第10話 夢の中で

 相沢には「愚痴を聞いてもらえ」と言われていたはずが、何がどうなって「真白は他人の子」なんて話になったんだ⁉――頭が痛い。飲み過ぎか?胃も痛い。なんだかぼろぼろだな。――あの頃みたいだ。



 ぼやけた視界にエプロンを付けた若い女性が映った。


 ――また夢だ。わかっているのに抜け出せない。


「真白ちゃんはきちんと指示に従えますし、騒ぎません。同じ年齢の子どもたちと比べて…比べるのは良くないのですけど。年相応かというと、おとなしくて――反応が薄いです。3歳児検診でなにか言われませんでしたか?」

 そう聞いてきたのは、真白と暮らし始めた当初、利用していた保育園の押井先生だ。

 俺にしがみ付いて誰にも懐かない真白が唯一懐いた人でもある。

 押井先生の話は続いている。

「専門の方に受診することをお勧めします。」

 そうだ。真白がおとなしいのは、とても小さいころに虐待されるとこうなることがある、と言われたんだった。それで、母に病院を頼んだら、なんだかんだと連れて行ってもらえず、「他の一時預かりの園では言われないでしょ?」とか言ってはぐらかされてたんだった。そうこうしているうちに保育園の二次募集が終わり、幼稚園の見学シーズンも終わってて、慌てて見てもいない幼稚園に申し込んで。年中組から通った幼稚園では、何も言われなかったし、真白は問題を起こさなかったから、そのまま小学校に上がった。


 虐待――?


 母は確かに厳しかった。俺が何か言っても、「女の子は男の子とは違うの!」「行儀が悪い!」と言い返された。3、4歳の子に、食事の間中ずっと正座させるのは無理があると思う。それでも母は、「こんなこともできないで!」と怒鳴っていた。

 それが段々エスカレートして、「育ててもらっといて」とか「なんでこんな子食べさせるのよ」とか喚きながら、手を挙げるようになるのは早かった。

 祥子と違って反抗できない子を打ち負かしてはすっきりした顔をしていたな。あんな母の顔は――祥子に向けていたのと同じ――思い出したくない。

 でも、うちに来る前から真白はおとなしかった。

 それはつまり――。



「あああああっ‼」

 自分の声で目を覚まし、飛び起きると、びっくりした真白が近くに立っていた。

 後ろの窓の障子がうっすら白くなっている。

 朝だ。

 散々な夢を見たな、と思いながら、起きることにする。

「真白おはよ。」

「…うん。お父さん、大丈夫?」

 俺の真白は今日も優しいな。つい顔が緩んでしまう。

 さて、朝食の支度をしよう。


 台所に立つのはいつものことだ。もう何年も続けているので、無意識に体が動く。

 冷蔵庫から俺たち用の食材を探す。週末なので少ない残り物でやりくりする。

 夕べはパンを買いに行ってないので、ストックの食パンの消費期限を確認し、廊下を挟んで向かいの居間に置いてくる。バターやジャムはまだ出さない。ぬるくなってしまうからだ。

 豆腐とキャベツの味噌汁と、バターで味付けただけのスクランブルエッグ、スーパーのミックスサラダ。そこにインスタントコーヒーを付けて完成だ。

 真白がブルーベリージャムを持ってきた。

 今日はそっちの気分なんだな、なんて思うが、今になって胃が痛い。夕べのロックが効いたかな?二杯しか飲んでないのに、久しぶりのアルコールは体に堪えたようだ。

 コーヒーカップを持って席を立つ。

「真白、悪いが二度寝する。」

「大丈夫?」

 無意識に胃のあたりを擦っていたようだ。

「飲み過ぎた。薬飲んで寝る。」


 シンクにコーヒーを流し、水で胃薬を飲んだ。

 ――胃にみる。胃炎かな?気を付けよう。

 軽くカップをすすいで水切り籠に伏せると、部屋に戻って布団に入った。

「うさ?」

 枕の横に真白のぬいぐるみが置いてある。茶色いウサギのぬいぐるみで、祥子が買い与えたのだろう、ずっと大事に持っている。幼い頃の真白は、文字通り「いつも」持ち歩いていた。保育園へも手放さず、持って行っていた。

 俺を心配して持ってきてくれたのだろう。やっぱり優しい。


 ――ん?


 真白が初めから持ってたものって、うさと、母子手帳と保険証、どこだかわからない町の診察券、お薬手帳、着替え数点。それに、真白が乗っていたというベビーカー。

 たったそれだけ⁉

 気分屋だった祥子が、母子手帳とお薬手帳をきちんと管理していた(3歳児検診は受けていないし、予防接種も穴だらけだった)のは驚きだが、古着のようにくたびれた着替えしか荷物がなかった。子供用のおもちゃがなかったのは、――嫌な想像だが――他に子どもができたからか?それとも、はじめから持っていなかったのか?うちに来た時の祥子は、結構高級な身なりをしていた。俺の目は節穴じゃない、あれは高かった。自分用しか買ってなかったのか⁉それで真白が邪魔になった?なんで連れてったんだ⁉

 ぐだぐだする頭で、うさを抱きしめながらとりとめもないことを考えていた。

 うさの首は、真白が繕ったのか、修復した跡があった。他にも手や足の先にも痕跡がある。器用だな。



 ――小さな女の子の声がする。


「なんで、『またあした』じゃないの?」

「ねぇ、おおいせんせーのとこ、いこうよ?」

「や!おとうさん、まーといっしょ‼」


 ――ああ、真白だ。


 あまりしゃべらない子だったから、声を忘れていた。

 いつも押井先生のいる保育園に行きたがってたな。毎月、何日かずつ他の園にも通っていたが、他の先生たちにはまったく懐かなかった。でも、確かに一番真白を心配してくれていたよな。正直、俺も他の先生のことは記憶にない。

 押井先生は、家から三番目くらいに近いところにある流川ながれかわ保育園の保育士だ。当時、20代後半くらいで、他の先生たちと比べて若い部類だった。流川保育園に行ったときはほぼ毎回、押井先生が見てくれていたが、一時保育担当だったのだろうか?他の先生に真白が懐かなくて…だったら大変だったろうな。

 多分、予防接種の相談にも乗ってもらった気がする。市役所に確認を取ってもらって、予診票をもらったんだっけ?真白の住民票は、ずっとこっちにあったから、市役所からまとめて冊子で届いていたらしいのに。市役所には、離婚届を出しに行った時の嫌な思い出があって、正直行きたくない。うちの情報が筒抜けになっているのも嫌だ。その点、保育園はちょくちょく来ているし、真白を迎えに行った時に話もする。いろいろ聞きやすかった。『保育士』という職業柄、当たりが柔らかいのも一因と思うが。

 押井先生の話では、定期検診を受けていないと市役所から通知が来るものらしい。体調不良なんかで受けられなかった子は、大抵、翌月の検診に混じって受けると聞いた。半年以上連絡が取れないと、市役所の職員が家庭訪問するそうだ。うちにも来ていたはずなのに…。母が処分していたのだろうか。

 いや、捜索願の影響か?祥子の捜索願と同時に、真白の分も手続きした。だから、うちには子どもはいないものと判断されていたのかもしれない。

 うちの家庭の内情を薄々は気付いていたであろう押井先生は、母子でなく父子家庭でも、ひとり親の制度を利用できるから、といつも慌ただしくしている俺を励ましてくれた。


「おばあちゃんが近所にいらしても、お母さんひとりでお子さん見るのは大変ですよ。石田さんのおうちは、赤ちゃんの頃からお父さんがお世話してないでしょう。お母さんに任せてた時期があって、急にお父さんが全部見るとなると、お母さんおひとりの家庭より石田さんの負担が大きいと思います。ひとりで抱え込まないで。保育園は土曜日もやってますから、土曜日をお父さんのリフレッシュ日に当てられるのもありですよ。」

「保育できる日数は規則なので変更できませんが、私にできる範囲でですが真白ちゃんの面倒を見させてください。」

「こんな小さな子が笑えないなんて、可哀想すぎます。せめて、私が見ている時は、楽しんでいってほしいんです。」

「真白ちゃん、お熱が出て。お迎え大変とは思いますけど、来られますか?あと1時間半でお迎えの時間ですし、こっそりこちらで寝かせておきましょうか?」


 そうだった。あんまり親身になってくれるから、「俺に気があるのか?」とかちょっと思ったりもしてたんだよな。「先生と付き合ったら…」なんて妄想したりして。アホだな。


 雨の日は、車で一時保育の園に送迎していた。

ある日、車の中で、真白が「あめだとおそとでないからすき」と言った。「おおいせんせーにぴったんこしてるの。」とも。

 別の日には、「きょうのほいくえん、えほんのじかんながいの。おそとでないから、たいくつ。せんせーすぐどっかいくし」と言っていた。

 自転車の日は、残念ながら風で何を言ってるのか聞こえなかった。だから、記憶にあるのは雨の日の会話が多い。

 そういえば、どこの保育園でか、『ひとりあやとり』を覚えてきた。どうも、先生が真白を放置していたようで、ひとりあやとりができるように教えて、真白がひとりで遊んでいる間に別のことをしていたらしい。真白が器用だったから覚えられただけだろうが、問題のある園だと思った記憶がある。ただ、真白は聞かれないと話さない。こっちからいろいろ質問して、やっと園での様子がわかる、というやりとりが続いた。


 流川保育園最後の日、真白は珍しく泣いて泣いて大変だった。

 朝からずっと、押井先生の脚にしがみついていた。この日はうさそっちのけで、「おおいせんせー!!」だった。日中は落ち着いたらしいが、俺が迎えに行ったらぎゃんぎゃん泣いた。

 真白がここまで感情をあらわにしたのは、俺が目にしたのも初めてで、押井先生と二人、泣いて喜んだ。真白と三人で抱きしめ合ったのを覚えている。

 それだけ押井先生との別れを惜しんでいたのに、翌日、幼稚園の制服を着た真白は、いつもの無表情に戻っていた。そして「おおいせんせー」と言わなくなった。



 小学校入学式の翌日、夜、俺は学校に呼び出された。校長室である。担任と別の保護者も同席している。

「まさか真白が?」と思いもしたが、いきなり向こうの両親が頭を下げてきた。

 まったく意味がわからない。謝罪の言葉はなく、ただ頭を下げている。なんなんだ?

 と、担任の先生がメモを見ながら説明してくれた。

「今日、休み時間に、こちらのお子さんが石田さんのお子さんに『お前のお母さん出ていったんだよな』という暴言をつきました。」

「すみません。」

 頭を下げたままの保護者のお父さんの方から、小さな謝罪の言葉が聞こえた。お母さんの方はなにも言わない。

 校長先生が話し始めた。

「今、クラスによってバラつきはありますが、どのクラスも三、四人から十人近いお子さんが、ひとり親なんです。各家庭の事情だって様々ですし、非常ーにプライベートな問題です。なんの意味もわからない子どもが、他人を揶揄っていい理由にはなりません。大人たちが不用意に子どもに聞かせる事でもありません。――実は、お子さんから学校での様子を聞いた、他の保護者の方からクレームがありました。それで、事実確認を行い、こんなお時間に申し訳ありませんが、お越しいただきました。」

「すいません。」

 お母さんの方の声が聞こえた。

 このままでは埒が明かない。どう答えたものか――。悩む。

「うちのことは――母がおしゃべりなんで、気に入らないことがあると何でも喋っているのでしょう。――クラスにそんなにひとり親家庭が多いとは知りませんでした。他のご家庭の事もありますので、ご両親にはお気遣いいただければと思います。」

 なんとか無難に纏めようとしたが、大丈夫だろうか。校長先生と担任の先生には「お気遣い有り難うございます」と礼を述べた。

 後日、学校から『ひとり親家庭の児童を守る』というプリントが全世帯に配布された。


 小学3年生の時にも呼び出しがあった。この時は、事前に電話で説明を受けていたので、動揺はなかった。

 真白が描いた絵が、県ジュニア展で金賞を取った。校内で展示していたその絵を破いた子がいたらしい。事故か故意かは聞かなかったが、先生たちの口ぶりから、いじめに近いものがあるのだと感じた。

 そんな事件があっても、真白は俺に告げ口のようなことはしなかった。逆に「お父さんごめんね、真白のせいで迷惑かけて」と謝られた。おかしい。


 5年の林間学校は、感染症で行けなかった。

 その分、心配していた修学旅行は、クラスの大人しい子たちのグループになり、楽しんできたらしい。

 本人は「楽しかったよ」と言っていたが、どの写真にも笑顔がない。確かに、同じグループの子は、他の子たちのようにはしゃいでいないので、真白は馴染めたのだろう。

 修学旅行では、「いいことがありますように」とかわいいうさぎが二羽くっついたキーホルダーをもらった。デザイン的に「縁結びじゃないか?」と思ったのを覚えている。ポケットに入れて持ち歩く小銭入れに付けていたが、いつの間にかなくなっていた。真白は「気にしなくていいよ」と言ってくれたが、罪悪感が半端ない。


 真白の卒業式。

 中学受験する児童に配慮して、全員私服での参加だった。

 小学生にしては背が高くなった真白は、きりっとしたブレザーがよく似合った。俺は、その姿を見ただけで泣いてしまって、父に呆れられた。母親に似て顔立ちも整っているし、周りからも「中学入ったらモテるよ!」なんて冷や冷やする事を言われた。

 卒業証書を持って、満開の桜の木をバックに二人で撮った写真は、少しだけ真白が微笑んでいるように見える。今でも、この写真を見ただけで俺が泣くので、写真館でパネルにした物は真白が隠してしまった。残念。


 中学に入って、成績は絶好調。常にトップクラスにいる。友人と勉強しに集まることもあって、うまく馴染んでいると思う。その友人は、『趣味が勉強』らしい。真白と気が合うはずだ。

 真白が小学3年になってから、以前俺が使っていた洋室を真白の部屋として使っている。シングルベッドもマットレスだけ替えてそのまま使ってくれている。この部屋で真白がしていることは、勉強、読書、裁縫くらい。ゲーム機は欲しがらないので買っていない。替わりにコンピューターミシンを購入したが、どちらかというと手縫いの方が好きらしい。ミシンの音は、年に何日も聞こえない。

 勉強が好きなのか、他にすることがないのか…正直なところわからないが、嫌いでないのははっきりしている。そんな勉強好き同士、長く友人関係が続けば、と願わずにいられない。

 中学に入ってからの真白は、相変わらず大人しいが、少し、表情が変わるようになった。やっと、普通の女の子らしくなってきたと喜んだ。


 そして、今――。

 両親に――特に母に――配慮して、家の中では空気のように存在感を消して過ごしている。俺の様子は母より察するのが上手い。逆に、俺が困るくらいだ。

 良く言えば「大人しくて気遣いができる」。穿った見方をするなら、「他人本位」と言えよう。

 今までも十分苦労してきたのに、この上更に、祥子の事で気苦労をかけるわけにはいかない。


 真白の姿が、少しずつ大人の顔立ちに――祥子の顔に変化した!


 俺に跨がって祥子が口を開いた。

「…ねえ、子どもができたら…結婚する?」

 なんともそそられる祥子の姿に、生唾を飲み込む。

「もちろん。その時は結婚するよ。でも、まだ早い。」

 祥子は腰を使って俺を堕とそうとする。

「『早い』なんて言わないで。あたしは和弘の子どもが欲しい…」


 ああ、ダメだ。


 頭の中で警鐘が鳴っている。わかっているのに、俺はどこまでも祥子に堕とされていく――。

 俺は激しく腰を振った。

 二人で絶頂を迎える。

 俺の上にもたれ掛かった祥子の髪を優しく撫でた。

「子どもはいずれ、な?」

 不満そうに唇を尖らせる祥子に触れるだけのキスをする。少しでも不満を解消してもらえるように、優しく、優しく、髪を撫で続けた。



 夢なのか、過去を思い出しているだけなのか、俺はうさを撫でながら眠りに落ちていた。


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