第8話

そしてようやく颯が『散り桜』に出会えたのは惟が16、颯が18の時。吟鳴が亡くなった後のことだった。


 『散り桜』を観た颯は、稲沢に惟の世話役を自ら名乗り出たのだ。




「惟、お前は部屋に行って休んでなさい。」


「惟を連れていきます。」



 すかさず颯が惟に手を伸ばすが、稲沢がその手を止めた。



「いや、颯には話がある。さつき、惟を連れて行ってやんなさい。」


「はい。惟さん、行きましょう。」



 皐と呼ばれた背の高い男が、惟の肩にスーツのジャケットを掛け、部屋を後にした。皐はよわい30にして北条組若頭の地位に就いていた。


 颯は惟の肩に手をかけ襖を閉める皐の姿に憤りを感じたが、稲沢の眉をひそめる表情を見るとすぐに息を凝らした。



「....颯、惟が裸で暴れたそうだな。」


「.....はい。」


「俺らが言えることじゃねえが、あれにはもう少し品格が必要だ。」


「ええ、仰る通りです。」


「今は警察サツと手を組んで惟を囲っているが、俺はな、いずれ惟にも結婚ぐらいさせてやってもいんじゃねえかと思ってんだよ。」


「.....は?」


「戸籍を入れることはできねえが、形だけでもと思ってはいるんだ。」


「.......」



 稲沢にとって颯も惟も子供同然で、少しでも普通の生活が出来るようにと願ってきた。



 稲沢は惟の背中に彫る吟鳴を止めることが出来なかった。


 高みの芸術性を目指し、周りのプレッシャーに圧し潰されそうな吟鳴を見てきた稲沢は、彼を止めるすべを知らなかった。


 罪滅ぼしのようなものなのかもしれない。出来る限り真っ当な人生を歩ませようと稲沢は国からの目を盗み、惟の事実婚を考えていたのだ。



「...事実婚なんて、それは本当に惟にとっての幸せなのでしょうか。結局は今護衛が張り付いている暮らしとなんら変わりない気がするのですが。」


「颯、お前はちょっとばかし惟に情を抱きすぎてはせんか?」


「......いえ。」


「....ならいいが。重要文化財だって歳を取れば価値が下がり、その時ようやく自由が手に入るかもしれん。」


「.......」


「ただそれは30年後か、40年後かは分からん話だ。それならせめて花のうちに式を挙げて事実婚ぐらいの暮らしをしていてもいい話だろう。そんな重く考えるな。」



 颯は、それでは単に子供の飯事ままごとのような上辺だけの生活に過ぎないだろうと思った。稲沢の"重く考えるな"という言葉がしっくりこなかった。

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