黒き龍4
「星座か……しかし俺にはどの星が何の星座なのか全く分からないな」
二人の間を流れる静寂を、明昊様の声が破る。大きすぎる心臓の音に気を取られていた私はすっかり時間感覚を失っていて、方角と月の高さで時間を確認した。
「弓座は……って、口で説明しても分かりませんよね。こんな時、天文時計があれば便利なのですが」
「どのように便利なのだろうか?」
「空に浮かぶ星が何座なのか、一目で分かる様に図解されているのです。しかも自動で空の状況と一致するように出来ているので、手入れさえ欠かさなければ素人でも理解出来ます」
「それは凄いな。誰であってもそれを見れば季節を把握することが出来る、神器のようなものじゃないか。もし俺のせいで壊れていなかったら、売ってくれと交渉したかもしれない。いや……国庫から金を出してでも、修理するべきでは……」
(本当にこの人、仕事熱心だわ。陛下もこんな臣下がいて、心強いでしょうね)
「では弓座の説明をしますから、二ヶ月後に会いに来てくださいますか? 流石に金貨一枚はお代を貰いすぎてしまっているので、次にお会いした時には無料で占って差し上げます」
私は頑張っている人が好きだ。応援して前を向き続ける手助けをしてあげたいと思う。だから、勿論お金をもらい過ぎてしまったのもあるが、それを抜きにしても彼の背中を今後も押してあげられたらと考え提案した。
「俺と、また次を約束してくれるのか?」
明昊様は嬉しそうに、明るい声色で話す。隠しておかなければならない本心が彼に伝わってしまっているような気がして、私は一応釘を刺した。
「占い師とお客様。もしくは天文台の約束の債務者と債権者として、ですよ?」
「あぁ分かっている。今はまだそれでいい」
(……今は?)
そんなことがあった翌日だった。
「星蓮ちゃん、今宵こそ俺と恋人になろう。いや、今すぐに結婚しよう!」
「だから何度も言いますが、お断りします」
「じゃあ占ってくれよ! 星蓮ちゃんは今日結婚する運命になっているはずだから」
「占い師は、自分の事は正しく占えないので占いません」
いつも通り占い師としてお客様の相手をして、帰路についた夜。例の迷惑な男性『虎鉄さん』がどこまででも付いてくる。もはやストーカーだ。
(どうしよう……せっかく天体観測して帰ろうと思っていたのに)
あまりの執念深さに、流石に客引きする場所を変えるべきかと思案しながら歩く。そして市が立ち並ぶ区画を通り越して、住居の多い静かな区画に入った瞬間、後ろから勢い良く腕を鷲掴みにされた。
「なぁ。昨日の金だけの男、どうなったんだ?」
明昊様はお金だけの人ではない。陛下のことも、民のことも真面目に考える、仕事熱心な人。その言葉は私の気持ちを逆撫でし、より一層言葉の温度を下げた。
「どうなったも何も、虎鉄さんには関係ありません」
「俺みたいに星蓮ちゃんの全てを愛している男は、他には居ないはずだ。俺にはあんな金は無いが、星蓮ちゃんの爪の先まで愛してる!」
ゾッと背筋に悪寒が走った。これは、吐く息も白くなる外気温のせいではない。
「やめて下さい。むしろ私の何を知っているというの?」
「朝起きた時のまだ夢見心地な表情に、星を眺める時の嬉しそうな顔。入浴時間や、好きな食べ物まで、全部。星蓮ちゃんのことならば、俺は全部知ってる! 昨日だってあの男と城壁の上で抱き合って、可愛い笑顔をあんな男に見せつけて……憎い。俺だけの星蓮ちゃんだったのに!!」
まさかそこまで付け回されているなんて思っていなかった私は、すっかり身を固くして震えてしまっていた。
腕を掴む彼の手の力が強まって、恐怖心で動けなくなる。
(どうしよう……この人冗談抜きで、本物の変質者!)
「……あぁ分かった。星蓮ちゃんは俺の気を引きたくて、わざとそんな態度をとっているんだ。そっけない態度を取る相手は俺だけだもんな? 俺だけが特別。だから星蓮ちゃんは俺と結婚する」
「辞めてください!」
私は全力で抵抗して彼の手を払い、必死で家までの路地を駆ける。しかし基本的な体格の差もあって、屋敷の少し手前で捉えられてしまう。体を後ろから抱きしめるようにして捉えられて、既に精神的に限界だった私は叫んだ。
「嫌っ!!」
「その嫌は、嫌じゃない嫌だろう?」
叫んで抵抗するが、大柄な男性に力で叶う訳がない。頬を伝う涙に彼の唇が寄せられて、私は思わず心に浮かんだ人に助けを求めた。
「や……ッ、誰か助けて! ……明昊様ッ」
腕を引かれて物陰に引き込まれそうになったその時、ポタリとの頬に雨粒が降った。先程まで綺麗な冬の澄んだ星空だった天は、すっかり雨雲に覆われており、凍るような冷たさの雨をもたらす。水をさされてしまった彼はもどかしそうに舌打ちをした。
「チッ、雨か。……って何だこの音は?」
辺りに轟轟と地響きのような音が鳴り響く。徐々に大きくなるその音の正体を探して辺りを見渡していると。その音に釣られて何処かの家から飛び出してきたのだろう。近くにいた子供が上空を指差して叫んだ。
「黒い龍だ!!」
その声に導かれるようにして私達は上空を確認する。すると、そこには長い胴体をうねらせてこちらに向かって降りてくる巨大な黒い龍の姿があった。
現在この煌龍帝国に生存する龍神は二人だけ。黒き龍の龍皇帝陛下と、白き龍の皇弟殿下だけだ。
「うあぁ! 黒い龍だ、不幸になってしまう!!」
誰かの叫び声が響いた。
今まで一度も空を舞わなかった龍皇帝陛下。それが近づき降りて来ているとなれば、皆が狼狽するのも当たり前。近くにいた子供は血相を変えた母親らしき女性に回収されて行き、虎鉄さんは私の腕を離し逃げようとした所で、突然の雨によって作られた水溜りに足を取られて転んでしまう。近隣の住民が勢いよく家の窓を閉め籠る音や、恐怖心から叫ぶ声が聞こえた。
一方私は、龍皇帝陛下と思われし龍の金色の瞳と目が合ってしまい、そのまま動けずにいた。
(……明昊様と同じ瞳の色)
そんな共通項を考えているうちに、その巨大な龍はまるで私を守るように長い胴体を巻いて、取り囲む。そしてその金色の瞳に怒りを滲ませて、水溜りの中で腰を抜かして動けないでいる虎鉄さんを睨みつけた。
『俺のものに手を出そうなど……諦めるなら命までは取らぬつもりだったのに。星蓮を泣かせたとなれば、許せない』
「ヒッ!」
虎鉄さんは蹌踉けつつも何とか立ち上がり、今度は逃げる訳ではなく、何故か私の方にゆっくりと歩いてくる。しかし龍皇帝陛下と思われし龍は、長い尾で虎鉄を払い退けるように薙ぎ払った。その勢いで虎鉄の体は、けたたましい音と共に住居の壁に叩きつけられて地面に崩れる。
「せ……星蓮ちゃん、逃げ──」
それでも虎鉄さんは諦めずに立ち上がり、こちらへ向かって手を伸ばそうとする。しかしその手は、私を欲しているというよりは、黒き龍に囚われた私を心配し逃がそうとしているようにも見えた。
『そうか。ならば、消えてくれ』
龍の長い尾が再度虎鉄さんを壁に埋める様に叩きつける。ちょうどその壁は私の屋敷の外塀で、それは音を立てて激しく崩壊した。
瓦礫の下の赤色に最悪の事態を想像し、私は両手で口元を抑え、目を背ける。
『……生かしておくつもりは無かったのだが、まぁいい。己の頑丈さに感謝することだ』
私の体を取り巻く龍はそう呟くと、私の体を手で鷲掴みにして、空を飛んだ。
冬の空気が顔にぶつかって、冷たすぎて痛い! と思ったが、飛んでいたのはほんの数秒で、すぐに地面に降ろされた。
「ここは……物見櫓がある丘の上?」
『あんな男からは一秒でも早く離れたいだろうから、ひとまず場所を変えさせてもらった』
黒き龍は体から眩い光を発して人の姿となった。仕立ての良さそうな漢服。その胸元の領には金糸の刺繍が入っており、纏う人物の身分の高さを表している。
そしてその人物は、解かれた濃紺の長髪に、輝く金の瞳を持つ。今度はしっかりと香る白檀の香りと、雨に濡れてはいるが見覚えのある容姿に、私は釘付けになった。
「……龍皇帝陛下、だったのですか?」
「君には余所余所しい呼び名ではなくて、真名で呼んでほしい……星蓮」
明昊様はそう言いながら私の手を引いて、自分のそばへ引き寄せる。そして私がこれ以上冷たい雨に濡れないようになのか、ゆったりとした袖で頭から覆い隠してくれた。
相変わらず距離感が狂っているが、まだ気が動転している私はそこまで深く意識せずに、ただ彼の腕の中に収まった。
「助けてくださってありがとうございます。まさか、本当に助けてくださるなんて……」
「無事でよかった。簪を渡しておいた甲斐があったな」
「簪?」
私は懐から昨日貰ったばかりの簪を取り出す。その龍が持っている濃紺の玉が、何故か眩い光を放っていた。
「光ってる……」
しかしそう呟いている間にもどんどんその光は弱くなっていき、すぐにそれは昨日と同じ状態へと戻った。
「所持している者が危機に陥った際に、その玉……龍玉が反応して龍神である俺に知らせてくれるものだ」
「──!?」
(龍玉って、後宮のお妃様どころか、国宝級の一品だわ)
そんな重大な装飾具を持たされていたなんて思っても見なかった私は、思わず腰を抜かしそうになる。しかし明昊様に引き寄せられ支えられている状態では、腰を抜かしてしゃがみ込むことすら叶わない。
「星蓮、どうかしたのか? あぁ雨が寒かったのか、すまない。星蓮からあの男の痕跡を洗い落としたくて、つい雨雲を……」
きっと頬に唇を寄せられた件を指しているのだろう。彼は自分の袖でゴシゴシと力一杯、私の頬を拭ってくれる。上等な布なのに力が込められすぎているせいで擦れて非常に痛い。私は思わず苦笑いになった。
「謝らないでください。私にとっては思いやりのある恵雨でしたから……本当にありがとうございます」
(不幸を呼ぶ黒き龍だとみんな噂するけど、全然そんなことない。一人の民の助けを呼ぶ声に反応して、危ない目から守ってくれるなんて)
「むしろ、迎えにくるのが遅くなり申し訳なかった。何ヶ月も待たせて申し訳ない」
「……? 天文台の話でしょうか」
「本当は、昨日反応が良ければ、連れ帰りたいとも思っていたんだ。でも星蓮は、まだ俺に心を許していないようだったし、ちゃんと手順と順序を守るべきだとも葛藤していて」
「あの……話の先が読めません」
本当に何を言われているのか分からなかった私は、首を傾げる。
「──つまり。俺は星蓮を、たった今から妃として迎える」
「……は?」
今、信じられない言葉が聞こえてきた気がする。
(きさき……妃っ!?)
「……まさかあれだけ龍帝の話をしたのに、俺の正体と思惑に全く気がついていなかったのか? 何とも思っていない相手に龍玉の簪を贈るわけがないし、そもそもあれ程抱き寄せるわけが……」
「──え!?」
「……待て。まさか本当に、少しも通じ合えていなかったのか?」
「お、お許しくださいっ! 私はただの平民の娘で──!!」
私の困惑した叫び声があたりに響いたが、それを聞いた人間は一人もいなかった。
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