渓谷の村の伝承
夫の仕事に付き添い、のんびりとした旅を楽しむつもりで馬車に揺られ、途中の村で一泊し、ようやく三日目にして目的地に到着。
渓谷の奥、ひっそりと隠れるように佇む小さな村が、今回の仕事の舞台だ。
ここに伝わる古い伝承を調べることになっている。
渓谷の景色は、まるで絵に描いたように美しく、つい「仕事が終わったら少し観光でも」と浮かれ気分で夫の後を追いかけていた。
ところが、夫が村の人たちにあれこれ聞き込みを始めるものの、どうにも話が進まない。
村の人たちはにこやかに応じてくれるけれど、肝心な話に触れようとはしない。
答えはどこかぼんやり曖昧で、聞いているこちらまで眠くなりそうなほどだ。
古い伝承がまとめられた「夢幻の千夜譚」という書物もあるにはあるけれど、百年以上も前に記されたものとあって、言葉遣いも回りくどく、読むたびに途方に暮れる。
だからこうして、現地まで足を運んで直接話を聞こうというのだが、なかなか思う通りにはいかないものだ。
そこで、見かねた私は「それで、この谷にはどんなお話が伝わっているんですか?」と、できるだけ柔らかな声で尋ねてみた。
すると、村の人たちも気を許してくれたのか、ぽつりぽつりと話がこぼれ始める。
思わず小さくガッツポーズをしてしまう。
渓谷の奥には「朧森の霊樹」という名の古木があり、そこには今も不思議な話が残っているらしい。
村人たちも伝承を話すうちに次第に笑顔が増え、こちらまでなんだか和やかな気分になる。
ふと気づくと、さっきまで隣で話を聞いていたはずの夫が、いつの間にかいない。
ちょっと目を離した隙に、ふらりとどこかへ行ってしまうのは彼の得意技で、こういう時ばかりは困る。
「きっと、話の途中で霊樹を見に行ってしまったんだろうな」と思いながら、村の人たちに確認すると、やはり霊樹のほうへ向かったらしい。
どうやら霊樹は触れさえしなければ問題ないらしいけれど、今では木の周りには柵が設けられ、村の若者たちが警備しているのだとか。
しかし、私の夫のことだから、興味が勝って柵くらいは軽く越えてしまいかねない。
心の中で「やれやれ」とつぶやき、小走りで霊樹のほうへ向かう。
案の定、霊樹のそばでは若者が困惑した声で「だから、ちょっと待ってください!」と言っており、その向こうで夫が「いや、ほんの少し見るだけだから」と言い訳をしているのが聞こえる。
思わずため息が出たけれど、なんだか笑ってしまった。
こんな手のかかる夫、いったい私がいない時の取材はどんなことになっているのかと思うと、心配とおかしさが入り混じる、複雑な気分になるのだった。
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