第3話 なにがおきているんだ⁉

 風呂から上がった俺は、二階の部屋に入った。

 二階は三部屋あって、俺の部屋だけ和室で他は洋室にリフォーム済みだ。俺の部屋だけ和室なのは、洋室に馴染めない両親への配慮だった。だが、幼い真白がこの家に戻ってきてからは、ここで俺と真白と布団を並べて寝るようになった。そのまま今もこの部屋を使っている。両親は、一階の客間に移った。

 隣に真白の部屋がある。

 もう一つ、一番奥の部屋は、今は誰も使っていない。以前は俺と嫁と真白の三人で使っていた部屋だ。大きなベッドが置かれている。家具を入れ替えたとは聞いていないので、今でも当時のままなのだろう。10年も経ったのに。――もう入りたくない。



 途切れた意識の向こうで、怒鳴りあう声が聞こえる。

 うるさく喚く母とは別の、若い女性の声も。

 廊下を通り越して玄関外まで聞こえてくる声の主は、俺の母と――出奔していた嫁である。

 居間の戸が開けっ放しだったので、買い出しの荷物を下げて帰宅した俺はその様子を見て唖然とした。

「――祥子⁉」

 俺の声に気づいた祥子は、揉み合っていた母の腕を抱えたまま振り向いた。

「やっと帰ってきたのね。和弘!」

 祥子の顔が笑みを形作る。――怖い。長い髪を振り乱して、揉みくちゃの恰好で、整った顔の女の微笑は迫力があった。

 恐怖で固まった俺は、持っていた荷物を落とし――我に返った。

 慌てて二人の間に割って入って引き離しにかかる。45歳とは思えぬ母の力に苦戦しながらも、なんとか二人の手を放して祥子を俺の後ろに引っ張る。

 と。

 視界の端で黒いものが動いた。座卓の端に座っていた父である。


 ――なんてことだ!いるなら止めてくれよ‼


 俺は心の中で叫びながら、その場で声を上げる。

「なにやってるんだよ⁉」

 父が母を手招いて座らせるのを確認して、祥子の腕をつかんだまま振り返った。

「帰ってきたのか?」

 2年ぶりに会った嫁は、へらへらと笑いながら片手で髪を整えている。

「帰ってきたのか?」

 両肩をつかんで揺さぶりながら、俺は再度問いかけた。

「えー、来たけど。用があったから。」

 俺の目を見てへらへらと答える祥子の服を整えてやる。――なんてこと!高級ニットが伸び切ってるじゃないか⁉


 じゃない‼


 嫁がいる。

 両親がいる。

 俺もいる。

 いない⁉


「真白は⁉」

 俺はもう一度祥子の両肩をつかんで、叫んだ。

「真白をどこに置いてきたんだ⁉」

 興奮した俺とは対照的に、表情を変えないまま、祥子が言った。

「外よ」

 俺は玄関に走った。

「大丈夫よ、ちゃんとベビーカーに乗せてるから。」

 呑気な嫁の声が聞こえた。

 玄関を出て、右に左に真白の名前を叫ぶ。


 ――あいつはここまで突飛な奴だったか⁉


 走りながら大通りまで出てしまう。回れ右してもと来た道を走って戻る。

 家まで戻ると、静かだった。祥子と母が静かにしているはずがない。

 荒い息をしながら玄関を覗く。と、小さな靴が揃えられていた。他に見慣れない靴はない。

「和弘ー」

 低くて伸びのある父の声が聞こえた。

 急いで靴を脱いで居間に戻る。そこに俺の娘――幼い真白がいた。



 両足がびくんと大きく持ち上がって目が覚めた。

 胃が痛い。全身いやな汗をかいた。喉も乾いている。

 同時に、なんとも表現しがたい感情が胸の中を荒れ狂った。10年も経ったのに、あの日のできごとは、鮮烈に俺の記憶に残っている。

 着替えて部屋を出ると、廊下に中学生の真白がいた。

「どうした?」

「大丈夫?うなされてるみたいだったから。」

 どうやら、俺を心配して様子を見にこようとしていたらしい。優しい子だ。――母親とは違う。

 「大丈夫だ」と適当に誤魔化して、階段を下りる。脱いだ着替えを脱衣所に出して台所に入った。

「ふうぅ。」

 大きなため息が出た。

 シンクに置いてあるコップで水を飲んだ。コップはそのまま伏せる――と真白が嫌がるから、一応水ですすいでおいた。

 もう一度布団に入る。

 が、眠れる気がしない。

 そのまま、あの日の事を思い出していた。



 居間に戻った俺に、母はヒステリックにまくし立てた。

「和弘!早くこれを書きなさい!!さっさと離婚して!向こうの両親とは連絡取れるの?こんな一方的に子ども置いていくなんて…ちゃんと請求しなさいよ!」

 相変わらずの母の口撃。しかし、口だけで母が父から離れない、と思ったら、しっかり父が腕を掴んでいた。そうだよな。また暴れられても困る。真白もいるし。

「わかった。書いておくよ。」

 俺は、足下に正座して小さくなっている真白に目の高さを合わせて声をかけた。

「真白~、お父さんだぞ。覚えてるか?」

 反応がない。仕方がない。覚えていないだろう。祥子が連れて行った時、まだ2歳にもなっていなかったのだから。

 真白の横に見慣れないバッグがある。祥子が置いていったのだろう。右手で持ち上げる。

「親父、真白の荷物ってこれ?」

「ああ。置いていったのはそれとベビーカーだけだ。」

「わかった。」

 俺は、空いている左手を真白に差し出した。

「おいで真白。」

 反応がない。ただじっとして畳を見つめている。

 俺は、真白の横にしゃがみ込んで、もう一度声をかけた。

「真白~?お父さんと部屋に行こう。」

 ゆっくりと真白がこっちを見た。なんの感情も見出せない、静かな目だった。


 結局、片腕で真白を抱き上げて、二階の部屋に入った。

 俺の部屋はフローリングの4畳半で、座るところはベッドしかない。ひとまず真白をベッドに下ろす。一瞬、しがみつこうと抵抗らしきものがあったが、大人しくベッドに腰掛けた。

 困ったな。どうしたものか――。

 ズボンのポケットからスマホを取り出した。が、画面を見て悩む。真白が先だ。

 ベッドに座っていても低い位置にある真白の顔に目線を合わせて、話しかけた。

「真白、お父さんだよ。覚えてなくても、俺がお父さんなんだよー。」

「――おとーさん?まーの、おとーさん?」

 小さく首をかしげながら、ようやく可愛い声を聞かせてくれた。

 どっと涙が流れた。ずっと、ずっと、会いたかった、俺の娘――!!

 きっと困惑しているのだろう、さっぱり表情が変わらない。顔立ちは…ますます母親に似てきたな。というか、俺の要素はどこだ?

 真白は、じっと俺の顔を見ていた。

「お腹空いてないか?ばーちゃんが五月蠅うるさくてごめんな。」

 そっと頭を撫で――ようと手を伸ばしたら、体を大きくびくつかせた。驚かせてしまったらしい。どうしよう。2年も経って娘の接し方がわからない。

「真白、頭撫でてもいいか~?」

 声に出してみた。

 真白は、ずっと俺の顔を見ている。ただ静かに見つめている。

「頭、なでなでだぞ~?」

 今度は、小さく頷いたようだ。俺が手を伸ばすと、目をぎゅっと瞑って首を縮こまらせた。そのまま、ゆっくりと撫でる。

 しばらく撫でていたら、体の力が抜けて目を開けた。俺は安堵の息を吐いた。

「真白、ぎゅーってしてもいいか?」

「ぎゅーってだっこ?」

「そう。真白、お父さん抱っこしてもいいか?」

「うん。」

 そっと真白を抱きしめる。そのまま背中をゆっくりと上下に撫でる。

 自分の娘なのに、コミュニケーションも満足に取れない。心の中では自分をなじって、目からは歓喜の涙を流した。


 しばらくして、真白の体から急に力が抜けた。

 見ると、ぐっすり眠っている。

良かった。落ち着いたのかな?

 そのまま俺のベッドに寝かせ、俺はスマホで祥子の実家の連絡先を探した。だが、見つからない。ほとんど連絡を取っていなかったので、こっちにデータ移行できていなかったのか、と思い、ガラケーを探して充電し、電源を入れた。古い携帯電話には祥子の実家の固定電話の番号が残っていた。

安堵したのは一瞬。まだ固定電話を使っているだろうか?不安のまま、画面に表示された番号をスマホに入力していく。発信ボタンを押して一拍の間があり、発信音が鳴り始めた。

緊張がピークになる。相手は電話に出ない。ばくばくと鼓動が鳴っている。

「出た!」と思った次の瞬間。留守番電話のガイダンスが流れた。

「――。石田です。槇野さんのお宅でしょうか?祥子さんの事でお話をしたく。夜、かけ直します。」

 俺は電話を切り、一気に脱力した。

 そのまま、真白の横に倒れ込む。眠っている横顔は、祥子とは鼻の高さが違う。頬も丸っこい。てろんとしたおでこの広さも…。と、眺めている場合じゃない。

 起き上がって、バッグの中身を確認する。晩秋の今にはちょっと薄いんじゃないか、と思ってしまう衣類の上下と下着それぞれ4、5着ほどが入っていた。内ポケットには、母子手帳、(俺の扶養の)健康保険証の入ったお薬手帳ケース。あとは、異なる自治体の診察券が数枚。

「今までどこにいたんだよ…」

 持ち物は質素そのもの。ブランド物でも有名どころの物でもない。

 中身を床に出したが、パジャマが見当たらない。忘れたのだろう。

 と、ここでふと気づいて、真白から上着を脱がせた。綿が入っているが、少し薄手だ。必要な物を買いに行かねば!――とは思うが、サイズがわからない。ここにある服も、ちょうどいいのか、大きいのか小さいのか。真白が起きてからにしよう。

 他にすることは――?

 一度真白に目をやり、起きそうにないので、両親のいる居間に戻った。


 俺の顔を見るなり、母が喚き始めた。

「まだ離婚してなかったの!?あんな女、さっさと縁切ればいいものを!あんな子だって――」

「真白まで言うなよ!やっと落ち着いたのに。」

 俺が怒鳴ったのが意外だったのか、母は急に黙り込んだ。

「親父、なんか聞いてない?」

 父は母を見やってから俺に向かってしっしっと手を振った。顔をしかめている。

 俺は意図を察して離婚届だけ持って自分の部屋に戻った。


 改めて離婚届を見る。

 証人欄には、俺も知ってる祥子の友人二人の名前があった。住所は近隣だし、多分本人なのだろう。真白の親権は俺でいいのか?祥子の欄は空白になっている。気になる点は、祥子が元の戸籍に戻ることか?俺が知っている知識では、離婚後には新しい戸籍を作って世帯主になるはず。新しい戸籍は作らず、元の家に戻る…?

 まるで、俺と結婚していたことをなかったことにしたいような内容に目眩がした。

 祥子は家族と上手くいってないような事を言っていた。それなのに、だ。

 背筋をぞくぞくしたものが這い上がってきて、身震いした。


 真白は2時間ほど寝て目を覚ました。

 もう夕方になる。日暮れが近い。明日は月曜だが、とても出勤できそうにない。真白の買い物は明日でいいだろう。市役所にも行かないと。

 差し迫った問題は、真白の夕食である。子どもの事は俺にはとんとわからない。そんな用意ももちろんない。どうしたものか――?

 困った時の外食である。幸い、行きつけの小料理屋が開いていた。

 女将さんに相談に乗ってもらう。子どもの食べ物、買い物など。そして、保育園の話が出た!まったく縁がなかったので、失念していた。

「どうしよう!?」

「急な入園は無理ねぇ。『とりあえず』で一時保育を利用してみたらどう?私も詳しくはないのだけど、用事のある時だけ預かってもらえる制度らしいわ。同じ園に通える回数が週何回だか月何回だかあるらしいけど、どう?」

「ああっ!ありがとうございます。」

 俺は、何度も女将さんに頭を下げた。

 うちは母が働いていないので、保育園の要件を満たしていないこともわかった。しかし、あの母が真白を見てくれるだろうか?不安で、とてもではないが任せられない。

 事実上、今まで別居していたとはいえ、真白は俺の戸籍に入っている。書類上、祥子の住所もうちになっていたから、まずは離婚届だ。同時に、『子ども課』なるところにも手続きが必要か確認を取る、と教えてもらった。保育園の入園申し込み窓口もここらしい。

 母より頼れる女将さん。感謝しかない。

 真白も少し、食べてくれた。食が細いのか、緊張してか。まだまだわからないことだらけだ。

「うちはこういう商売でしょう?だから、ね。お客様の相談に乗るのもお仕事なのよ。それに、私も子育てしたんだもの。」

 確かに。女将さんはあまり自分の話をしないから、忘れてしまう。

「また頼りにしてます。よろしくお願いします。」

 俺は、何度も何度も頭を下げ、会計して帰宅した。


 さて。嫌な気分しかしないが、祥子の実家に電話しなければ。

 スマホを取り出し、発信ボタンを押す。


 ――ププププ、ププププ、ププププ、ププププ、ププププ。


「はい?」

 出た!

 緊張で手が滑る。

「昼間お電話しました石田ですが、牧野祥子さんのご実家でよろしいでしょうか?」

 先方の女性が名乗らないので、まずは確認する。

「…和弘さん?あの子が何かしたのか知りませんけど、『うちにはかけてこないで』と前に言いましたよね⁉」


 あ、この人は継母だっけ?マズったな…。


「すみません、聞いています。ですが、大事なお話がありまして、お義父さんはご在宅でしょうか?」

「関係ないわ!切るわよ‼」


 プツンッ。


 電話は切られてしまった。

 どうしたものか…。実家と仲が悪いというのはわかっているつもりだったが、ここまで俺に邪険に当たられたことはなかった。正直、衝撃が強すぎて、状況を呑み込めていない。

 いきなり4歳児の父親になって、なにをどうすればいいかわからない。助言をもらえる当ては…あるにはある。だが、母ではない。中々、踏み込んだ話題なので、相談する相手は慎重に選ばなければ。その点、夕食の時のように『はやと』の女将さんは頼りになる。だが、子育てが終わって幾分か経っている。最近の事情には明るくないだろう。子育て中の職場の人に聞くしかないか?プライベートが駄々洩れする予感しかない。

 俺は、盛大なため息を吐いた。


 夕食は終わったので、次の課題はお風呂である。

 真白を促し、階段を下りる。脱衣所でタオルを出していたら、廊下に父が来た。

「和弘ー。ベビーカーにぬいぐるみがあったから、置いとくぞー。」

 すると、突然、真白が反応した。

「うさ!うさどこ⁉」

 廊下の戸を開けると、中腰の姿勢の父がいた。

 手元のぬいぐるみを見て、真白が拾い上げる。「うさ!」と声をかけて、大事そうに抱きしめ、撫でた。ずっとずっと撫でている。

 このままでは風呂に入れないので、「うさとは一緒にお風呂入れないんだ。な?」と言い聞かせるが、中々放そうとしない。何度も繰り返し言い聞かせて、ようやく着替えの上にぬいぐるみを置いた。

 俺が先に服を脱ぎ、後から真白を脱がせる。

 左肩の後ろに大きな痣があった。どこかにぶつけたのか?青黒く変色していて痛々しい。上がったらシップを用意しよう、と思って二人で風呂に入った。

 風呂から上がって部屋に戻っても、真白は無言だった。ただずっと、ぬいぐるみを撫でている。相当お気に入りなのだろう。

 そんな真白の様子を眺めていたら、かくりと船を漕ぎ始めた。

「眠いか?うさと一緒に寝ような。」

 布団をめくってベッドに横になると、すぐに瞼が下りてきた。寝息が聞こえてくるまではすぐだった。


 真白がぐっすり眠ったことを確認して、今後のことを両親に相談に行く。

 階段を下りて居間に入ると、父が一人だった。

「あれ?母さんは?」

「隣の部屋で寝た。」

 ――?隣は客間として空けている部屋だ。押し入れに布団は入っていたはずだが、なんで?

「疲れて寝たのか?――それとも、俺の隣の部屋に来たくないって?」

 母の我が儘は珍しくないので、心当たりを聞いてみた。

 父は、下を向いたまま言いにくそうにしている。

「なんだよ?」

「んー。あの子と顔会わせるの、嫌だって。」

「ふぅ」

 俺は大きく息を吐き出して続けた。

「祥子と揉めるのはしょっちゅうだったけど、真白はまだ小さいじゃないか。なに酷いこと言ってんだよ。」

「…あの嫁の子どもだからだろう。それより、明日はどうするんだ?」

「会社?休むよ。市役所に離婚届出してくるし、真白の預け先の相談もしたいから。母さんじゃ無理だろ?」

「そうだな。俺に協力できるところは、言え。ただ、あまり…育児についてはわからんぞ。全部、母さん任せだったから。悪いな。」

 俺は、台所に行ってお茶の用意をした。父と二人分の湯飲みを出し、急須に茶葉を適当に入れて、保温ポットの熱湯を注ぐ。それらを盆に載せて居間に持って戻った。

「とりあえず、親父、茶。」

 座って急須から湯飲みにお茶を注ぐ。

 自分用の湯飲みを持とうとして、熱すぎてやめた。

「なあ。今の俺の部屋、シングルベッドじゃ真白と一緒に寝るの危ないと思う。」

「そうだな。子どもの寝相じゃ、ベッドから落ちるだろう。昔から、子どもは『畳に布団』だ。」

 そんなことは決まっていない。が、今相談しておかないと、後で困るのは俺と真白だ。

「俺、あの部屋戻りたくないんだ。あの部屋なら広いし、ベッドも大きい。けど、思い出したくない。…だから、真白が大きくなって、一人部屋になるまで、和室使いたいんだけど…どうかな?」

 父は腕を組んで難しい顔をしている。何度も首を左右に揺らして悩んでいるようだ。

「母さんは…どうするんだ?二階に来る気あるかな?俺は上でも下でもどっちでもいいんだけど。」

「わかった。母さんに相談してみる。」


 そう。あの日はそれで終わった。


 翌日、会社を休んだ俺は、真白を連れて車で出かけた。

 まずは市役所。市民課で離婚届を提出する。すんなり受理され、拍子抜けする。こちらにとっては人生の一大事でも、お役所にとっては、単なる事務仕事に過ぎないらしい。

 子ども課にも寄った。ここで、小児医療費の手続きをした。これがないと、窓口で三割負担になるらしい。自治体が違うと使えないとかで、いろいろ説明を受けた。真白の証書は祥子がなくしたのか?15歳まで使えるはずが、お薬手帳に入っていなかった。

 同時に、保育園の相談もする。一次募集の締め切りが数日前で終わったらしく、来年度の入園は絶望的と知らされた。もっとも、うちは母が働いていないので、誰かが介護とか特殊な状態にならない限りは抽選にも入れないと聞いた。早との女将さんにも言われていたので、そこは諦める。幼稚園の募集は、各園に問い合わせてほしいと言われた。

 別室で、保育園の一時保育の説明と、真白の今の状態の聞き取りを受けた。

 この時になって、俺は祥子の捜索願を出していたことを思い出した。警察にも行かないと――。気疲れで思わずため息が漏れる。

 今日は母子手帳、その他諸々を持ってきている。母子手帳を見た保健士さんからきつめの注意を受けた。家庭相談員とかいう人からも、「石田さんの家の事情は窺っています」と意味深な(誰から聞いたんだ)言葉をいただいた。

 ここで、昨日の母のヒステリーと、真白の痣の話をする。すると、うちでの養育は「要注意」として扱うとかで、保育のできる人がいるのに「保育園を利用できるように」融通してくれることになった。

まずは、保育園に連絡を取って、一時保育の空き状況を確認するから、と保健士さんが席を外した。

三人になると、家庭相談員さんが話しかけてきた。

「石田さんのおうちは、いろいろと噂があって私も聞いています。その、ね。言葉は悪いですけど、奥さんが突然子どもを置き去りにして、混乱しているでしょう?あなたのお母さんも、お子さんと同居できるのか心配。こっちでも使える制度は紹介していきますから、気兼ねなく相談してくださいね?」

 席を外していた保健士さんが戻ってきた。手に書類を持っている。

「いくつかの保育園で、木曜日からですが一時保育の受け入れができるとお返事いただきました。あくまでも『一時保育』ですから、同じ保育園は連続三日、月十日までです。他の方も、あちこち掛け持ち…というか、上手く利用してお仕事なさっています。申込書類はこちらです。先にお渡ししますが、見学はどうしますか?」

 俺が選り好みせず、申し込むこと前提で話が進んでいく。

 確かに、背に腹は代えられない。俺はその場で申し込みをした。


 市役所の手続き後、警察署に事情を話して捜索願を取り下げる。

 ここでは、俺がDVをしていたのではないかと疑われ、真白と引き離されて聴取を受けた。窓に鉄格子の入った取調室など、俺の人生、後にも先にもこの時しかない。警官が気を利かせて出入り口のドアは開放したままだったが、それでも、入り口から遠い席に「どうぞ」と促されたのは、肝が冷えた。

 残念な事に、ここでも母と祥子の不仲は把握されていた。祥子の失踪当時、聞き込みした調書があって、そこに複数人の証言として記載されていたのだとか。俺への疑いは晴れたが、なんとも後味が悪かった。

 最後に、真白に必要な物を購入した。保育園に着替えを沢山持っていくので、着替えは多めに。それらをいれる大きなバッグとお弁当箱やカトラリーセット、お手拭き用のタオルなど、市役所でもらった『入園のしおり』を見ながら、買って回った。

 荷物を車に積み込み、真白を車に乗せて、ふと疑問に思った。「シートベルトの高さが合わない」という現実。そして、チャイルドシートを買いにもう一度店に戻った。


 用事を足して回って帰宅して、母が外出していることに気づいた。

 どうせ近所で愚痴を言ってるのだろう。祥子だけでなく、真白まで近所で笑いものにされるのでは…と不安に駆られたが、母に口止めは無理だ。俺も父も既に諦めの境地に達している。周りが呆れて相手にしない事を祈る。

 疲れたな。仕事に行くより疲れた。もう休みたい。

 だが、俺より真白だ。

 昼食は、移動の途中、車の中でパンを食べただけ。トイレはどうしたんだ?聞けば、婦警さんが連れて行ってくれたらしい。

 まだ上手く会話が成り立たない。真白の語彙力と、俺の喃語のレベルが折り合いつかない。普段の会話の癖もわからないし――。ただ、俺を「おとーさん」と認識してくれたのと、一人称が「まー」なのだけはわかった。



 ふと時計を見る。もうすぐ4時だ。いかん、寝なくては!今日は多分、徹夜になるだろう――。

 頭の中を憂鬱な仕事モードに切り替え、俺は眠りに落ちた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る