5部 グラン・ドラグーン

第28話


「!」

 カーリャは目が覚ます。

 そこは洞窟の中であった。

 簡素な洞窟だ。

 取りててて、語ることもない。

 外の灯りが見えないところから、おおよそ夜か、入り口が遠いのだろう。

 灰色の岩肌が、体の熱を奪う。

 だが。

「ありがとう。メルニド」

 と、声が聞こえる。

 カーリャはもうろうと視線を移した。

 そこには、焚き木に火を灯すミシューの姿があった。

 それだけなら、特筆するべきことは無い。

 おおよそ、精霊魔術を幅広く行使できる彼女にとって、火をおこすなどとは容易い行為なのだろうに。

 けれども。

 彼女が火をおこした手段が特殊であった。

 カーリャが思う限り、このような手段で火を起こす事例は存在しなかった。

 そう。

 存在、しえなかった。

 彼女が使役し、礼を告げた存在。

 それは、精霊であった。

 精霊魔術師が魔術行使の効率化等を目的に、精霊と契約することは決して珍しくない。ダビデにも精霊と契約する者は数多くいた。魂界との接続を効率化することは精霊魔術の精度と術者の負担、そして詠唱の短縮化といった様々な副次的効果がある。彼女のように、精霊を呼び掛けて力を貸してもらえるのもまた、一つの利点ではある。

 だが、問題は。

 彼女が呼び出した精霊、その名がこの世界の根源、火、水、風、土の四つの属性の大元を統べる大精霊、四大が象徴とされる一柱、火のメルニドと同じということである。

 まさか、と思う。

 そう簡単に四大の一柱と契約できる道理はない。

 そもそも召喚に応じないし、交渉にすら応じないし、行使するにしてもおおよその魔術師は力が足りない。少なくとも、セインブルグ王国の歴史上、四大との契約に成功した事例は皆無である。ただ、別の大精霊と契約を成功した事例はあるのだが。

 それも当然、相手はこの世界の象徴が一つである。おいそれと人に手を貸したら世界の調和が乱れるし、そもそも人の手には負えないほどに力が強すぎる。

 だからこそ。

 信じられなかった。

 目の前の存在が、彼の大精霊とは信じられなかった。

「もういいよ」

 ミシューの言葉に、赤より紅き影がうなづいたような気がした。同時に、紅い精霊はすうぅと薄らぎ、姿を消失せた。まるで、幻の夢物語を見せるかのように。

 ミシューは気安い友人を見送るように手を振った。

 カーリャはその光景を横目に、身体をおこす。

 ミシューはカーリャが目覚めたのに気づくと、優しく声をかけてきた。

「目、さめた?」

「ええ」

 カーリャは頭をさすりながら聞く。

「あれから、どうなったの?」

「うん」

 ミシューは頷くと、カーリャの問いに答える。

「風の魔術を使って崖の下になんとか着陸して。その後はあの竜に見つからないように、言われた通り森の中を抜けて行った。途中でちょうど良い洞窟を見つけたんだ。小鬼の住処かと思ったんだけど誰もいないみたいだから、勝手に使わせてもらった」

「時間は? あれからどれだけ経った?」

「うん。もう、夜。日は回ったんじゃないかな? 随分とぐっすりと眠っていたね。疲れていたんじゃない?」

「そうね。誰かさんのせいでね」

「助けてあげたのに、ひどい!」

「嘘よ。助けてくれてありがとう」

「意外と、素直」

「十年に一度ぐらいは素直に礼を言うわよ」

「次は十年後か。気の長い話になりそうだね」

 ミシューはそこまで言うと、火に薪をくべる。ぱちぱちと、火が音を鳴らす。

 実際に、迂闊だった。

 竜と交戦したのが正午として、半日も眠っているとは。

 ただ。

 実際は、疲れていたのかもしれない。

 別に、ミシューの事ではない。

 むしろ、好き放題に奔放な自分として振舞えるこの目の前の少女との時間は、自分にとって気楽な一時であった。

 こんなことを言ってしまっては非常に悔しく、自らの沽券にもかかわることだが、正直な話、この二日間はとても気の休まる心地であったと言わざろう得ない。

 竜とガチンコをしたというのにも関わらず。

 そこに苦笑する。

 ただ。

 今までの時間が過酷すぎた。

 自分では大丈夫だと思っていた。

 まだ、平気だと。

 まだ、耐えられると。

 けれども知らぬ間に、圧力は心を押しつぶし、まるでヒュドラの猛毒かのように徐々に心を蝕んでいたのかもしれない。

 実際の話。

 目の前の少女に抱きとめられた時に身をゆだねてしまった自分は存在した。普段は誰かに気を許したりは絶対にしないのに。誰かの傍で気の休まる安眠など決してした事はないのに。

 心も身体も、ゆだねてしまった。

 それが、このざまである。

 保護者のつもりでいたのに、母親のように甲斐甲斐しく守られていたのは自分だというオチであった。笑えもしない。

 カーリャは自重気味に肩を落とす。

 おおよそ、人の機微には割と聡そうな目の前の少女である。カーリャの内心の落胆にも気付いているに違いない。

 ならば、おそらくこれは気の使っての行動なのだろう。ミシューはにこりと笑うと、焚き木のすぐそばに無造作に置かれていた皮袋を手に取った。

「カーリャ。おなか、空いてない?」

「……」

 思案する。思案して、ようやく気付く。もう、随分と何も腹に入れていないことに。正直、おなかは空いていた。そして、今更ながらに空腹ということに気付いた。

 だから。

「空いている」

 と、少々つっけんどんに答えた。

 ミシューはにこりと笑う。

「そう。良かった。なら、食べ物の用意があるの」

 そこでカーリャは気付いたのだが、自分の所持品を入れた皮袋は紛失していた。あれだけの激戦である。見失ってしまうのも当然と言えたし、正直、大した貴重品は入っていなかったので惜しくはなかった。

 ただ、問題は非常食のハードクラック等もそこに入っていたことである。なので、非常食はもうない。ならば、目の前の少女は自分が寝ている間に森から食料を確保したか、あるいは自分で隠し持っていたのだろうか。準備がいいと言わざろう得ないし、今はそれに甘えようと思った。

「はい」

 そう言い、ミシューは食べ物をカーリャに手渡す。何だろうと火に照らされた手元を見て、その正体にカーリャは明らかに顔をしかめた。

「これ」

「おいしいよ」

「いや。なんだろう。いや、本当になんだろう。この世界とか、あんたの頭の中とか、本当になんだろう。世の中には理解できないものが多すぎる」

 酷い言いようであるがそれは通常運転だし、そう言いながらミシューが手渡したもの、それは店頭に置いてあった良く分からない小麦を加工したなにかだった。

 なんだろう。パンとかポンとかいっていたような気がする。おおよそ、処分するしかなかった売れ残りのをいくつかを、とっさに皮袋に入れておいたのだろうて。

 アークガイアのクリュール区にある店で出された、スライスした何かとは違いこのポン、だったかはこぶし大に加工されており、楕円形の形であった。

 この非常時に食料はありがたいし、原料も解っているので毒でないのは知っているが、正直そうまでして食べさせたいかとカーリャは思った。まあ、森のキノコを不用意に採取して毒にあたり、この洞窟を墓場にするよりはましだと思ったが。

 視線を移すと、ミシューはニコニコしながらカーリャの姿を見ていた。そうまでして食べさせたいらしい。すごい執念だ。ここまで徹底しているのも珍しい。

 こういう事態なのでたとえ蛙や鼠でも腹に入れられるなら腹に入れなければならない。それが野生である。カーリャはいい加減、観念して正体のわからない小麦の風船を口に運ぼうとする。

 すると、ミシューが葉の上に乗った紫色の物体を取り出した。

「即席のジャムもあるの。煮詰めただけだけど、つけて食べると美味しいよ」

 準備が良い。どうやら寝ている間にブルーシュを加工したらしい。本当に準備が良い。この情熱はどこから現れるのだろうか。

 カーリャは頷くと、良く分からない小麦風船にブルーシュのジャムを付けて食した。

 正直、酸味は強かった。時期ではないからである。だが、ほのかな甘みが疲れた体に心地よかった。

 それに、小麦風船の食感。

 いままで食べてきた小麦団子とは違い非常に噛み応えがあり、柔らかかった。仄かに感じる塩見と甘味が心地よく、それでいて風味があった。

 とても食べやすいと思った。

 セインブルグで主食にされている小麦団子に不服は無いものの、カーリャはそれを決しておいしいと思ったことはなかった。小麦の取れ高等を検討した上で主食として適されている事と、比較的腹持ちが良いことを理由に今日までそれほど、セインブルグでは疑問視されずに小麦団子は食されてきた。

 ただ、硬くて重い小麦団子は食べるのに疲れるし、それ自体を美味しいと思いながら食するようなものではなかった。どちらかといえば純粋な腹の足し、と思う人間が多いのではないだろうか。

 けれどもこの小麦の風船はカーリャの価値観を一瞬で変えた。まず、それ単体で食べてもおいしいと思えた。柔らかく、かみ切り易く、歯ごたえも良く、食べていて疲れない。そして、味わい深く、その生地の中には決して小麦だけではなく、複数の素材が練りこまれていることを瞬時に悟った。恐らくは塩と砂糖。だが舌が豊かなカーリャはほんの少しだけ蜂蜜も含まれているのに勘付いた。蜂蜜が風味を生み、小麦風船の舌触りを良くしていた。

 そして、そこに合うのは雑多に作ったブリューシュのジャムだった。時期ではないので甘味は足りないし酸味も強い。けれども、それでも小麦風船の味を損ねることはなく、それどころか柔らかいジャムが小麦風船と上手に混ざり、小麦風船の味わいを数段と深めていた。

 小麦団子だとこうはいかない。決して合わないというわけではないが、団子は団子、ジャムはジャムといった感覚である。おそらく内層が網目状になっているからジャムが良くしみこむのだろう。中々考えられているとカーリャは思った。

「セインブルグもベルファンドも薄力や中力がメインだからね。パン作りに耐えうる小麦を探すのにも苦労したよ。団子が主食だから中々流通しなくてねえ。でも、特注は高くて原価が上がっちゃうんだよねえ」

 何を言っているんだこいつとカーリャは思った。

 しかし、上手い。

 非常に残念で遺憾の意だが、味が良い。

 この目の前の娘に敗北したようで非常に心苦しいが、惜しむべき事に、ハードクラックと干し肉を紛失して良かったと心から思った。頑固な自分の事だから、おそらく残っていたらこれを食していなかっただろうから。

 三つ、手渡されたが三つを五分もかからないうちに食べきってしまった。それがまた悔しくて、勝負事ではないのに心底敗北感で一杯だった。

 ミシューが聞く。

「美味しかった?」

 カーリャは答えた。

「まずい」

「あ、そ」

 まずいと言ったのにミシューは満足顔である。結局、口はだますことができないのである。あれだけ夢中になって本当にまずいと思っているわけがないだろうに。それを見透かされたことも同時に屈辱だった。

 軽く腹を膨らませたところで、興味があってカーリャは聞く。

「不思議な食べ物ね。どうやって作っているの?」

 それが地雷だった。

 それが地雷だと、瞬時に認識してしまった。

 連れ立った少女の爛々と輝く瞳に、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりの興奮と歓喜に、カーリャはそれが明確な地雷だったと深く理解してしまった。

「しょうがないなあ。聞きたい? そんなに聞きたい? じゃあ、話してあげようかなあ」

 いや、そこまでたいして興味はない。なので、多少お手柔らかにお願いしたいとカーリャは強く願う、が。

「基本的な流れは小麦団子を作るのと同じなんだけどね、出来る限り強い粉を使用するのがコツなの。セインブルグで流通しているファルケ小麦は駄目。あれは灰分高くて栄養価はあるけどタンパク保有率が少なくてグルテン精製が進まないから。どちらかといえば日本国産の小麦に性質が強いんだよね。だからパン文化が生まれなかったんだろうね。やはり用途に向いているのはルクセン小麦。これが一般的な硬質小麦の性質に似ているのよね。でも、ルクセン小麦は風味が弱いから大味になってしまうのよ。だから、個人的なブレントの神采配はルクセン小麦八のファルケ小麦が二。これが私の中の正義。水もユタナ大河の蒸留水をそのまま使うのはNG。ユタナ大河の水質は中々良いんだけどやや軟水よりなんだよね。だから、ガガト山脈近郊を流れるクラン川の蒸留水を積極的に使うようにしているの。あそこも水質が綺麗だし、硬水寄りだから生地が割としまるんだよね。色々試してみたんだけど輸入運搬まで視野を広げるとやはりクラン川の蒸留水が最適解なんだよね。それと、塩もここは岩塩でしょ。岩塩を乱暴に砕いた目の粗い塩を使っているからどうしてもそうすると塩の味だけ引き立って生地本来の味を殺してしまうのよね。精製塩も流通していないし。だからルアンの海水塩をわざわざ取り寄せて使っているんだよね。ミネラルが多いから栄養価も高くなるし。ただ、ルアンの海水塩は若干個性が強くて塩の風味が生地の個性を殺してしまうこともあるから取り扱いが難しいんだよね。そこはまだ、開拓中。砂糖も精製した物がないからメルド地方の糖きびを煮詰めたきび糖を使っているの。甘味はそこまで無いんだけど、中々風味が強いのが特徴。これも癖が強いから使い方は難しいけど、中々特徴的に仕上がっていると思うわ。でもまあ、規格的な精製塩や精製糖が出回っていないからしょうがない部分はあるよね。一番大変だったのは酵母だったかな。この酵母が中々曲者でね、ほら。酵母がガリア大陸で文明として発見されていないのはかなり昔から知っていたから。あの時の驚きったらそりゃあもう。あの時は三歳の頃だったけどラザーニア中の土地をめぐって土とか木とか、植物とか、徹底して酵母を探し回ったものよ。でも既存のサッカロマイセス属のような酵母は中々見つからなくてね。その時はなにげなく使っていた生イーストのすばらしさに深く感涙をしたものよ。結局、色々あった末にラザーニア特産のレーズン種から培養されたものが一番力が強いのがわかってね。ラザムレーズンっていう特産品なんだけど、ドライ系のレーズンも輸出しているからよろしく。大量受注も受け付けているから。話を戻すけどそこから培養しているの。天然酵母だから管理は難しいけどオーバーナイトで一晩ぐらいで生地が上がるから、中々重宝しているのよ。ただ、やっぱり規格的なイースト種が欲しいわよね。それも今、研究中でさ。実はこっそり土とか実とか樹木の端とか皮袋に入れてて、帰ったら研究するつもり。まあ一番のホープはブルーシュかな。上手くいったらゼファーリア天然酵母とか名付けようか。そうなると遂に私も自家製酵母の大家か。中々燃える展開だよね。そうそう酵母の話ね。基本的には天然酵母を管理して使っている形。生地種残して使うやり方でもいいんだけど古い生地種を何時までも残しておくのは私のポリシーに反するからね。品質劣化も心配だし。もちろん酵母もどこぞの老舗な串カツ屋みたいに永遠と付け足しじゃなくて定期的に新しいのを一から作ってるからご安心を。味もそうだけど品質管理も重要だしね。特にこんなファンタジー世界だから清潔清掃はきっちりしないと食中毒の原因になるから。他にも色々拘りはあるけれどもとりあえず軽いさわりとしてこのぐらいにしておこうか。現状の商品は食パンとコッペパン。そう、さっき出したミニコッペね。この二つだけだけどメニューは徐々に増やしていくつもり。いきなり手広くやっても失敗するだけだしね。開店準備で色々と忙しかったし。良質なブトゥルムが流通しているみたいだし、次はクロワッサンとバターロールをメニューに追加するつもりだから楽しみにしていて。ごめんね。ざっくりと説明するだけで、あまり深く説明できなかったけどとりあえずこんな感じでいい? あ、そうそう。製法について説明がまだだったね。まずは」

「いや! もういい! もういいから! もう、終わりにして! お願い!」

「え? これからが面白い所なのに。ブーランジェリースフィールの日々の日課についてとか、調理の拘りポイントとか」

「ごめんなさい。聞いた私が悪かった。お願いだからもう終わりにして」

「え? うん。解った。また聞きたくなったら言ってね。なんでも答えてあげるから」

 二度と聞くかとカーリャは思った。

 というか、昨日の夜、魔術について色々聞いたときは専門分野なのに「カーリャが説明して」といったくせに、このわけのわからねえ小麦風船については語るなと言っているのに必要以上に語りつくす。話が長えよ。どれだけ一人で話してんだよ。

 カーリャはミシューの長回しな長話にうんざりと岩壁に背を預けると、嘆息交じりに言う。

「まったく。本当にそのわけのわからないパンだか、ポンとかを作るのが好きなのね。私は料理とか興味ないからそういう感覚、まったくわからないわ」

「今度、教えてあげるよ。面白いよ。生地をコネコネしていると日々のつまらない事なんて全部忘れられるよ。一緒に過多水のフランス生地朝までいじって手をベトベトにしよう。ゴブリン狩りよりよっぽど楽しいよ」

「だから、言っている事わかんねーって」

 そう言いながら苦笑交じりに肩をすくめる。

「しかし、そこまで好きなのは良く分かったけど、これで実は魔法学院に入学したのもその、ポンとかを焼く為だとかとか言ったら本当に大笑いよね」

「……」

「……」

「……」

「……え? まさか、図星?」

 ミシューは、とっさに目をそらして。

「いや、焼成機材が中々揃わなくて。電気もガスも無いから火を起こすには木や炭を使うしかなくて。でもそれだと釜の温度が中々あがらなかったし、だったら魔術を習って、ファンタジー的に何とかした方が王道かなと思いまして。経費的にもそっちの方が安上がりになりそうだったし」

「それが理由で、アーシュナイド魔法学院に入学したの? それだけが理由で?」

「魔術の勉強を打診したら、過保護な父親がどうせなら上京して名門で専門的に学んだ方が良いんじゃないかという話になって、それで入試を受けたら偶々合格しまして。それで今に至るというわけです」

「あ、そう。非常にあきれた話ね」

「ひどい」

「動機が不純で、しかも想像の斜め上を行っていたわ。更にそれで首席卒業ですって。同期の子たちが浮かばれないわね」

「首席卒業といっても、前も言った通り、私がすごかったんじゃなくて教えてくれた人がすごかっただけなので。あれも別に私の力というわけじゃないから」

「いくら教師が良くても、運や惰性でトップ取れるほど世の中甘くないのよ。経緯はどうあれ、結果を生み出したのは貴方の実力よ。それは誇っていいわ」

「ありがとう」

「ありがとうついでに、話をそろそろ元に戻すわ。いい加減、気になっていたことも洗いざらいにしたいしね」

「え?」

 その言葉を皮切りに、カーリャは体を起こして焚き木を挟み、ミシューと正面から向き合った。その瞳は今までの軽快な感情を殺し、真剣で真摯な物へと変貌していた。

「精霊と、契約しているのね」

「あ、うん」

「随分と、立派な精霊だわね」

「そう。ありがとう」

「驚いたわ」

「そうかな。でも、学生時代にも同期で精霊と契約している子はたくさんいたよ。ほら、精霊魔術が専攻だったからさ。契約すると何かと、魔術の補助をしてくれるんだよ。通常より魔力効率も良くなるし、契約精霊が力を増幅してくれるの。なにかと便利だよ。簡易の召喚陣なら作り方教わったし、カーリャも望むなら手伝ってあげるよ。たしか、こっちに来るときに精霊を召喚する陣の図鑑を持ってきたような……」

「興味のない事なのに、随分と流暢に話すのね。精霊契約についての簡単なイロハぐらいなら私も知っているわ。別に、そのことを言っているわけじゃないの」

「そ、そう」

 そこで、沈黙。

 焚き木が揺れる。

 火の粉が、パチリと舞った。

「メルニド。火の大精霊」

「!」

「魔術師じゃなくても知っているわ。そのあたりの五歳の子供でも聞けば答えられるでしょうね。そりゃあ我々の世界の根源をつかさどる火の精霊様ですもの。知らない人間なんていないわ」

「あ。へえ。まあ、そうだね」

「おおよそ四十年ほど前、王都の魔術協会に勤める当時の副協会長だか、協会長補佐だかが大掛かりな儀式魔術を試したそうよ。目的は大精霊の召喚と対話、そして上手くすれば隷属の契約も執り行おうとしていた。ホドとネツァクの位階を持った魔術師が十数人招集されて行われたから割と有名で、記録に残っているのよね」

「そうなの」

「召喚陣も十分なものだったし、集められた魔術師も全員が高い位階と実績を持っていた。場所も火の元素が多く集まるヴァグナ火山近郊にあるパワースポットだったし、おおよその良条件が揃っていた。けれども、やはり大精霊は召喚に応じなかったそうよ」

「そ、そう? 残念だっね」

「そうね。残念ね。大精霊の召喚はそれほどまでに難しいものなのよ。どれほどの準備に手間と時間と人員を費やそうとも、術者本人が見初められなければ大精霊は現れないし、契約なんて正しく夢物語でしょうね。事実、私はセインブルグ建国以来三百年の間、大精霊との契約に成功したという話は聞いていないわ」

「へえ、そうなんだ」

「なにより、下手な術者と契約したら世界の調和すら乱しかねないからね。それほどまでに大精霊との契約は至難でデリケートなものなのよ」

「ふーん」

「ところで」

 そこで、カーリャの目が光る。

「随分と力のある精霊とお見受けするわね。輝かしい姿が気に入ったわ。名前はなんていうの?」

「え?」

「名前よ。名前。契約の時に聞いたんでしょ。教えてよ。私たち、友達でしょ」

「あーえー」

 と、ミシューはしばし口ごもり。

「えー、タロウ」

「んなわけあるか! 殺すわよコンチクショウ!」

「ごめんなさい! メルニドです! メルニド!」

 ブチ切れて立ち上がったカーリャに向かってミシューは平謝りを行った。

 カーリャしばし肩をいからせると、しばらくして落ち着いたように腰を下ろした。ミシューは甘いものを取ったのに随分と沸点が低いなあと思った。

 カーリャは嘆息交じりに口を開く。

「メルニド、ねえ。やっぱり。四大の。あの神霊の。なるほどねえ」

「……」

「気を失う前に、別の精霊も召喚していたわよね。確か、風の精霊だったように思えるわ」

「……」

「シュティアって呼んでいたような。あれよね。風の神霊シュティアと同じ名前よねえ」

「……そーですね」

「それだけ?」

「……え?」

「契約しているのは、それだけ?」

「あ、いえ」

「どうなの? それだけなの?」

「あ、えと」

 ミシューはしばし口ごもる。

 カーリャはその様子に上手く話を逸らすか、ごまかそうと思案しているに違いないと思った。けれどもミシューは、こういう時のカーリャの口撃というか、追及にはいい加減隠しきれたり逃げ切る事は出来ないと体感的に理解したのか、しばらく逡巡すると、重々しく口を開いた。

「ウィヌスと、ルガイアとも契約しています」

「そう」

 驚かなかった。

 すでに、驚きは通り越していた。

 それに、なんとはなしにそうだとも感覚的に予見していた。もしかしたら血筋の先見が無意識のうちに発現したのかもしれない。

 どのみち、二つ契約していたら四つも同じだ。人間達の呼びかけを散々無視してきた精霊共もきりの良い数字を好むだろうに。

 カーリャは、彼の者に与えられる為に生み出され、三百年以上も眠っていた称号を、ぽつりとつぶやいた。

「四大精霊使い。クワット・アニマージュか」

 感嘆の吐息だった。

「まさか本当に実在するとはね」

 ミシューは、それ以来、沈黙を続ける。

「とてつもない才能ね」

 火が、鳴る。

「精霊魔術の申し子だわ」

 再び、鳴る。

「天才ね」

「違います」

 ミシューは、そこで首を横に振る。

「四大の召喚を行ったのも、契約の手続きを行ったのも私じゃありません。私はただ、成すがままに状況を受け入れただけで。実際に四大召喚の為の召喚陣の形成と召喚儀式の一部始終を見ていたからわかります。四大の召喚なんて大掛かりな事、私じゃできません」

「謙遜?」

「ううん。そうじゃない」

 ミシューは首を横に振る。

「すぐ傍で見ていたからこそ解る。ましてや、アーシュナイド学院でちゃんと精霊魔術の知識や体系、歴史なんかは全ては教わったから。カーリャがさっき言っていた話も歴史の授業で聞いたし、四大がどれほど力を持っているかも知っている。四大が私には過ぎた力だという事も理解している」

 ミシューはそこで、口ごもる。しかし、今度はそこまで間を置かずに口を開いた。

「四大を召喚し、私に契約精霊として預けてくれたのは私の先生なんです。あの時は入学したばかりで、なんの魔道の知識もなかったし、先生が気を利かせて守護精霊を憑けてくれた程度にしか思っていなかったけど、後からとんでもないことになっているんだと知って。契約を取りやめようにも契約したのは先生だから、私には四大との契約を破棄することは出来なくて……」

 そこまで言い、ミシューは再び口を閉ざした。

 様子をじっくりと観察する限り、ミシューが謙遜で嘘を告げている様子はない。むしろ彼女の態度は、大した力もないのにズルをして、不必要な力を手に入れてしまった悔恨の念のようなものを感じる。

 カーリャ自身も、如何に才能満ち溢れていても十代前半の少女が四大の召喚と契約に成功できるとは思えなかった。

 なるほど。四大を召喚したのは別の人間か。

 カーリャは、召喚者がたとえ別の人間だとしても、四大に見初められなければ、彼らは頼まれても守護精霊になろうとはしないという事を、あえて口にしなかった。

 しかし、これで色々と解ってきた。

 今まで、断裂していた糸がようやくつながりかけてきた。この世界にもし、四大の精霊を召喚できる可能性がある者がいるとするのならば、それはおおよそのところ現在、このガリア大陸には二人しかいない。

 そして、アーシュナイド魔法学院。

 そこに、二人しかいないとされる者のうち、その一人がいる。その者は酔狂にも学院で専属の講師をしているらしい。セインブルグの王都、アークガイアでも知らぬものの方が少ないとされるほどに有名な人物である。

 もし、ミシューの『先生』と呼ぶ人物がその者ならば、すべて合点がいった。

 七界の魔法使い。虹の魔術師。精霊術を極めし者(マスターオブエレメント)。時を統べる者。虚空の魔術師。無限鏡面の魔法使い。

 賢者の石を抱く者。四大の支配者(エンペラーアニマージュ)。ガリアの大杖。ざっとカーリャは一瞬で思い浮かぶ二つ名だけでもこれだけ羅列できる。他にも様々な呼び名で呼ばれている。そしてその呼び名のどれもが彼女に対する称賛と畏怖を含んでいた。

 だが。

 実際のところ。

 彼女を敬称する名でもっとも適切でわかりやすいものがある。これがもっとも有名でもっとも知られている称号であった。

 とても強い力を持つ魔術師である彼女はいつからか、だれもがわかりやすく納得できるほどに単調で冗談とも思えるような称号を与えられていた。

 そう。

 伝説の魔法使い。

 解りやすいほどに解りやすいが、健在する人間にこれほどまでに直接的な呼び名が許されるだろうか。本来、こういう名は死後、膨大な時が経過したのちに、功績を称えて自然と呼ばれるようになるのではないだろうか。

 だが、実際。

 それが許されるほどに強い力を持った魔術師であった。魔術協会が彼女に認定した位階は正のケテル。この称号は『人類史史上』一人にしか与えられることが許されない正真正銘、魔術師の頂点と評される称号である。それがこの時代、現存する人類に与えられている。

 魔術協会は、これからの人類史で彼女以上の魔術師が現れないと認めてしまった。正のケテルが与えられたという事はそういうことを意味している。

 つまりはそれほどの人物である。

 カーリャは、静かに彼女の名を呼ぶ。

「リリス=リースティア」

 ミシューの身体がピクリと動いた。

 答えは沈黙。

 それだけで、カーリャは無言の肯定なのだと察することができた。

「なるほどね」

 様々な意味が含まれたなるほど、だった。

「あんたが、ものすごい力を持っているのも納得したわ。まさか、彼の高名な魔術師のお弟子さんだったとはね」

「誤解のないように言っておくけど、先生の弟子は私だけじゃないから。先生は自分の教室を持っているし、毎年、沢山の卒業生が先生のクラスから出てるんだから」

「すぐに定員が埋まってしまうと聞いたけどね。まあ、あのかの有名な、だもんね。そりゃあ人気よね」

「気の早い人は専修に移る半年前から申請だすね。まあ、毎年少なく見積もっても五倍ぐらいの倍率にはなるらしいけれども。聞いた話だと、入学生のうち、五割から多い時は七割が先生の教室に申し込むんだって。すごいよね」

「文句なしに、現在の精霊魔術師の頂点だものね。そりゃあそうでしょ」

 誰だって勉強を教わるのならば優秀な人間に教わりたい。ましてやそれが彼の伝説の、となればこそである。実際、彼女が講師を務めてから彼の学院の入学希望者は倍増したと聞いている。マーケティング効果はばっちりである。

 ただ、これで様々な糸がほどけた。

 ミシューの魔術師としての実力と名門での主席という実績。そして四大精霊との契約者という事実。本人に実力や才能があるのは間違いないだろうが、それを開花させた大きな要因は彼の、高名な魔術師なのだろうと理解できる。

 実際に、四大の契約者となればまた、話は違ってくる。セインブルグ王国という国家の意見としては、彼の名門の首席卒業生といえども、本音を言うのならば手中に収められなかろうが残念で済ませられるような話ではあった。だが、四大を契約しているとなれば、国家はどのような手段を使っても手に入れようと考える。

 例えば、一例だが自分が仮にこの国の国家元首だとするのならば、四大の使い手など野放しにはしておけないと考える。それで当の本人が首を横に振り「私は自由でいたいんです」とたわけたことを抜かすのならば、殺すなり、薬漬けにして廃人にした方が後々の為だとも思える。現在は戦争が起きていないが、もしそのような状況になり、敵国に奪われでもしたら目も当てられない状況になる。ならば、この場でという流れである。

 そして、それほどの実力をそなえながらも、魔術師としての実力にそこまで自信を持っていない目の前の少女。正直、ただの嫌味交じりな謙遜かとも思っていた。ただ、実際に名門で主席でいた程の実力である。自分が同年代と比べて突出した力を持っていることぐらい理解しているのだろう。現に彼女は、いつも自分の実力を隠すように努めている。実力をひけらかして面倒に巻き込まれるのが心底嫌なのだろう。

 けれども、そんな彼女すら自信を無くさせるような人物。それが彼のリリス=リースティアなのだろう。十代前半で陸上競技の国家記録を塗り替えて自分が天才と思っていたら目の前に世界記録を淡々と塗り替えている人物がいるようなものである。そりゃあ自信も無くす。

 正直、そのあたりについては自分にも体感的な経験があるので、どうにもなんとも言えなかった。目標は大きければ大きいほど良いというが、大きすぎる目標は時に絶望を生む。

 けれども。

 それでも、カーリャはこの国の軍属として、ミシューに伝えなければならないことがあった。

「四大の契約者だと隠して生きるの?」

「うん」

 ミシューは頷く。

「自分の魔術師としての力も隠して生きると?」

「うん」

「隠しきれないわよ」

「……そうかな」

「経験上の話だけど、こういう事はいつか、公にされるわ。例えばふと、水汲みに行った時、井戸の水が枯れていてあなたはすでにそこに長年暮らしていて、油断してウィヌスを呼び出して井戸に水を呼び出す。それを偶々見ていた隣の住民がとんでもないことだと噂になる。普通の住民だと思っていた近所に住む少女が精霊と契約した魔術師だったわけだからね。そこからは魔術協会が実際に魔術師としての登録確認をしているか聞きに来るなり、役所が動くなりして、徐々に真実が明るみになっていくわ。徐々に、ね」

「考えすぎだよ」

「人の口に戸は立てられないわ。ましてや、王都のような大人数が住む場所ではね。一番良いのは発展しない地方の領土の辺境にある村の外れで最低限の交流だけして魔女のように隠れ住む事よ。人に関わらないで生きるのが一番だわ」

「そんなこと、したくないよ」

「でも、それぐらいしか手段はないと思うわ。それ程の極論しか、手段はないの。あなたの力はそれほどまでに目立つのよ。ただの学生上がりなら暢気にカフェでもさせてあげられたけれども」

 カーリャはそこで、ミシューをまっすぐ見つめた。

「大いなる力には大いなる責任が宿るのよ」

「それ、昔、なにかの映画で聞いたことある台詞」

「そう? 私は常々思っているけど」

「私はカーリャじゃないからな」

「人は、皆、同じよ」

 ダモクレスの剣はいつだって吊るされている。カーリャは近くの薪を火にくべながら言葉を続ける。

「それがたとえどれほど理不尽でも、大いなる力をある日、唐突に、近所の主婦に飴玉をもらうように気楽に手に入れてしまったとしても、それが世界を流動させるほどに巨大であるのならば、与えられた力によって己に課せられた責任を果たさなければならないのよ。あなたも、私も」

「そんな、勝手だよ」

「私は世の中、すべてが勝手なものだと思っているわ」

「欲しくて手に入れたわけじゃないよ」

「そんなものよ」

 カーリャは薪を更にくべる。

「四大の契約者と解れば、だれも放っておかないわ。ベルファンド王国から追手が来ないところを見ると向こうでは上手く隠していたんでしょうけれどもね。これからも上手くいくかしら」

「……」

「この世界が聖人君子であふれた優しい場所ならそんな心配もないでしょうけれどもね。さすがにここまでの話になると誰も放っておかないわね。最悪、手足をもいでも手中に収めようとする人間は数えきれないほどいるでしょうね」

「……そんな」

「だから」

 カーリャは告げる。

「もう一度言うわ。私と一緒に来なさい。悪いようにはしないわ。大事にする。貴方の尊厳は私のすべてを賭して、守るわ」

「カーリャ……」

 カーリャは静かに立ち上がると手を差し出し、優しく微笑んだ。その笑みには神話の聖母と見紛う程に慈愛が含まれていた。私がすべてを受け入れるといわんばかりに。

 ミシューも良い加減、この二日の密度の濃い時間の中で、カーリャ=レベリオンという少女が義を大事にし、人を大事にし、命を賭しても王道に反することを行わないと痛切に理解していた。竜を相手に自分が囮になり、逃げろという程である。彼女はたとえそれで命を落とすことになっても信念に背く事は行わない。

 だから、ミシュー=スフィールはもう、カーリャ=レベリオンという少女を心の底より信頼していた。

 けれども。

「ごめん」

 ミシューは、カーリャの手を取ることはなかった。

「なぜ?」

 カーリャは問う。

 ミシューだってわかっていた。カーリャが心の底から自分を心配して、このように言ってくれることを。それしか、自分を護れる手段がないという事も、同時に解っていた。それほどまでに人の追及は鋭く、人の業は深い。少なくとも、自分が故郷に居られなくなる程度には。

 けれども、それでも手を取れなかった。

 なぜなら。

「もし、その手を取ってしまったら、私は一番大事なものを失う」

「大事なもの?」

「自由」

 カーリャは、はっとし、手を下げる。

 ミシューは、まっすぐカーリャを見つめ返すと、力強く告げる。

 そに瞳に一切の迷いはなく。たとえ王金の壁がそこに立ちふさがろうとも決してあきらめることなく、貫き砕くまで前に進むことをあきらめぬと言わんばかりにまっすぐで。

「たしかにカーリャの言葉はうれしい。でも、もしそれを受け入れてしまったらたぶん、それは私の道じゃなくなる。命惜しさに自由をあきらめたら、きっと私は自分を愛せなくなるし、自分を一生後悔することになる。それだけは、絶対にできない」

「……国は、貴方を守ってくれないわよ」

「でも、それでも駄目だ。私が私でなくなるのは生きていられなくなるより辛い。つまらない意地かもしれないけど大事な事なの」

「……そう」

「ごめんなさい」

 ミシューは、静かに謝罪をする。

 それは、カーリャとの全てに対する決別でもあった。断交の拒絶。おそらく、これで終わりだ。一切、終わりだ。これ以上、交渉の余地はない。確信できる。彼女との関係も、彼女との未来も。

 仕方がない。

 そう、仕方がない。

 仕方がないのである。

 仕方がないと言いながら、様々な事をあきらめてきた。

 今回も同じだ。

 仕方がない。

 良くあることだ。

 自分で責任をとると言っている。

 覚悟もあるようだ。

 諦めよう。

 幸い、軍には彼女も見劣りするぐらい素晴らしい魔術師も在籍している。

 それで手を打とうではないか。

『なぜ……』

 脳裏をよぎる。

『なぜ……お前なのだ?』

 父の言葉。

『なぜ、お前なのだ?』

 恨み、侮蔑、悔恨。

 死の間際の最愛の人間が、まるで汚物を見るかのように自分に向けた視線。

 どうやら、自分はくだらない存在らしい。

 その刻から、諦め続けた自分の人生。

 切り替えよう。

 次に行こう。

 それが健全だ。

 心を病ませ、黒く塗りつぶされつくす前に終わりにしよう。

 ごめんなさい。

 しつこかったわね。

 もう、これで終わりにするわ。

 いつものように、そっけなく言い放とう。

 けれども。

 口から出たのは、紡ごうとしていた言葉とは別のものだった。

「解らないわ」

「え?」

「解らないわね」

 カーリャはそこで、厳しい視線でミシューを強く貫いた。

「なにが自由? それが、そんなに大事なこと? わからないわ。生かしてやろうって言ってんのよ。わざわざこっちが手を差し伸べているのにそれを払うなんて何様よ! どういう了見よ!」

「だから、言ったでしょ! 自由の方が大事だって!」

「その自由の結果が、あの良く分からないマームもどきの売れない飲食店か! 自由が聞いてあきれるわよ! そういうのはね、もっとかっこいい信念をもってるやつが言う言葉なのよ!」

「なによ! あれだって私の信念だよ!」

 ミシューが売り言葉に買い言葉と立ち上がる。

「趣味でパン屋やって悪い? 生前は出来なかったからここでもって、色々頑張ってここまでこぎつけたんだよ! それをこれを、みんな! 寄ってたかって! おかげでベルファンドで店を出せなくなったじゃん!」

「ほら、やっぱり。目立ちすぎて墓穴を掘ったパターンじゃないの! あんた、行動パターン見え見えなのよ! どうせ、勧誘合戦で居づらくなって逃げきたって落ちでしょ?」

「どうしてわかるの?」

「わからんでか。行動パターン見え見えだって言ってるでしょうが! 大体、向こうの国で上手く逃げられたからって、こっちの国でも逃げられるなんて思わないでよね! 私の目が黒いうちは絶対逃がさないから!」

「なんて、しつこい!」

「レベリオン家の三女様はすっぽんのようにしつこいって近所でも評判なのよ! 悪い?」

「非常に悪い! 大迷惑だ!」

「なんですって! 生意気な!」

「そっちが自分勝手すぎるんじゃん!」

「うるさい! 私に関わったからには、運の付きなのよ!」

「ふざけるな!」

 ミシューは皮の袋から残っていたのか、ミニコッペを取り出すとカーリャの顔に向かって投げつけた。

 対して痛くなかったが、微妙に当たり所が悪かったのか、カピカピのミニコッペを鼻にぶつけたカーリャの鼻から赤い血が流れた。二日目のパンは固い。なのできちんと温めてから食べよう。

「あ、ごめん」

 ミシューがとっさに口元を抑えて謝った。どうやらこの娘は癇癪をおこすと勢いに任せてものを投げつける悪癖があるらしい。カーリャはそう理解した。

 だが、残念ながらカーリャにも一つ、悪癖はあった。それは血を見ると基本的に切れることである。

「血」

「あ、うん」

「……」

「……」

「やったわね! ブチ殺す!」

 カーリャはそのまま、ミシューにとびかかった。ミシューも必死に抵抗するが、あいにくと体力では圧倒的にカーリャに分がある。すぐになすすべなく押し倒されてしまった。

「大体、何が自由だ! そんなもの! この世界にあるか! あるんだったらな、私はこんなに苦労していないんだよ! 私だってな! 本当はあんたみたいに自由に生きてみたいんだよ!」

 ミシューの頬をつねりながらカーリャが叫ぶ。手を上げないのは辛うじて一線を超えないようにと理性がこらえているからだろう。ミシューも必死に抵抗し、カーリャの髪を引っ張る。

「何言ってんのよ! 自由の権化のような癖して! 昨日から無茶苦茶やってたじゃん! あんまり触れないようにしていたけどさ! 自由すぎるでしょ! あんた!」

「知ったようなことを言うな! 会って二日のあんたが何をわかる!」

「解るわけないでしょ! 別に友達ってわけでもないんだから!」

「そうね! どうせ友達でもないわよね! 私はどうせ一人よ! あんたみたいに好き勝手しているやつを見ると本当にイライラするわ! あんたのそのクソ自由にどれだけの人間が振り回されているのよ! 勝手なのよ!」

「私がやろうとしていることを私がやってなにがわるいの! そんな周りが大事? 周りが気になる? 自由自由って人をうらやんで最後にブチ切れるぐらいだったら、カーリャも自分のやりたい事やったらいいじゃん!」

「それで済むほど、世の中上手くできていないのよ!」

「難しく考えすぎだって!」

「うるさい、単細胞!」

「眉間のしわ、寄りすぎ!」

「殺す! 本気でぶっ殺す!」

「殺意高すぎ!」

 ミシューは怒り任せにカーリャの髪を更に強く引っ張った。

 すると。

 一滴の水のしずくがミシューの頬を悪戯のように叩いた。

 洞窟の天井から水滴は落ちない。

 だから、どうしたかと思い、疑念に視線を動かす。

 よくよく見ると。

 それは。

 強情張りな一滴の涙だった。

「私だって……」

「……」

「私だって、あんたみたいに……」

「……そう」

「私だって……」

「良く分からないけど……」

「……」

「辛かったんだね」

「……うん」

 ミシューには良く解からなかった。

 解るはずがない。

 なにも語らないのだから。

 語るほどの仲でもない。

 出会ってわずか、二日である。

 解らない事の方が多くて当然である。

 だが。

 いずれ、語らずにいる何かを語ってもらいたいと感じてしまう程度には、ミシューはここで、この強く、美しく、無垢で純真で、その癖に玻璃のような壊れやすさを持つ少女との縁を切りたいと思えなくなった。

「ねえ」

 ミシューはカーリャに、まるで赤子を泣き止ませる母親のように優しく声をかけた。

「なに?」

「そもそもさ」

「だから、なに?」

「カーリャは、本当は、何がしたかったの?」

「何が?」

 ミシューはカーリャに押し倒されたままの形で、カーリャを見つめ、心の奥底を羽箒か何かでさするかのように聞く。

「あるんでしょ。そこまで大騒ぎするんだから。本当にしたかったこと」

「……本当にしたかったこと?」

「そう」

 ミシューは頷く。

「本当にしたかったこと」

 その言葉に。

「私は」

 カーリャは。

「私は……」

 ゆっくりと。

「私は、本当は軍人なんかじゃなく……」

 私は、本当は■■なんかじゃなく……。

「冒険者になりたかった」

 答える。

 あの、背中に憧れた。

 あの、奔放な背中に。

 夏の太陽のような金髪が眩かった。

 いつも余裕そうに笑い、なんでもぶち壊してくれそうな背中がかっこよかった。

 剣を片手に颯爽と立つ姿がかっこよかった。

 だから。

 あんな人になりたいと思った。

 あんな大人になってみたいと思った。

 憧れのあの人みたいに、色々な土地を旅して色々な物を見て、様々な魅力あふれる経験を繰り返し、戯曲の冒険活劇の主人公のようにロマンティックにふるまいたかった。

 けれども、それは……。

 叶わぬ夢で……。

「なればいいじゃん」

 ミシューはあっけなく言う。

 堅牢な石壁を大槌で壊すがごとくであった。

「え?」

「なればいいじゃん。協力するよ」

「なれるわけ……」

「簡単だよ。今日から冒険者。それで行こう」

「は?」

 ミシューはカーリャを押しのける。いい加減、押し倒されているのも飽きてきた。すでに力の抜けた柳のようなカーリャを押し戻すのは存外簡単であった。

 ミシューはするりとカーリャの下から抜けると横に座り、目線を揃えた。

「こういうのは、気持ちの問題だよ。冒険者なんていう職業、この世界にはないんだしこういうのは名乗っちゃったもんが勝ちだと思うよ」

「そんな、安直な」

「安直でいいんだよ。それで行こう。今日からカーリャは冒険者。それでいい?」

「あ」

 カーリャは。

「うん」

 と、存外素直に頷いた。

 夢が、あっけなく叶った。一瞬で。

 いささか強引な気がするし、正直、腑に落ちないし、心底釈然ともしないが、それでいいというのならば、それでいいような気がする。詭弁に翻弄されただけの気もするが、何にも考えずに言われるがまま納得してしまうのが勝ちのような気さえした。

 不思議なものである。

 人の言動はまず、疑ってかかる自分が。

 そうしなければならない自分が。

 惑う事もなく、ただ受け入れている。

 その感覚が。

 なんだか、妙にくすぐったかった。

「そうね」

 カーリャは一つ頷き。

「そうしましょう。それでいいわ」

「それがいい」

「それでいいのね」

「それでいいんじゃない?」

「なら、それがいいわ」

 カーリャはそうまで言い、そこで一つ自分を納得させると、破顔した。その笑顔はとてもまぶしくて、ミシューはこの二日間でカーリャ=レベリオンという少女の笑顔を初めてみたような感覚さえ得た。

 カーリャは、なにか自分にのしかかっていた憑き物が取り払われたかのように肩の力を抜く。

 けれども。

 そこで、もうひとつ、どうしても済ませておかなければならない問題がある。

「ねえ?」

「なに?」

「あんた、私一人にやらせるつもり?」

「え?」

「詭弁で煙に巻いて、私一人を冒険者にして、それで終わりのつもり?」

「あ、いや」

「協力するって言ったわよね?」

「まあ、言ったけど」

「じゃあ、決まりね」

 カーリャは軽く涙を拭い、立ち上がるとミシューを力強く見下ろして指さすと、有無を言わさずにはっきりと告げた。

「あんたも、巻き込むわよ」

「どういうこと?」

「あんたも、私の仲間だって言っているのよ」

「仲間……」

「そう、仲間よ。映劇で見たけど、こういうのは旅の仲間が大事らしいわよ。彼の伝説の魔法使いも旅の仲間がいたと聞いたわ」

「あ、いたね。そう言ってたね。先生」

「なら、あんたが私の仲間の第一号よ」

「え?」

「それでいいわね」

 今度はミシューがカーリャを見上げる番であった。先ほどまでに雲に覆われていてその光を放つことすら忘れていた月の少女は、今や太陽の光を万面に浴びてその強い光を取り戻していた。

 なのでミシューはまるで、月のようだなとカーリャに対して思った。光を浴びなければ闇夜の中に隠れてしまうが、光を浴びれば浴びるほど光を取り戻し、如何なる闇も照らしつくす。そういう性質を持つ少女なのかとミシューは思えた。

 ただ、ミシュー自身はカーリャを照らした光源がどこにあるのかは理解していなかったが。

 ミシューはカーリャにきょとんと聞き返す。

「それって、私達、パーティーだってこと?」

「パーティー?」

「冒険者のチームの事だよ」

「なるほど。パーティー。そりゃあいい名称ね。それで行きましょう。あなた、ビックリドッキリネーミング大賞のセンスがあるわね。王公名誉詭弁翼勲章を授与するわ」

 そんな名前の勲章はセインブルグのどこにもないが、カーリャはそこで、ミシューに力強く手を差し伸べた。こっちに来いと言わんばかりに。

「ミシュー。あんたは今日から私のパーティーよ。異論は許さないわ」

「パーティ……」

 ミシューは立ち上がり。

「パーティーか。そっか。パーティーか」

 にやにやした。

「何笑っているのよ。気持ち悪い」

「あ、ううん。ごめん。そっか。そうだね」

 ミシューは。

 静かに手を上げると。

 白樺のような指を広げ。

 カーリャの手を、強く握る。

 先ほどは払いのけた手を。

 今度は、力強く。

 絶対に離さないように。

「わかった」

 ミシューは頷く。

「一緒に行こう。よろしく。カーリャ」

「ええ。よろしく。ミシュー」

 そして、二人は。

 顔を見合わせ。

 笑いあう。

 その手は、握られたまま。

 まるで、二度とこの紡がれた縁が途切れないように。

 強く。

 握られたまま。

 誰も知らぬ小さな洞窟の中で。

 笑いあった。



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