夢幻の千夜譚・忘れ森の呼び声

 むかしむかし、此の谷の奥深くに、「忘れ森」と呼ばれる幽玄の森ありき。

 此の森に纏ふは、古より続く言ひ伝へにして、誰しもがその呪ひを畏れ、語り継ぎしものなり。


 伝へらるるところによれば、森の奥へと足を踏み入れし者は、遂には己が身を忘れ、何を求め森に来たるやも思ひ出すこと能はずと申す。

 此の森には、「呼び声」といふ奇妙なる響きありて、昼夜を分かたず、ひそやかに人々を誘ひ寄せるものなり。

 初めはかすかなる風の如き囁きに聞こゆれども、次第に馴染み深く甘やかなる響きへと変はり、遠き想ひ出や逢はぬ人の顔がふと蘇ると申す。

 この懐かしき声に誘はれ、何も知らぬ者は自然と奥深く歩を進め、やがては森に迷ひ込むものなり。


 さて、忘れ森の奥には、「思ひ出の泉」と呼ばるる泉ありて、其の水には森に呪はれた者の記憶を、ひと時のみ蘇らせる奇しき力を宿せり。

 いにしへの伝承に曰く、此の泉の水を掬ひて口に含むならば、失ひし記憶、遠き日の面影が鮮やかに心に蘇り、かつての日々が今ここに在るが如き感覚に包まるるといふ。

 しかし此の力も刹那に過ぎず、蘇りし記憶はまた忽ちのうちに消え、霧のごとく手のひらをすり抜けるのだとか。


 ある年のこと、一人の旅人が此の森に迷ひ込み、やがてすべての記憶を失ひしと伝へらる。

 旅人は森を彷徨ふうちに偶然にも「思ひ出の泉」を見つけ、その水を掬ひて口に含みたり。

 すると、遠き故郷の景色と、かの地にて待つ人々の面影が脳裏に浮かび上がりたり。

 されど、その一瞬の後には泉の力もまた失せ、すべては再び忘却の彼方へと消え去りしといふ。

 旅人は胸のうちに何か大切なるものを手放した感覚のみを抱き、森を出るまでの間、ひたすら静かに涙を流し続けたりと申す。


 今もなお村の者たちは、「忘れ森の呼び声」に決して耳を傾けることなかれと、口々に言ひ伝ふる。

 如何に懐かしく甘美なる響きであらうとも、決してその声に誘はれてはならぬと。されど、思ひ出の泉の奇しき力を求め、森へと足を向ける者の後は絶えず、また、彼らが二度と戻らぬまま森の奥へと消え去りしことは、今も風の噂として語り継がれ、村人の胸をぞぞとさせるなり。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る