第4話




 勇者イグアスの魂が転生した俺、つまり球磨川竜也の肉体は、就職活動を始めた。


 イグアスは、もちろん、本当は元の世界に戻りたかった。そのために、思いつく限りのことは試してみた。魔法も、使える限りのありとあらゆる呪文を試したが、初級魔法すら使えない現実世界では、何をやっても無理だった。つまり、自分だけの力では、元の世界に還るのは、どうやっても叶わないということがわかった。

 加えて、元の世界では、国家叛逆罪で手配され、信頼していた弟子たちにも裏切られている。元の世界に戻ったところで、また追い詰められて殺されるのがオチだ。

 何一つ有効なことが分からない状態でも、時間は過ぎていく。だったらひとまず、この世界で、何とかやっていくしかない。


 あの事故の日から、みなとさんと葵さんが、頻繁にうちのアパートに来てくれるようになった。

 みなとさんは、来る度に、まずはネコのバドを捕まえて、遊び始める。

「ほら! みなと! 今日は遊びに来たんじゃないよ!」

「そんなこといっても、バドが放してくれなくて……!」

「嘘つけ」

 就職活動をする中で知り合ったという二人だったが、高校生のみなとさんと比べると、大学生の葵さんは、しっかりしている印象だった。

 イグアスは、就職活動のアドバイスを、この二人からもらった。二人は、竜也=イグアスが記憶喪失であり、それが自分たちのせいだとかたくなに信じていて、罪滅ぼしもあって通ってきてくれている。

 なんていい子たちなんだ。このまま好きになっちゃいそうだ。というか、据え膳食わぬは男の恥という言葉を、勇者イグアスは知ってるのかね。まったく。

「んー、彼氏からスーツ借りてきたんですけど、サイズが合わないですね」

 葵さん、彼氏おったんかい!

「うちの父からは、借りられませんでした。変に勘ぐられそうで」

 そりゃそうだ。

「ありがとうございます。いろいろお手間をかけてすみません」

 律儀に礼を言うが、俺の顔で律儀だと、どうにも、似合わなくてむずがゆい。

「どうしよっかねえ」

「いっそ、服装自由のところだけ受けるとか、どうですか?」

「働くときは服装自由でも、就活の時はスーツってのが、なんとなく今の風潮だからねえ。服装自由って書かれてる試験会場に行ってみたら、全員スーツの中、一人だけ私服で、もちろん落とされた、なんて、ざらにある話だし」

 悩ましい。というか、本当に理不尽だな、就活。


 ああでもないこうでもないと悩んでいると、夜勤明けの花、つまりお袋が帰ってきた。

「こいつは、社会人になったことがないから、そもそも、スーツ、着たことないんだよね。大人と名乗っていいのかどうか疑わしいレベルだよ」

 そうなんだけど、言い方ってもんがあるだろう。そりゃ、ネクタイの締め方すら知らないけどさ。

「面目次第もございません」

 考えてみたら、異世界出身のイグアスも、スーツもネクタイも着たことはないよね。

 お袋が、タンスの中から、封筒を取りだしてくる。それを、竜也=イグアスに、渡す。

 何だ?

「これは?」

「へそくり。たいした金額じゃないけど、少しずつ貯めてた」

 マジか! 割とオーソドックスなところに隠してたのか!

「そんなお金、いただけません!」

 何言ってんだ! バカかお前! くそ真面目! もらっとけって!

「当たり前だ。きちんと働いて返せ。でもまずは、そのお金で、髪を切りにいきなさい。それから、スーツを買いに行きなさい」

「母上どの……」

 何でもいいけど、その前に、まずはパチンコで増やそうぜ!

「葵ちゃんとみなとちゃん、悪いんだけど、怪異もの付き合ってあげて、見張っててくれる? こいつ、お金を渡すと、すぐに吉住屋で牛丼食べて、パチンコで使い潰してしまうから。もうこれ以上出せるお金はないからね」

 パチンコがダメなら、競馬! お馬さんで増やそう! 今週のG一、獲りに行こう!

「そのお金は、いつか、あんたがちゃんと一人で頑張れるようになったときに渡そうと思って、取っといたお金だから、ちゃんと使って、しっかり身支度を調えなさい」

「花さん、めちゃくちゃかっこいいです……」

 みなとさんの中での、お袋の好感度が、会う度に上がっていってる。

「母上どの……!」

「あと、その母上どのってのもやめて。頼むから」

 わかる。むずがゆいのは、俺だけじゃなかったな。

「思いついた! 花さんと母上を合わせて、花上どのってどう? 良くない?」

「あんたは勝手にそう呼んでなさい」

 もちろん、みなとさんの案は論外だ。

「今まで、僕は……あなたを、どう呼んでいましたか?」

「『クソばばあ』『おい』『ボケ』『ヤニばばあ』『ビール缶』」

「およそ、人として最低」

 何にもしていないのに、葵さんの中での俺の評価が、だだ下がりして、どんどん俺の人格が否定されていく!?

「あとは、たまに、『お袋』」

「……おふくろ……なんか、さすがに、それは」

「お母さん、でいいんじゃないですか? 普通に」

「それこそ虫唾が走るよ。どこの良家のお坊ちゃんだい」

「『お』を取ればいいんじゃないですか」

 葵さんとみなとさんの、それぞれの提案を、イグアスが試す。

「『かあさん』、『かあさん』。いい気がします。かあさん、ありがとうございます」

「……うっさい」

 お袋が、顔を背けて、タバコに火を付けようとして、やめる。

「あ、花上どの、照れてる」

 みなとさん一人だけが、そう呼んだ。


 それから、イグアス=竜也は、葵さんとみなとさんに案内されるままに、美容室へ行って髪を切り、簡単にメンズメイク用の化粧水や乳液、その他軽い美容用品をゲットした。化粧品については、みなとさんが詳しく、頼りっぱなしだった。頼られたみなとさんは、楽しそうだった。

 スーツを買いに行き、もちろん既製品だが、パリッとした新品を手に入れた。

 準備万端、と言いたいが、とはいえ、そのほかにも用意すべきものはあった。

 このご時世、スマホがなくてはならないが、俺は家から出なかったので基本必要なかった。そのスマホについては、以前、お袋が使っていた機種があったので、そこに、格安SIMを契約してきて、使えるようにした。せっかく使えるようになったから、スマホアプリで、バイトも探した。

「短期バイトだと、何がいいんだろうね」

「わたし、ファストフードでバイトしてますけど、割とシフト自由です。でも、もっと自由で高収入って噂なのが——」

 実際に就職が決まるまで何もしないわけには行かないし、とはいえ、がっつりシフトを組むと大変な中、時間の都合がきいてそれなりの収入がある、ということで、みなとさんのアドバイスに従い、スマホを使って引っ越し屋のアルバイトに応募したら、人手不足の折り、即採用された。

「スマホって便利だ……!」

 いきすぎた科学は魔法と区別が付かないとはよく言われるが、それこそ、初めて魔法を見た現代人のように、現代科学にイグアスは感動していた。

 そこからは、俺の部屋のインターネットを使って、情報収集。一応、この間怒られたから、捨てられるものは捨てて、部屋の中はキレイに片付けた。

 誰が? もちろん、イグアスが。ありがとう、勇者様。

「竜也さんの部屋って、よく見ると、なかなかオタクな部屋ですね。すごいPCだし……ゲーミングチェアだし……とにかくゲームだらけなんですね」

「花さんがいるから当たり前かもしれないですけど、ちゃんとWi−Fiも飛んでるんですね」

「それ、調べた。無線接続インターネット回線だね」

「あ! これ!」

 葵さんが、PCに入ってるゲームを確認して、興奮してる。いやーん。人のPC勝手に漁らないで! 変なフォルダ見るなよ!

「昔やってた、すごい好きなゲーム。まだ持ってる人いたんだ! ちょっと感動」

 お。分かってらっしゃる。葵さんは、けっこうゲームに興味があるっぽい。いいね。

「でも、僕、どれがなんなのか、さっぱりわからなくて」

「これは、RPGでしょ、それから、FPS。あ、FPS系が多いですね。割と洋ゲーがお好みなんですかね」

 お目が高い! 実を言うと、ただ引きこもっていたわけじゃなくて、ネットの世界では、それなりに活躍してたんだよ! 一度は世界ランクも上り詰めたことがあるし! 三秒後には抜かれて、ランク落ちたけど。でも、たまに大会に出ては、少しは賞金も稼いでたんだ。職がないだけで、収入がゼロだったわけじゃない。年間通して、たいした金額になったわけじゃないけど。

「ゲーム関係のものは、どうやって揃えてたんですか? お金は?」

 みなとさんの、もっともな疑問だ。

「インターネットで、馬券購入してたみたいだよ。ちょこちょこ当てては、小銭稼ぎをして、一ヶ月に一回くらい、ごくたまーに外出して、牛丼食べて、パチンコやって、で、散在して」

 そんなことはない。少なくともパチンコは、収支で行けば、まあ、プラスになるかならないか、ならないかなあ、というくらいだ。

「なんというか、絵に描いたようなダメ人間ですね」

 葵さんの評価に、

「面目ないです」

 イグアスが謝った。いや、お前が謝ったらダメだろうが。

「一応、月に数万円くらいは、飯代とかで家にお金を入れてたし。入れない月もあったけど」

「でも、それだけだと、ここまでの設備は整えられないですよね」

 もちろん、それだけじゃない。

「五年くらい前に、あたしの実家の両親が相次いで亡くなってね。遺産として少しだけだけど、まとまったお金が入って。無駄遣いするなって渡したお金が、全部、そこのゲームに消えた。あたしゃ絶望したよね。どんだけ育て方間違えたら、祖父母の遺産でゲーム買うバカがいるんだって」

 バカじゃねえよ! と、俺の憤りは空に消えたが、ゲーム好きのはずの葵さんから、予想外な提案が。

「これ、今でも、売ればそれなりのお金になりますよ」

「あ、フリマアプリで。値段調べてみましょうか」

 おい! おい! ちょっと待て! それはやめろ!

「このゲーミングチェアだけで、八万円以上しますよ!」

 みなとさんが、値段を調べて興奮してる。お前の金になるわけじゃねえよ!

「PCは? BTOだけど」

「ちょっと古めですけど、普通に動くなら、一〇万円は固いんじゃないでしょうか」

 もっとお金かかってるから! ダメ! ホント、やめて!

「竜也さん、事故に遭ってから、ずっとゲームしてないですよね……?」

 やれるものならやりたいけど、やってないからといって、売る話が現実的になってきてる……?

「そうだけど、できれば、これは、そのままにしておきたい。今の僕には、何が何やらわからないところもたくさんありますが、でも、その、記憶がないとしても、元の僕が大事にしていたものなら、とっておいてあげたいんです」

 律儀だなあ。でも、ありがとう、イグアス。

「……いいかな、かあさん」

「好きにしなよ」

 そう言うクソババアの口元が笑ってるように見えたのは、俺だけか?


 なんだかんだで、いろいろと準備をしたりして、時間が遅くなった。

 みなとさんと葵さんは、すっかり慣れっこになって、うちで夕食を食べていくことになった。

「ほら、竜也。作れよ」

 と言われたが、もちろん、イグアスが作れるはずもない。

「こいつ、得意料理あるんだよ」

「なんですか?」

「レトルトカレー」

 イグアス以外のみんなが笑う。一応コツとかあるんだよ! 温め方と、あのパックをキレイに開ける方法と、中身を無駄なく出す——

「そのうち、味噌汁の作り方くらいは教えとかなきゃかね」

 と言って、夕食の準備を始め、みなとさんが手伝い、葵さんは、俺のPCでゲームを始めた。イグアスは、葵さんのプレイを横でじっと見ていた。


 チャイムが鳴った。

 玄関を開けると、隣人の女性が、空の鍋を持って立っていた

「花さーん。お鍋返しに来ましたー」

「ありがとう、銀杏さん」

 お袋が、鍋を受け取る。

「なんだか最近、賑やかですね。竜也くん、ついに心を入れ替えましたか?」

 隣の部屋に住む、並木銀杏さん。

 長いこと演劇をやってるって言う、役者さん。本名なのか芸名なのかは知らない。

 ボサボサのショートカットで、化粧っ気がなく、ヨレヨレのタンクトップをノーブラで着て、ホットパンツを履いてる。身長は一六〇cmくらいで、痩せ型だが、ありがたいことに、胸がでかい。じっと見てると、逆に見せようとしてくる。ありがとう! でも、いつも絶妙に微妙なラインに寄せてくるので、ちゃんと見れたことはない。俺は、チャンスを常にうかがっている。そしてそんな俺の視線を分かってて、この人は遊んでる。

 テレビに出たりはしてないから、いわゆる無名で、世間的には、趣味で舞台に立ってるだけの、ただのフリーターになってしまう。もうそろそろ三〇歳になるはずだけど、生活がずぼらで、お袋が、たまに、飯を作って持って行ってあげている。あと、俺より年下のくせに、俺のことをくん付けで呼んで、お姉さんぶってて、基本馬鹿にしてる。

「あれれー、もしかして、彼女?」

 半開きの眼でニヤニヤしながら、みなとさんと葵さんを見て、疑問を投げかけるが、

「違います」

「全然違います」

 否定速いな、二人とも!

「だろうねー。竜也くんってさ、黙って立ってるとちょっとそれなりに見えないこともない雰囲気は醸し出してるけど、中身クズだから、あんまり関わってると、妊娠させられるよ。気をつけて」

 なんてこと言うんだ! そんなことしたことないのに! 誹謗中傷、人権侵害だ!

「えっと、僕、何かご迷惑をおかけしたのでしょうか……?」

 お前も律儀に答えんなよ!

「僕……?」

 両の眼をまん丸く開いて、銀杏さんが大笑いする。

「そうなんだよ。気持ち悪いだろ? ちょっと前に事故に遭って、頭がおかしくなっちゃったみたいで」

「ふーん。髪もさっぱりして、へえ、眉もキレイに揃えて、肌も悪くない。いいじゃん。本当に生まれ変わったみたい」

「本当ですか?」

「メンズメイクうまいね。誰に教わったの?」

 それは、みなとさんだ。

「私です! お化粧、好きなんです」

「へえ、あんた、かわいいね。芝居やる?」

 何を流れるように勧誘してるんだ。ヤクザな道に引きずり込むんじゃない。

「えへへ」

 みなとさんはみなとさんで満更でもなさそうだけど、悪いことは言わない、やめとけ。

「化粧教えた見返りに、妊娠させられないように気をつけて」

 だ・か・らー!

「あたしは、こいつを追い出して、この二人を娘にしたいよ」

 クソババア、言うに事欠いてなんてことを! そもそも俺は——

「みなとさんも、葵さんも、僕の恩人です。絶対に、失礼なマネはしません!」

「みなとちゃんと葵ちゃんね。ねえ、今度舞台があるんだ。チケットあげるから、よかったら見に来てよ」

 と、どこから取り出したのか、芝居のチケットを数枚、押しつけてきた。

 こいつ、ノルマチケットの営業をする気満々だったのか。

「いいんですか!? 行きたいです! ねえ、葵さん!」

「スケジュール合わせて行きましょうか。みんなで」

 みなとさんと葵さんは、けっこう何だかんだで、銀杏さんを気に入ったっぽい。仲良くなるのはいいことだ。あることないこと吹き込まれるのは勘弁してほしいけど。

「花さんも、見に来れたら」

「一回くらい行きたいと思ってるんだけどね。仕事の都合が付いたら」

「やった。きっとですよ?」

 お袋は、何だかんだで一度も見に行けてない。かくいう、俺も。

「玄関で立ち話も何だから、みんなと一緒に、ごはん食べてく?」

「うへへ、実はそれ狙いで来ました。いい匂いがしてたから。カレーですよね?」

 銀杏さんは、食い物については遠慮しない。


 銀杏さんが部屋に上がろうとしたところに、アパートの階段を上ってくる足音が聞こえてきた。スーツ姿の男性だった。

 こいつは——

「あれえええええ! なんだか、可愛い子がいっぱいいるじゃん!」

 男は、いきなり、話に割り込んできた。銀杏さんが、面倒くさそうに返答する。

「何しに来たの、あんた」

「うっわ、つれないなあ、銀杏ちゃん。君に会いにきたに決まってるじゃーん」

 不審な男におびえながら、みなとさんが聞く。

「銀杏さんの彼氏さん、ですか?」

「半年以上前に別れたのに、しつこく家まで押しかけてくる男を、彼氏とは呼ばない」

「元彼だから、僕はフリー。つまり、自由に恋愛できるんだよ」

「みなと、こっちに来て」

 葵さんが、みなとさんを自分の背後にかばう。

「あれあれ。三人も可愛い子さんたちが集まって、そんなに警戒しなくても……あれ?」

 男が、竜也=イグアスに目をとめた。

 しまった。気づかれた。

「お前、もしかして、竜也じゃね?」

「あ、はあ」

 言われたイグアスが、返事してしまった。最悪だ。

「うっそまじで!? 俺、けっこう隣に遊びに来てたんだぜ! 全然気づかなかった! 何、最近越してきたの?」

「うちは、二〇年間ここだよ」

「あなたは?」

「俺だよ、俺! 忘れたの? 冷たいなあ! 最上穣治。中学校の時の同級生! 親友じゃん! いやあ、懐かしいなあ!」

 そう。こいつは最上。銀杏さんの元彼かも知れないが、どういう偶然かさっぱりわかんないが、俺の同級生でもあった。

「申し訳ない。全然覚えてなくて」

「いいんだよいいんだよ! だって、俺だって今の今まで存在すら忘れてたからさ! おあいこ。で、お前今、何してんの? ニート?」

 何でこういうところの勘は鋭いんだ。

「仰るとおり」

 ニートという言葉に竜也=イグアスがきょとんとしてると、お袋が余計なことを答える。

「まじで? 冗談抜きで無職かよ。笑う」

「面目ない」

 くそ真面目か、勇者イグアス!

「何しに来たんだよ、あんたは」

「つれないなあ。そういうところも可愛いんだけどさ、俺のエンジェル」

 おえっ。

「銀杏ちゃんが淋しがってるんじゃないかと思って。それに、そろそろ公演があるなら、チケット、売らなきゃでしょ。協力しようかと思って。今回は、俺の友達も誘ってみるからさ」

「それはどうも」

 最上は、なんだかんだで、チケットはちゃんとお金を払って購入していた。

 それから、根掘り葉掘り、近況を聞いてきた。そして、竜也=イグアスが就職活動を始め、みなとと葵も就活をしていると聞いて——

「就職活動中なら、俺が手伝ってやるよ。昔のよしみだし、みんなも、就職、斡旋するよ。俺の会社、どう?」

「俺の会社?」

「こいつが勤めてる会社。一応、一部上場企業」

 葵さんの疑問に、銀杏さんが答えてくれる。

「一部上場!」

「……それってすごいの!?」

 あまり世間慣れしていないみなとさんに、葵さんが説明する。

「まず、生活は安泰。潰れることもほぼないし、ステータスも高い」

「一応、カメラ会社なんだけど、興味ある? 営業職だけど、まあ、別に知識がなくても、入社後の研修で何とかなるから。学歴不問、未経験OKのホワイト企業だよ。確か、二〜三日後に、一次の書類が通った人の二次面接があるはず」

「あ、もう募集終わってるんですね」

「でも、そこにねじ込むことはできるよ。俺の力で。人事部のやつ、俺のゲーム仲間だし。面接までは行けるようにしてあげる」

「本当ですか!?」

 みなとさんが、食いついてしまった。うーん。

「もちろん。でも、面接でうまくいくかどうかは、自分次第だからね。どうする?」

「じゃあ、お願いしてみよっか」

 迷いながらも、ひとつでもチャンスがあるなら、受けなくてはならない。ただでさえ、あの事故の日、一つ、面接をダメにしているのだから。

「竜也も、申し込むんでいいよな?」

 最上が、余計なことを言い出した。しかも、お袋までが、

「最上さん。うちの子の面倒まで見てくれて、ありがとうございます。どうぞ、よろしくお願いします」

 頼むんじゃない! やめろ、お袋! こいつに頭を下げるな!

「ほら、竜也。お前も頭下げて!」

「お願いします! ありがとう、最上くん!」

 言われたイグアスも、頭を下げる。最悪だよ。もう、最悪だよ!

「オッケーです! 竜也も、お母さんも、顔を上げてください。みなとちゃん、きみ可愛いから一発採用! なんてあるかもよ」

「そんな採用のされ方、嫌です。可愛くないですし。わたしは、ちゃんと頑張って、ちゃんと評価されたいです」

「もちろん! うちの会社は、お堅いから、その点大丈夫だよ。じゃあ、頑張ってね」

 ひとしきり騒ぐだけ騒いで、最上はいなくなった。

 その晩、みんなで食べたカレーは、なんだか楽しそうだった。

 あ、レトルトじゃなくて、ちゃんとお袋が作ったやつね。


 それから三日後。面接の日。

 竜也=イグアスが、鏡の前で一生懸命ネクタイを締めようとしていた。一応、やり方を教わったとは言え、慣れるまではしばらくかかりそうだった。

「いい色のネクタイだね。誰が選んでくれたの?」

 ネクタイと奮闘する我が子を見て、お袋が言う。手助けはしない。

「みなとさんと葵さんが、二人で。すごく時間をかけて」

「スーツも、いいじゃない。こうしてみると、うちの子も、まんざら見てくれが悪いわけじゃなかったんだねえ。お腹も少し締まってきた?」

 実は、ずっと、ビールっ腹だった。三八歳なんだ。おかしくない。おかしくない!

 だけど、イグアスは元の世界の日課だったのか、毎日、ストレッチと筋トレを欠かさなかった。朝は早起きして近所の多摩川沿いをランニング、その辺に落ちている棒っ切れを拾っては、剣を振る鍛錬を怠らなかった。

 加えて、ネットを使っての情報収集も、時間を見つけて行っていた。イグアスの順応力と学習能力は、かなり高かった。おかげで、現代に対する知識は増えていた。

「正直、このスーツという服は、窮屈ですけど、でも、身が引き締まる感じがします」

「かっこいいぞ、バカ息子」

 タバコ吸いすぎだよ、バカ親。

「ありがとうございます、かあさん」

「弁当作っておいたから」

「それ、僕が作ったものを詰めただけでしょ」

 一応、イグアスも、簡単な朝食は作れるように、この数日で練習させられた。

 ごはんを炊いて、味噌汁を作って。ベーコンをカリカリにして、タマゴを目玉焼きにし、から揚げをチンして。野菜を取れ、肉を食え、米は力の源だ。さすが看護師。栄養についてもしっかり考えてある献立を、教わっていた。エプロン姿の俺=イグアスも、まあ、なかなかだ。

「あー、そうだ。今日からしばらく、夜勤で帰れないかも」

「あれ? 予定と違いますね。夜勤は明日からでは?」

「うちの病院にも、ついに、クラスターがやってきたみたいでね。人手不足だから、仕方ない。夜勤連勤だよ」

 世間的には、なんだか得体の知れない病原菌が出回っているらしい。詳しくは分からないけど。

「お身体、無理せず」

「どうしたって、仕事は大変だよ。でも、あんたが頑張って働いてくれるなら、あたしだって楽になるから。うまいこと就職が決まったら、今度の夜勤明け、一緒にビールで乾杯しようか」

 いつもは、それぞれに勝手に飲んでるだけだ。勝手に飲むと怒られるが、でも、どうせお袋は自分が飲む用に買ってくるから、結局、いつでも勝手に飲んでた。

 異世界にもビールらしきものはあったらしいが、イグアスは、日本のビールを気に入っていた。

「ビール好きです」

「知ってる。さ、いってらっしゃい!」

 背中をぽんと叩かれた。くわえタバコをしながら、ニカッと笑う。

 これが、笑顔のお袋を見た、最後になった。


 面接会場は、赤坂にある、本社社屋の会議室だった。

 電車の乗り継ぎについては、買い物などで出歩いた際に、みなとさんと葵さんから、徹底的に指南を受けた。なんといっても、東京の路線図は、どれほどの世界を旅してようと、また、主要駅構内は、さながらダンジョンもしくは魔王の城のマップに匹敵する複雑さ。迷わないはずがないし、引きこもりの俺自身にも、電車はよく分からない。

 だから、面接時間は一五時予定だったが、イグアスは、大事を取って九時に家を出ていた。

 私鉄に乗って新宿に出て、山手線で移動し、地下鉄に乗る。それが、一大事業だったわけだ。新宿駅でまず迷い、地下鉄の駅を探してまた迷い、最寄り駅まで着いて、今度は地図アプリで迷い……最終的に、たどり着いたのは、ギリギリ五分前だった。

 面接会場に行くと、みなとさんと葵さんが、先に来ていて、席に着いていた。


「竜也さん、聞いてください。この子、さっき、会社の目の前まで来て、逃げだそうとしたんですよ」

「うー。だって、すごい大きな会社で、圧倒されちゃって……」

 みなとさんらしいが、むしろ、ここまできて、よく引き返そうとできるな。

「いやほんと、これ、お城レベルだよね」

「また大げさな。みなとと同レベルですか」

 葵さんが盛大にため息をつく。

「最上さん、いい人ですね。こんなすごい会社の人で、しかも、話もちゃんと通してくれて。すごい人だった」

 君たちは、誤解してる。あいつは、そんなやつじゃない。

 ……とはいえ、あれから二〇年以上。俺が知らないだけで、人間が変わるには、十分な時間が経ってるってことなのかな……。


 と、指定の時間から一〇分ほど遅れて、ノックの音が聞こえた。

 慌てて、二人が椅子から立ち上がり、竜也=イグアスもそれに倣う。

 メガネをかけた、きつそうな印象の男が入ってくる。三人で、練習したとおりにやる。

 声を揃えて、「よろしくお願いします」

 はい、よくできました。

「ああ、座ってもらっていいですよ。本日の面接を担当します、人事部の藤敦夫です。お待たせして申し訳ありませんでした。」

「いえ、大丈夫です」

 既に何社か面接を経験している葵さんは、さすがに落ち着いている。

「さて、では、お三人方、申し訳ないがまとめて面接させていただきます。失礼ですが、人数が多いもので」

「よろしくお願いします」

「最初に、そうだな、佐倉みなとさんから、いろいろ聞いていこうかな。まず、弊社のことを志望した動機から——」

 面接は、三人が提出した履歴書を見ながら、部屋の奥に座る面接官の藤が、それぞれに質問していく形式で行われた。

 みなとさんは、ド緊張していて、汗だくになりながら、必死で言葉を紡ぎ出しつつ、答えていった。続いて、葵さんは、こちらは、もともと、趣味でカメラを持っているそうで、より一層、企業に即した回答をすることができていた。好感触だったんではないだろうか。

 問題は、俺、と言うか、イグアスだった。

「さて、では、最後に、球磨川竜也さん、でいいのかな」

「はい!」

 練習通り、大きな声で返事ができた。

「いい返事ですね。一つ聞きたいんですが、あなたは、どういうつもりでここに来たんですか?」

 藤が、履歴書と竜也=イグアスの顔を見比べながら、横柄な態度で話す。これまでの二人に対する態度とは、あまりにもかけ離れている。

「……と、言いますと?」

「最上さんからの依頼なので面接はしますが、一体どういうつもりでここに来たのか、と聞いています。私の言うこと、理解してますか?」

「あの、職を求めて——」

「そんなことはわかってるんだよ」

 いきなりきつい口調で言ってきた。

「これ、あなたの履歴書ですが、まず、字が汚い。これじゃとても読めない。きみの字は、他人に読ませる気がない字であり、他人が読む気を失う字だ」

 俺もそうキレイな方じゃないけど、イグアスは、そもそも、異世界転生の謎の一つだが深く突っ込んじゃいけない要素の、日本語を、なぜか話すことも読むこともできたけど、書くことは訓練なしにできることじゃなかった。これでも必死に練習して書いた字だった。

「……すみません」

「字に関しては、そうはいっても、学歴が高くて優秀な人ほど字が汚いというデータも世の中にはあるようだからともかくとしても、三八歳にもなって学歴も職歴も真っ白。この履歴書からは、あなたが何もしてこなかった、ということしかわかりません。一体あなたには何ができるのですか?」

「あの、よろしいでしょうか」

 葵さんが、おずおずと手を上げて質問をする。

「どうぞー」

 目線もくれずに許可を出す。

「一応、学歴不問、未経験OKと伺っていたんですが、そういうわけではない、と言うことでしょうか……?」

「学歴不問、未経験OK、というのは、学歴や職歴で測ることのできない、それだけの能力があれば、ということです。それに加えて、若ければ、という条件が付く」

「若さ」

「そう。例えば、佐倉さんであれば、若くて可愛いので、それだけで採用の対象になります。若ければ、仕事の吸収も早いし、長く働いてもらうこともできる。加えて、賃金は安くて済む。年齢がいっていると、それなりの賃金でないと人は働かない。仕事上、関係あるのかって思うかもしれないが、同じ無能なら、若くて可愛い方を取るのは常識だろう」

「無能。可愛い」

 一つ一つ、みなとさんが、噛み締めるように確認していく。

「言葉はきついかも知れないが、それが事実だ。可愛い女の子なら、無能で仕事ができなくても、少なくとも社内の男性社員たちがやる気になる効果も見込める。一応世の中には、そういうデータもある。もちろん、今のご時世でこんなことを言っているとバレたら、セクハラだと訴えられるかもしれないが。君たちが何も言わなければ問題ない。それとも、バラすか? あと、私は何か間違ったことを言っているか?」

 面接の場で、そのように言われて、間違ってるなど、言えるわけがない。

「……いいえ」

「で、球磨川さん。話戻すけど、何ができるの、きみ。特技の欄も、何も書いてないけど」

 イグアスが得意なことと言えば——

「特技は、剣と魔法です。魔法は、この世界では使えませんが、剣に関しては、毎日、鍛錬を怠っていません。今は、というか、ちょっと前までは、その技能を生かして、後進の指導を行っていました。戦士と魔法使い志望の二人です。二人とも見習いになったので、これから実習をさせて、騎士団に入れるように斡旋していく予定でした。やることは、モンスター退治。具体的には、世界を脅かすドラゴンや魔王を退治することです」

 イグアスが、頑張って練習してきた話をした。

 そりゃ、俺だって、止められるものなら止めたかったよ。

 面接官の藤は、眼と口を大きく開いて、呆気にとられていた。メガネをかけ直す。

「ああ、びっくりした。君ねえ。ゲームの話か? ネットの中で初心者相手に交流してるってこと? いやね、私も『モンスターバスター』、もんバス、好きだよ。何年か前には、社内にグループを作って、休憩時間にみんなで一狩り行ったもんだ。最上さんも。でも、それを特技というのは——」

「いえ、ゲームじゃなく、現実です」

「馬鹿にしてるのか!?」

 藤が、怒った。

 違う。こいつはこれで本気なんだ。とはいえ、葵さんとみなとさんも、もうどうしていいかわかんない状態になってる。

「僕は、大真面目です!」

「これ以上ふざけるなら、もういい。私は忙しいんだ。ゲームの話をしたければ、就職なんてせずに、一生家から出ないでゲームやってろ!」

「それを変えるために、ここに来ました」

「ああそうかい。でも、それは変わらんよ! 君は、最上さんから面接の話をもらった段階で断るべきだったんだ! なにを、今までニートで好き放題やっていたくせに、のこのこやってくるなんて!」

 それに関しては、イグアスが悪いんじゃない。俺が悪い。反論の余地すらない。

「だいたい、まず、そのスーツから何とかしてくれ。社会人として。そんな安物のスーツで来られたら、うちの会社の品位が下がる」

 なんだと?

「なんだって?」

「わかってるのか? うちは、一部上場企業。働いているのは、エリートしかいない。営業先の取引相手から、見た目で舐められたら終わりなんだ。一着一万円の安物スーツに、チープなネクタイを着てくるなと言っている!」

 藤は、バン! と机を叩いた。その暴力的な音に、みなとさんが硬直した。

 イグアスの様子がおかしい。だけど、多分、俺も同じ気持ちだ。

 そして、イグアスは言った。俺の姿で。

「あなたは、この企業で働く人で、就職するための面接官で、僕が今、就職をお願いしている立場だというのは理解している。だけど——」

 一緒に選んでくれたのは、みなとさんと葵さんだ。そして——

「このスーツをバカにするな! 安物だろうと、花さん……かあさんが、コツコツ貯めた金で買ってくれたんだ! かっこいい似合ってるって、言ってくれたんだ! それをバカにするな!」

「なんなんだ、きみは! 三八にもなって、母親にスーツを買ってもらって、恥ずかしいと思え!」

 ああ、恥ずかしいさ! 恥ずかしいから、それがどうした!

「このネクタイも、一生懸命選んでもらったんだ! 僕の生涯で、あんなに楽しかった買い物は、初めてだったんだ!」

「そそ、そんなこと、私の知ったことか!」

 だんだん、藤の言葉の勢いが弱まっていっている。

「理不尽な物言いにも、この世界の常識があるのだろうからと、堪えてきた。だけど、この服をバカにすることは許さない! 本来なら、剣でもってその無礼を後悔させてやるところだが、今はそれもできない」

 イグアスが、席を立って、面接官に迫っていく。

「なんだ、何のつもりだ。落とすぞ! 落ちてもいいのか!?」

「うるさい! ただ、謝れ! 謝れ!」

 イグアスが、藤に殴りかかりそうになった。慌てて、みなとさんと葵さんが、竜也=イグアスにつかみかかった。イグアスが、藤が着席している机を、力任せに叩いた。机が、真っ二つに割れた。

 呆然とした次の瞬間、藤は壁まで逃げてから、大きな声を張り上げた。

「こんな! こんな暴力奮うやつなんて、入社させられるわけがないだろう! 出て行け! 全員、出て行け!」

 イグアスは、騒動の音を聞いて、部屋の外から入ってきた社員たちに取り押さえられ、面接官の藤は逃げおおせ、面接は混乱の内に、終了した。


 面接会場で暴れた後、イグアスは、電車を乗り継ぎ、そのままアパートに帰ってきた。

 みなとさんと葵さんとは、一緒に帰らなかった。二人に合わせる顔がなかった。

 何度か、電話の着信も、LIMEでのメッセージもあったが、全部、未読無視。

 せっかくの就職面接。自分のせいで、すべて台無しにしてしまった。自分のふがいなさと、申し訳なさに、イグアスは、声を押し殺して震えていた。

 勇者が。魔王にもドラゴンにもひるむことのない勇者が、この現代の日本で、たった一人、身を震わせている。俺は、ただその光景を見てただけなのに、体も心も疲れ切って、くたくただ。

 ああー。ビール飲みてえ。


 翌日、夜勤明けのはずのお袋が帰ってこなかった。

 そういえば、夜勤連勤とか言ってたな。仮眠室で寝泊まりしてるのか。よくあることだ。

 ところが、イグアスのスマホに、着信が入った。画面には、みなとさんの名前でも葵さんの名前でもなく、「病院」と出ていた。お袋が勤める病院。

 嫌な予感がした。

「もしもし?……えっと、どちら様?……え?」

 イグアスが、慎重に電話に出る。

 電話の相手は、お袋が働く病院の、看護師さんだった。

「……倒れた? かあさんが?」

 最悪だ。



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