天文台1

 一夜にして、私を取り巻く環境はガラリと変わった。裕福な商人の娘から、後宮に住まう妃へ。まるで拐かされるようにして後宮へと連れて行かれた私は、信じられないような気持ちで朝を迎えた。……いや、起きたらとうに朝なんて過ぎ去っており、夕刻であったのだが。

 

「ちょっと待って……展開が急すぎるわ」

 

 西側諸国からもたらされた、四柱式の天蓋付きの寝台。近年この煌龍帝国でも貴族の間で流通し始めたばかりの寝台の上で、私は重い体を起こし、思わず頭を抱え込んだ。私の実家である蘇家には事情説明の書簡を送ってあると言われたが、きっと今頃屋敷中が大騒ぎになっているに違いない。それに、旅に出ている貿易商のお父様がこの事を知るのはいつになるのやら、だ。

 

(私はただ天体観測が好きなだけの、ごく普通の平民だったはずなのに!)

 

 正確に言えば前世の記憶を持つ上外見が特殊なので「ごく普通」では無かったかもしれないが……それがどうして急に龍皇帝陛下の後宮に住まう妃となってしまったのか。──どう考えてもその趣味の天体観測が原因な上、仲を深める要因となった天文時計は未だ壊れたまま実家の部屋の片隅に眠っている。私は深いため息をつきながら、隣で眠る穏やかな寝顔を睨みつけた。

 

 ただの貴族ならまだしも、龍帝である明昊様に請われては、断れるはずもない。せいぜい「せめて身を清めて、綺麗に着飾ってからにさせてください」とお願いするしか出来ず、それも結局の所彼を喜ばせただけに過ぎない。

 しかも彼は首筋フェチなのか何なのか分からないが、何度も首筋をもどかしそうに甘噛みしてきて……口付けすらせずに首に執着した彼の趣向が理解できずに、私はため息と共に視線を床に逸らす。彼によって用意されていた、まるで天女の衣のように美しい衣装は……脱がされた時のまま、その辺に乱雑に散らばっていた。


「……そんなに睨まなくても。せっかく先ほどまで可愛い寝顔を晒してくれていたのに」

 

 一瞬衣服の方に視線を移した瞬間に、私の体は明昊様の腕の中へと引き戻される。掛布の中の温もりが、私には……更に大きなため息が溢れそうなほどに気まずい。

 

「……狸寝入りですか?」

「うつらうつらだけど、寝ていたよ? でも星蓮が起き上がるから、冷たい空気が肌に触れてね」

「それは申し訳ございませんでした。ではお一人で眠られた方が、掛布も独り占めできますし具合が宜しいかと」

「……空気より星蓮の方が冷たい」

 

 変質者に結婚してくれと迫られて困っていた所を助けてくれた彼自身に、迫られ強制的に妻にされてしまうという、まさかの展開。半ば無理やり後宮に連れてこられては……彼に好意を抱いていた私であっても、前向きに受け入れられるまでには少々時間がかかりそうであった。


(簪を渡された時点で、目を背けずに話を聞いておくべきだったわ)

 

「すまない。妙な男に絡まれているのを見て、早く自分のものにしなくてはと気が焦ってしまって。許してくれないか?」

「……ちゃんと私専用の天文台を作ってくれたら許します」

 

 龍帝である明昊様に赦しを請われては、許しませんとは言えない。なので私は三か月前の約束を持ち出してきて、すぐには許さない言い訳にしようとした。しかしそんな私の返答に、明昊様は少し驚いたような表情をする。

 

「星蓮のことだから気がついているものだと思っていたが……まぁいい。それくらいで許して貰えるのなら、随分と安いものだ」

「……は?」

 

 言葉の意味を尋ねても、明昊様は「昨夜から何も口に入れていないだろう? 腹が減っては気も立ってしまう」と、話を逸らせてしまい……宮女を呼んで食事を運ばせてきた。そして温かい粥を、まるで親鳥が雛に給餌するかのように食べさせようとしてくる。しかも怠惰に、寝台の上で。

 

「明昊様、龍帝ともあろう方が人の世話をするなど……!」

「俺はただ妃を可愛がりたいだけなのだが、何か問題が?」

「色々と問題があり過ぎます!」

 

 まず雰囲気が甘すぎる。皆を恐怖に陥れる龍帝という噂はどこに消えたのか。

 

(確かに、虎鉄さんに対して怒っていた時は怖かったけど……)


 崩れた塀と滲み出る赤色が脳裏に浮かぶが……あんな恐ろしい光景は忘れてしまいたかったので、必死に記憶に蓋をした。


 匙で掬った粥にふーっと息を吹きかけて冷まし、口角を上げて嬉しそうに食べさせようとしてくる人物が、どうしてそうも恐れられているのか、理解できない。「人との距離感を間違えすぎており、その美しい容姿を間近に見せつけることで相手を恐怖に陥れる」の、間違いだったのだろうか? そんな馬鹿な。

 しかもこの人は『人』ではない。崇め奉られるべき龍神なのだ。


「私ばかりではなくて、明昊様も食べてください」

「星蓮は優しいな。でも俺は要らない」

「明昊様だって食事を摂ってないでしょう? お腹空きませんか?」

「俺は食事という行為自体が好きではない。……あぁ、星蓮が口移しで食べさせてくれるというのなら、喜んで食べよう。心を通わせる前から唇を合わせるのは嫌かと思って遠慮したのだが、そんな心配は皆無だったのだろうか」

「──!? う……私が全部食べます。だから、慣れるまでは引き続き遠慮してください」


 通常なら要らない気遣いのようにも思えることでも。何もかも初めてだった私にとっては、そこそこ有難い遠慮であった。

 

 まだ衣を纏う気の無い明昊様の上半身に視線を移せば、胴体や腕など体の至る所から生えている濃紺の鱗のようなものが視界に入る。解かれた長い黒髪に部分的に隠されているが、人には無いその鱗は少しでも見えると大変目を引く。昨夜朦朧とする意識の中触れてみたが、その見た目通りに固く……まるで爬虫類の皮と魚の鱗の中間のような手触りであった。いくら彼自身が妃を同地位に扱おうとしても、人種の壁は越えられない。

 衣を纏っている状態では鱗は見えないようだが、こうやって肌が見える状態になれば、人種の差を強く感じてしまう。


「ほら星蓮。もっと大きく口を開けないと口の端から溢れてしまう。……あぁ、溢れたのを俺に舐め取って欲しいという希望──」

「違いますから!」

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