子と付き合い始めた頃。避妊具を使ってだが祥子とはヤリまくりだった。祥子がねだってくるせいでもあったが、俺は――女の体に溺れていた。
とりあえずトイレに行こう。それから水を飲んで…と、戸を開ける瞬間、廊下に気配を感じた。背筋が冷える。――聞かれた⁉まさか…。
戸を開け、真白の部屋のドアの前に立つ。聞き耳を立てるが、静かだ。
顔を上げ、視線の先に――あの部屋のドアが見える。
親子三人で眠った部屋だ。
もう過去のこと。――振っ切ろう。きっと、新しい家族ができる。その時は――ここにはもう戻ってこないだろうから。
翌朝。
いつも通りの二人だけの食卓。
真白の様子を窺う。顔色は――白い。とても色白で、祥子にそっくりだ。俺も白い方だと思う。黄色みが強いが。――真白の様子から、夕べの独り言を聞かれたのかは判断できなかった。
「もう一つの件は話さないとな」と思いながらも切り出せない。朝からヘビーな話題だ。どうしよう。でも、「息子さんと話してる程だから、嫌がられてはないよな?」と自分を奮起する。
真白が箸を置き、コーヒーに手を伸ばすところで話しかけた。
「仁恵さんのことなんだけど…」
一瞬、真白の手がびくりと反応した。
「仁恵さんに話してくれた?」
逆に聞き返された。どう言おうか。
「ひとまず『付き合う』ことにした。報告だ。」
「良かった!」
パチンと両手を合わせて、真白は喜んでいる。笑顔だ。はっきりわかる笑顔だ。
「やっぱり、仁恵さんは『楽しい家族』を作れそうだな」
――しまった!先走ったことを口にしてしまった‼
「私も、仁恵さんがお母さんなら嬉しい。お兄ちゃんもできるし、嬉しい。」
真白が喜んでいる!俺の真白は、今日もかわいい。かわい過ぎる‼
「あ~~~」
感嘆の声が漏れた。
「俺の真白がかわいい…」
「何言ってるの?お父さん⁉」
ヤバい。つい駄々洩れしてる。
「真白はかわいいよ!」
ついでに照れ隠しをした。
「おはよう」
俺は、いつも通りに事務所の入り口で声をかけた。
「石田さん、おはよー!」
と仁恵が返してくれる。が、平井さんの声は聞こえない。「声が小さかったかな?」と思った。いつもと同じだ。
そこから、出社してくる人くる人に揶揄われた。仁恵は事務所にいないので、俺一人で対応する。――大事だ。こんなトラブルはマニュアルがない。
あたふたしながら仕事場に戻らせている俺を、隣で相沢は笑っていた。
「みんなヤキモキしてましたもん。気持ちはわかりますよ(笑)」
なんだよ、それは‼
「ホント、中坊かよ…」と呟きながら、大きく息を吐いた。
そんなこんなで週末。仁恵の「家族四人で遊びに行こう!」の掛け声で、ちぐはぐな親子四人は集合した。
子ども二人は気安くおしゃべりしている。――そんな二人を見ながら、仁恵が言った。
「あの二人、キャンプの後から何度も会ってるらしいよ~(笑)」
「えっ⁉それってどういう…!」
驚いて言葉が続かない。
「いろいろあるんじゃない?」
――は⁉
口をぱくぱくさせ、いよいよ言葉が出なくなった俺を見て、仁恵はけらけらと笑う。本当によく笑うよな。ふと心が軽くなった。
「ま、言っちゃうと、『お父さん欲しい』『お母さん欲しい』『お兄ちゃん欲しい?』、みたいな感じかなー?」
仁恵の人柄を表しているような、爽やかな風が吹いている。
ドライブがてら、高台にある道の駅に車を止めて休憩中である。今日は俺が(父と共有の)車を出した。うちの車は何の飾り気もないハイエースである。たまに会社の荷物を運ぶ。――俺も父も。広さはあるので、ここまで来る間、子ども二人は後部座席で楽しそうにしていた。
驚きである。
真白がこんなにも簡単に人に懐くなんて‼
「仁恵といると、みんな元気になるんだな。」
思っていることをちゃんと言葉にして伝える。
「俺も毎朝、元気をもらってたよ。」
仁恵は「嬉し―‼」と言って抱きついてきた。「子どもの目がある!」と引き剝がすと、二人離れたところからこっちを見て笑っていた。
「真白があんなに笑うなんて…」
「真白ちゃん、いい子よね。寂しいのかな?不安感が強いみたい。」
珍しく真面目な声で仁恵が続ける。
「お母さんのこと、いろいろ聞いてるみたいなの。『誰から』とか関係なくね。」
そして、いつもの語尾が上がる口調で言った。
「ここ田舎でしょ~(笑)。イヤんなるくらい噂が耳に入って来るから~。」
「君なら笑い飛ばしそう(笑)」
頭の中では、真白が何を聞かされていたのかあれこれ考えながら返す。
「あっ!今、頭の中、真白ちゃんでしょ⁉」
なぜわかった⁉
「私もねー、いっぱい言われたのー(笑)。――で、いっぱい悩んだよー?」
仁恵は、時々涙ぐみながらも、家のことを話してくれた。
「うち、実家住まいじゃない?でも、弟夫婦が近所にいるわけ!私、将来出て行かなきゃいけない小姑なのよ(笑)。裕貴は、まだ小さい従弟たちの面倒よく見てくれるのよ?でも、時々邪魔にされて可哀そうで…」
確かに、裕貴君はしっかりしてるし面倒見もいい。「役に立たなきゃダメ」と、子どもながらにずっと思ってきたのだろう。立派な男の子だ。
「どこの家でもいろいろあるんだな…」
本当に、しみじみそう思う。
「石田さんちの話もね、裕貴からちょっとだけ聞いてるんだ。」
唐突に、仁恵は切り出した。
「真白ちゃんのお母さんが遊び歩いてたとか、…父親が違うとか。」
「‼――それって、…」
「裕貴から聞いたけど、真白ちゃんに相談されてたんじゃないかしら?」
天を仰ぐ。
――なんてことだ!真白が知ってただなんて‼
一昨年のバーベキューで初めて会った、裕貴君と親しくなる頃にはもう知っていた…。いつ⁉いったい誰が、そんなことを子どもに聞かせたんだ⁉憤りを感じる。――が。
「俺の母が、真白に言って聞かせてたのかもしれない。嫁を嫌ってたから。」
「子どもには残酷な話よね…。だって、石田さんだって知ってたの?」
「いや。残念ながら、最近知った。『そういう噂がある』ってことを。――真白は俺の子だし。」
俺も、最近噂を聞いて驚いたこと、母と嫁の騒動なんかを話した。
「ねえ、次はどこ行くの?」
楽しそうに真白が聞いてきた。珍しい。――というか、初めて見たかも。楽しそうだ。一目でわかる。こんなに無邪気に笑えるんだな。
「どこがいい?今日は楽しそうで良かったよ。」
「地元のものが食べられるところ?――ってここだね(笑)」
「真白ちゃん、楽しんでるわねー。おなか空いた?ごはん?スイーツ系?」
仁恵も声をかけている。
端から見たら、楽しそうな普通の家族だ。きっとそう見えている。――やっぱりいいかも、と思った。
真白と仁恵が会話してる間に、裕貴君に話しかける。
「裕貴君、気を遣わせてすまないね。そして、ありがとう。」
子ども二人のおかげで今があると思うと、素直に感謝の言葉が零れた。
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