第23話


 それは、とても巨体であった。

 頭胴長は六トゥース超、二メートル近くの体長でありこれは野生の大型な熊種と同等の大きさであった。

 漆黒の体毛、汚れておりチリチリと逆立っている。時折、黒い粒子のような不可思議な物体が体毛の先から溢れていた。

 眼は赤黒く、瞳孔は金色に輝きその中心が僅かに裂けていた。すでに目の機能が生物学的に作用しているのかどうかも怪しいが、その瞳がミシューとカーリャ、二人から離れないということは作用しているのだろう。

 牙、爪等は鋭すぎるほど鋭く、地面を掴んだ爪の先端が容易く土を抉る。間違って踏んでしまったのだろう。掌大の岩が爪の先端の一つに触れ、あっけなく砕けた。人の頭蓋も同じような結果になるだろう。

 身体中からは不可思議な体液が滲み出ている。血液かどうかも怪しい液体である。流動が激しすぎて、身体の中にはおさまりつかないのである。

 小鬼や人獣等、魔物と分類される種族は多く存在するが、その中でもこの存在は、最上級に質の悪い存在であった。

 イヴリース種。悪獣とも呼ばれる。

 分類的には魔物、魔獣に分類されるそれが発生する原因は、その存在が内包する肉体、魂、精神の質量が生物的な安定を失い、異形へと変化することに起因する。

 外的要因で起こることもあれば自然的に発生することもあるのだが、結果として見るのであれば、三界の安定を失った生物は肉体に大きな変化、変動を起こし、本来あってはならない形へと変貌してしまう。自然的な姿から大きく外れてしまったそれは総じて短命で自然と自壊してしまうが、凶暴性を増した魔物はその衝動的攻撃性に身をゆがめて短い残りの生で、従来の食物連鎖とは離れた形での殺戮を繰り返す。

 もしかしたら、屍人に近い性質なのかもしれない。

 ミシューとカーリャ、二人の前に現れたのは狼から変化したイヴリースであった。

 ガリア大陸でガームヴォルフと呼ばれているそれは、どこにでもいる猛獣の狼が変貌して発生する魔獣である。ゼファーリア大森林ではフォレストウルフと呼ばれる三から四トゥース、一メートル程度の大きさの獣が変貌して成る事が多い。

 大型の熊すら易々捕食するそれは何の武装もしていない人間が出会ったのならばそれこそ自らの運命の終わりと残る余生を神への祈りに捧げるぐらいしかできることがない。

 一体でもそれほどのまで絶望である。

 だが、もし運命の神というものがこの世界に存在するのであれば、それは二人に対して、想像を絶するほどに辛辣であった。

 次いで、更に二体。

 そして、ミシューの背後からもう三体。

 計、六体。

 挟撃の形である。

 狼だった頃の本能が、効率的な狩猟の仕方を覚えていたのだろう。

 ガームヴォルフは、目の前に現れた二つの得物に強大な殺戮衝動を抑えることもなく、しかし警戒心を持って距離をとり、威圧するようにぐるると鳴いた。

 カーリャは額に汗を浮かべる。

 ガームヴォルフを一体屠るには、熟練の兵士、三人から六人が必要とされる。ダビデの攻性魔術を行使できる魔術師なら一匹に対して一体で換算される。ダビデの攻性魔術は一撃でガームヴォルフすら葬り去ることができるからである。

 膂力は高く、巨体に反して高い敏捷性を持ち、人の肉体など紙か木の葉のように容易く引きちぎる。巨体なので一撃で屠ることは難しく、肉体の強度も高いので並みの武器では斬り裂く事すら難しい。

 誤算が重なった。

 まさか、現れるのがガームヴォルフだとは想像していなかった。その特性上、遭遇率に関しては小鬼や人狼、あるいはゼファーリア大森林に集う種々の猛獣、それよりも圧倒的に低い。六面のダイスで一を三回連続引き当てるようなものである。今回はそれを引き当てた。天運は圧倒的なまでに自分に味方をしなかったようである。

 正直、カーリャは独りならば、この場を切り抜ける自信はあった。過去の様々な経験からイヴリース種を相手どったことは幾度かあり、相手が強大な悪獣であったとしても遅れをとるつもりはなかった。

 けれども、問題はその背後に控える少女である。自衛は出来ると言ったが、在野の魔術師でイヴリース種を討伐できる者は少ない。テレーマ式の魔術では、威力が要求水準に満たない為に対応が難しいからである。

 しかし、連中は待ってくれない。

 ぐるると、喉を鳴らしながら、口から黄色の唾液を垂らす。

 背後に再び、警戒を促す暇もなかった。

 一体が。

 飛び掛かる。

 膂力は、強靭。

 一足に、飛翔。

 一陣の風の様だった。

 そのまま、カーリャに飛び掛かる。

 殺戮の刃。

 対峙するカーリャは。

 柄に手をやり。

 神速。

 抜刀。

 一閃。

 瞬時に、切っ先に弧を描かせる。

 そして。

 飛び掛かってきたガームヴォルフの首が。

 ポトリと。

 落ちた。

 その間、一秒とわずかのやり取りであった。

 カーリャが行ったのは典型的な抜刀術の一つだが、幼少、小剣すら持て余す体躯から暇を見つけては振っていた剣速は、彼女の得物の切れ味とも相まって、一撃で巨木のようなガームヴォルフの首を落とすまでに成長していた。

 正面で対峙する残りの二体が、明らかな警戒を露わにする。目の前の得物が只の得物ではなく、自分たちに対する明確で確実な脅威であることを悟ったからである。

 警戒しろ。

 警戒しろ。

 そのような動物的な圧力が、目の前のガームヴォルフからひしひしと感じられた。

 片や、驚異だ。

 それを察した。

 ならば、するべきことは一つしかない。

 驚異でない方を、先に屠るのである。

 背後。

 カーリャは軽く見やる。

 すると、先ほどと同じように、背面のガームヴォルフが、今度は別の、もう一体の得物にとびかかろうとしていた。

 今度は、してやられないとばかりに。

「ミシュー!」

 カーリャはとっさに、位置を入れ替えて彼女を凶獣の脅威から守ろうとする。

 しかし。

 その心配は杞憂であり、微塵の必要もなかった。

 詠唱はすでに終わってる。

 というより、カーリャは詠唱が行われたことにすら気付かなかった。

 一気の呼吸。

 在野の魔術師とは比べ物にならないほどに早い。

 一瞬にて魂界に干渉、火の要素を取り出すと精製、収束する。

 威力も申し分ないほどに強大であった。

 古びた、草臥れて今にも折れそうな杖を前面に掲げて、ミシューは祝詞を唱えた。

「メルニドバレッド!」

 ガームヴォルフの俊敏な跳躍。

 それに反応するように。

 ミシューの目の前には巨大な炎が召喚された。

 炎は火炎球と化し。

 そのまま。

 撃ち放たれた。

 恐らく熱量千度はくだらないだろう。

 放たれた火炎球は純然たる暴力と変貌し、ガームヴォルフを吹き飛ばした。

 そしてそのままその醜い肢体に絡みつき暴虐の限り焼き尽くすのをやめなかった。

 炎上は失われない。

 ただ燃やし尽くされる仲間の一匹に、生き残った二匹は警戒を浮かべる。もう一体も決して侮れる相手ではなく、自分達を葬り去る牙を持っているとばかりに。

 テレーマ式攻性魔術。

 メルニドバレッド。

 テレーマ式魔術、いわゆる魔道協会という巨大な民間団体が交付しているこの世界で最も一般的な魔術体系であり、メルニドバレッドはその名の通り、火の大精霊であるメルニドに干渉し、火の要素を生み出し、それを巨大な火球の球と精製し、撃ち出す魔術である。

 テレーマ式の中でもかなりの高難度に位置し、極めれば先のようにガームヴォルフのようなイヴリース種に対する立派な攻撃手段となる。勿論、ダビデの軍式攻性魔術と比べてしまうと明らかに威力は劣るが、在野でここまで極めれば、魔術師としてはかなりの高い評価が下される。

 更に告げるのならば、詠唱早く、流麗であり、それで申し分のないほどに威力を伴っている。大の男がすくむような魔獣の脅威にも臆する様子はない。

 アーシュナイド魔法学院の首席卒業。そう聞いたときは所詮、学生気分の抜け去っていない少女とばかり思っていたが、この時点ですでにダビデの正規兵としても通用する程の実力を持っていた。普段の腑抜けた調子に見事騙されたが、まごう事なき逸材であった。

 魔獣が怒る。

 仲間を屠られて、怒る。

 怒り、雄たけびをあげる。

 あおん、とあげる。

 魔獣の咆哮が深淵の森に鼓動する。

 森は深い恐怖に染まる。

 魔獣の恐怖に染まる。

 カーリャは警戒を緩めることなく魔獣らと対峙したまま数歩下がると、ミシューと合流した。

「やるじゃない」

「ありがと」

「気を抜かないで」

「もちろん」

 たがいに背を合わせ、二匹鏡面、計四体のガームヴォルフと睨みあう。

 緊張が走る。

 焦燥に、胸が躍る。

 永遠とも思える対峙。

 しかし、それは長くは続かない。

 四匹のガームヴォルフのうち、一匹が一歩、足を前に出した。

 続けて、他の三匹もそれに続く。

 不可解な行動。

 如何に思惑か、とカーリャが警戒を続けると、ガームヴォルフはミシューとカーリャの周りを静かに歩きだした。

 四匹、等間隔。

 それが、二人の周りをぐるぐると。

 ぐるぐると。

 ゆっくりと。

 しずかに。

 行儀の良い給仕の様に。

 回り始めた。

 しずかに回り続ける。

 そこに秘められる静かな殺意。

 カーリャは獰猛な魔獣の静かな意図を察する。

「ミシュー。一気に襲ってくるわよ」

 単純な話だ。

 正面から一匹ずつ飛び掛かって敵わないのならば、同時に四匹で飛び掛かればいい。

 人が膂力で我らに敵わぬのは理解している。

 ならば、その絶対的強者たる膂力にて、正面から叩き潰してくれようぞ。

 そう、八対のおぞましい眼光が告げていた。

 理に適った話。

 一体ずつならば、対応できよう。

 けれども、四体が同時ならば旗色が悪い。

 一匹を切り伏せる間に、もう一匹に背後から背骨ごと砕かれるのは自明の理である。

 カーリャは惑う。

 どうする。

 どうすれば、切り抜けられる。

 逡巡。

 結論の得ない問答。

 いっそ、片や捨てて正面から切り抜けるか。

 今なら、前方一体切り捨て、切り抜ければ連中の背後を取り、一対一に持ち込める。

 一対一なら、残りの三体も流れのままに切り伏せられる。

 追撃してくる悪獣を一匹、一断ち。

 おそらく残る三体のうち、二匹は同時に襲ってこないだろう。

 始末があるからだ。

 そう、片や。

 どうせ、出会ったばかりの仲間だ。

 捨ておいても、何事もあるまい。

 そんな悪魔の囁きに。

 カーリャは悪獣と正面から立ち向かい、更に柄を強く握りしめた。

 愚問だ。

 そのような事、誇りにかけて絶対に行わない。

 護ると誓った。

 それは仁義だ。

 それを破るのならば、それは死と同等。

 それだけは死んでもしない。

 それに。

 この程度、正面から切り伏せなければ、剣を享受してくれた師に顔向けできない。

 カーリャは、何かあった時にすぐに対応できるよう、ミシューとの距離を更に詰める。

 いざという時は、自ら肉の盾になる為に。

 すると、ミシューが。

「足を止めるから」

「え?」

 カーリャの問いに答えることもなく。

 ミシューは詠唱を始めた。

 改めて。

 早かった。

 魂界に干渉、一瞬で風の要素を召喚。

 それがまず、早かった。

 十二分に取り出した要素を、瞬時に形ある力へと昇華させる。

 生み出したるは刃。

 風の刃である。

「シュティームザッパー!」

 風が、踊る。

 殺意を以て、踊り狂う。

 これも、テレーマ式の攻性魔術。

 風の精霊シュティアに干渉し、強風と共に真空を生み出す呪文である。威力は決して高いとは言えず、人間がまともに喰らっても身体の一部が切り裂かれる程度であり、動脈等の危険な部位を運悪く損傷しない限りは死に至ることはない。

 けれども、ミシューの放ったそれは威力としては申し分ないほどであり、強靭で鉄製の武器ですら傷つけるのは難しいガームヴォルフ達の脚の腱を明確に切り裂いていた。

 動きが、止まった。

 四匹のガームヴォルフは疾走に必要な器官を失い、地に足を付ける。

「カーリャ!」

 臥せる悪獣。

 しかし、もはや連中に力はなかった。

 カーリャは頷き。

 剣を強く握りしめ、悪獣たちに跳びかかった。


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