第20話


 ケープを纏い、草臥れた部屋の扉を潜ると廊下である。シュティアの中節と呼ばれる時節はかつての世界でいうところの五月半ばであり、春夏秋冬も似通っている為に、昼は仄かに暖かいが夜ともなると冷える。

 もう少し時が過ぎればこのような寒さも懐かしい思い出に変わるのだろうとミシューは独り、灌漑深く、耽る。

 ゼファーリア産のオーク材で建造された深緑亭の構造は断熱が甘いのか、薄ら寒く乾いた風が悪戯に吹き抜ける。身を襲うささやかな寒気に、ケープを纏って良かったなとミシューは心底思った。

 静かな廊下。

 昏い廊下。

 沈黙する廊下。

 壁には照明が幾つか点在するが、燃料の補充が足りないのか、あるいはすでに寿命を迎えようとしているのか、光は心もとなく感じるほどに弱々しい。

 部屋に鍵が備え付けられているのは防犯対策であり、深夜に迂闊にも女性が一人で廊下を歩いていたのならば何をされても文句が言えない程度には治安も民度も宜しくなかった。

 夜道を独り歩いても何事もなく帰宅できるあの世界を懐かしく思ったが、よくよく思い返せばあの世界であっても、夜道を独り歩けるのは世界一治安の良いあの国ぐらいだったなあとすぐに気付き、同時にどの世界も根底はそこまで変わらないんだなあとしみじみ感じた。

 ミシューは廊下の床を静かに踏みしめる。

 ミシと、木のきしむ音が響く。

 必要以上に音が響くのは、深緑亭がすでにくだびれて老朽化しているせいだろうなとミシューは思った。玄関前の立札に観光者対策だろうか、深緑亭の歴史が記されていたが実はすでに築五十年を迎えた老舗らしい。オーク材は建築材として優秀なんだなあとミシューは現実的な思案に耽ったものだった。

 ゼファーリア大森林で起きた一連の騒動の煽りを喰らってか、深緑亭の巨大な内観には人の気配は全くと言って良いほど感じられなかった。闇夜の帳に包まれたせいもあってか、不気味な空気が覆いつくす。ミシューは少し、怖くなってしまった。

 廊下を少し歩くと、中庭に抜ける大きな扉があった。中庭といっても特筆するべき点は無い。短く刈り揃えた茂みの中に、無造作に堀り抜き型の井戸が置かれているだけである。身体を拭くのに使った小汚い水もおそらくここから汲んだのだろう。汲んで受け渡すだけで銅貨三枚とはぼろい商売をしているものだとミシューは強く思った。

 中庭への扉をくぐり、芝生の土を踏むとそこに居たのは愛しさの欠片も感じることができない程に憎たらしい探し人だった。

 蒼海の髪、真珠の肌、恨めしいほどに麗しき連れ人は寝間着姿のまま、天高く照らし惑う夜天の月光に曝されていた。

 なにしているの?

 と、気さくな声をかけることも躊躇われた。

 少女は、剣をふるっていた。

 剣。

 いや、あの世界では刀と呼ばれていたか。

 反りのある、美しい刀であった。

 流水のように滑らかで、薄氷のように眩い。

 そしてそれを振る少女もまた、美しかった。

 刀はその性質上、ガリア大陸では好まれない。鎧の文化であるガリア大陸では鎧ごと相手を粉砕する無骨で厚い西洋剣が好まれる。

 打撃により相手を打ち倒し、刺突により相手を貫き、絶命させる。そのような用途が、ガリア大陸に置ける剣という武器の役割であった。

 東方に位置する島国、あの世界の故郷に少し似ているシフォン由来の刀という武器はセインブルグ王国にて扱われてはいるが、広く流通はしなかった。薄く鍛えられた刀は横からの打突に恐ろしいほど弱く、鉄や鋼で鍛えられた鎧を切り裂く事は到底できない。反りがあるので刺突としての用途も若干弱い。その実用性の低さと反する見栄えの美しさから一部の好事家から美術品の一種として取引されることはあるが、実務的な武器として扱われることは決してなかった。

 忘れられし遺産。

 はるか故国の郷愁を感じさせる。

 孤高の片羽。

 一刃。

 又、一刃。

 流水が凪ぐ。

 月光に溶けた鮮明なる残滓。

 軌跡は芸術を生む。

 もしこの世界に録画媒体が存在するのであればこの光景を閉じ込めて、宝石のように思い出の彼方に閉じ込めたいとまで思えた。

 それほどまでに。

 幻想的で。

 中庭の扉の前でただ、その蠱惑的な光景に心奪われるしかなかった。

 刃の舞が。

 唐突に終わりを告げた。

 湖の女神のような少女が、汗をぬぐう。

 終わりを迎えた。

 いつまでも見ていたかったのに。

 幼い頃の紙芝居屋が唐突に、時間とばかりに帰ってしまったかのようなノスタルジックな悔恨が胸を覆う。

 そこで。

「ミシュー?」

 女神のように舞い賜いし少女、いや、連れ立った騎士の少女、カーリャは唐突なミシューの姿に驚きを見せる。

 集中のあまり、気付いていなかった。

 カーリャは、まるで先ほどの舞などただの幻だったんだといわんばかりにいつもの、眉間にしわの寄った難しい顔をして、それでいて嘆息交じりに声をかけてきた。

「なに、してるのよ? もう、真夜中よ」

「それはこっちのセリフだよ」

 と、ミシューは軽く口をとがらせる。

「目を覚ましたらいなかったから、探しに来たんじゃん。こんな深夜になにやってるの?」

「見てのとおりよ。剣の稽古」

「剣の稽古?」

「そ」

 相槌とおなじくして、何気ない所作で、柄を軽く握った刀の切っ先が鋭く滑る。流麗だった。

「欠かすと鈍るからね。振りが遅くなったり、切れが失われたり。ろくなことがないわ。毎日の習慣みたいなものよ。それに、毎日続けていることを急にやめるとなってしまうととても気持ち悪いじゃない。私、耐えられないわ」

「それで、こんな夜更けに?」

「悪い?」

「危ないよ」

「ふっ」

 と、鼻で笑い。

「私が暴漢風情に後れを取ると思う?」

「返り討ちだろうね。相手は一生、後悔かな?」

「でしょ」

 カーリャは肩をすくませて笑みを見せた。

 ミシューもつられて、クスリと笑う。

「稽古は、これで終わり?」

「いいえ」

「まだ、するの?」

「今のは型の稽古。これからもうしばらく、素振りをしてから眠ることにするつもりよ。どうにもね。眠つけなくて。もう少し、身体を疲れさせてからベッドに入ることにするわ」

「心配事?」

「少し厄介な案件になりそうだからね。さすがに緊張しているのよ」

「鉄の心臓なのに?」

「喧嘩売ってる?」

 カーリャの鋭い視線がミシューを貫いた。

 しかし、ミシューは飄々と。

「売ってない」

「まったく、良い根性していること。チンピラ風情におびえていたくせに」

「それはよけいな物言いだよ」

「とにかく、お休み。見ていて面白い事ないわ。夜更かしして疲れて、明日は役立たずとか洒落にならないから三度死んでも絶対にやめてよね」

「ううん」

 と、ミシューは首を横に振る。

「もう少し、やるんでしょ。見てる」

 カーリャは困ったように息を吐いた。

「物好きね。面白いものでもないでしょうに」

「ううん。面白い」

「どこか」

「面白いよ。とても」

「そう」

 蒼の、素っ気ない相槌。

 金の、無垢で純真で偽りない言葉。

 だから。

 それ以上何も言葉を続けなかった。

「じゃあ、井戸の傍で葦にでもなっているといいわ」

「それは得意」

 ミシューはそうまでいうと、一つ頷き、いそいそと傍の井戸に腰を下ろした。

 それから。

 静寂の月明かりに照らされながら、静謐な時間が続いた。

 照明もない未開の薄暗い世界の中で、月明かりだけを頼りに、ただひたすらに剣を振るう蒼海の少女。

 所作は美しく、一太刀、一太刀が芸術のように流麗な軌跡を描く。

 そして、それを振るう少女もまた闇夜に浮かぶ水の大精霊ウィヌスのごとく幻想的で麗しかった。

 神秘的な光景。

 まるで一瞬の陽炎の様。

 その光景をミシューは石造りの井戸枠に座り、頬杖をつきながら黙って見ていた。

 静謐な時間が静かに続いた。

「ねえ」

 唐突に声をかけたのはどちらだったのだろうか。

 静かすぎるほど静かな闇夜の中、響く連れの言葉に、カーリャはそっけない返答をする。

「なに?」

「綺麗な太刀筋だね」

「ありがとう」

「それにしても珍しいね。ガリア大陸で刀なんて。刀剣を扱うのってシフォンの文化でしょ」

「そういえば、そうね」

 と、カーリャは素振りを止めて思案に耽る。

「確かに、珍しいわね。普段はそこまで気に留めたことは無いけれど」

「でしょ」

「確か、東方のシフォンはあまり重武装する文化では無いらしいから。国土でガリア大陸のような重装の鉄鎧を精製する技術や文化が根付かなかったのが理由らしいわ。詳しくは知らないけど、それが肉斬り包丁のような武器の流通、発展した理由らしいわね」

「でも、セインブルグは違うよね」

「そうね。鉄鋼の資源はそれなりに豊富だから。国軍の部隊にもほぼ最低限一式の鉄装備は行き届いているし。ハンター連中も最低限の鉄装備はしているでしょ。昼間の連中みたいに」

「だよね」

「そうなると、刀って割と、使い勝手の悪い武器なのよね。横からの衝撃には弱いし、鉄製の盾と打ち合うと打ち負けて折れてしまうこともあるから。切れ味はガリアで流通している鉄剣よりはるかに良いのだけれども。中々、難しい所よね」

「じゃあ、だれも使っていないんだ」

「そういうわけでもないんだけれども。硬質の殻や皮膚を持たないような魔物相手には有効だし。でもね」

「でも?」

「刃渡りの短い刀で危険を冒して魔獣相手に斬りかかるぐらいなら、普通は槍や弓を使うわよね。基本的に両手で持たなければいけないから、盾を装備できないし」

「腕に装備すればいいんじゃない?」

「そういうわけにもいかないのよ。繊細な扱いが必要な道具だから盾との相性が最悪なのよ。鉄剣のように盾と併用するように作られていないのよ」

「じゃあ、使い道がないじゃん!」

「だから、流行らないんじゃない」

 ミシューの渾身の突っ込みに、カーリャはさらりと何の気なしもなく言葉を返した。

「まあ、自分でいうのもなんだけど非常に物好きな得物を使っているわよね。私の所属している第七師団第七小隊にラファール小隊長というのがいるんだけど、彼に言わせると、役立たずで使い勝手の悪いのが君らしいね、との事らしいわ。思い出したら腹が立ってきた。帰ったら簀巻きにして七等分にぶった斬ってやろうかしら」

 物騒な事を言う。

 平常運転だ。

 ミシューはなんか、安心した。

「じゃあ、使うのやめればいいじゃん。軍部では基本的には西洋剣なんでしょ」

「西洋剣ね。言いえて妙ね。シフォンが東だからガリアは西で西洋剣、か。洋、というのは大海、という意味合いで良いのかしら。なるほど。解りやすいわ。その案。採用するわ」

「何の話?」

「いえ。話を戻すわね。確かに、軍部で採用しているのは西洋剣ね。私も普段は鉄剣、いえ、西洋剣を使っているし。でもね、やっぱり私の場合、これの方がしっくりくるのよね」

 と、カーリャは刀を片手で掲げる。

 年代物の刀だ。

 見るからに古傷で草臥れている。

 柄の手垢に血糊が混ざっていた。

 どれだけの死線を、この刀は潜ってきたのだろう。

 逆に刀身は不思議なことに、血糊も傷もついていなかった。

 まるで、昨日打ち下ろしたばかりのようである。

 はるか昔、漫画やテレビの話だけれども、刀はすぐに血糊がついて、幾度使用すると使い物にならなくなると描いてあった。

 なのに、この刀はまるで新品同様である。

 柄や鍔には、激戦の痕を無数に残しているのに。

 よくよく見れば、刀剣の腹に六つの文字が描かれていた。

 ミシューは見たことがない文字だった。

 少なくとも精霊言語であるオガム文字ではない。

 ガリア共用言語でないのは当然として、マグナグランドでもラグラストラでもなく、ゼノヴィドス帝国で用いられるヴァリア文字でもなかった。

 不思議な刀だった。

 神秘的と呼んでも良いのかもしれない。

「それ」

「え?」

「どこで、手に入れたの?」

「ああ」

 と、カーリャは少し逡巡してから答える。

「貰ったの」

「貰った?」

「師匠に」

 カーリャは剣を握り締めたまま素の刀身の鏡面に映るはるか郷愁の思い出を懐かしむかのような表情を浮かべた。

「師匠?」

「ええ」

「カーリャの、剣の師匠?」

「そう」

 そう、二度と会えない愛しき想い子に向けるようななんともいえない切なげな色を見せた。

「あなたと、同じね」

「そう、だったんだ」

「そうだったのよ」

 カーリャは、優しげに微笑む。

 それだけで、その思い出の中にひっそりとしまい込まれた彼女と師との思い出がどれだけ彩深く、彼女にとって大事な宝石かという事をミシューは深く感じ取った。なぜなら、自分も同じ宝石を胸の中に抱いているから。

 ミシューはそこで、少しだけ前のめりになって聞く。

「ねえ、カーリャの師匠ってどんな人だったの?」

「え?」

「聞きたい」

「面白い話じゃないわよ」

「それでも教えて」

「気は進まないわね」

「教えてくれないと、明日、朝にちゃんと起きてあげないよ」

「その脅し方は新しいわね。でも、まあ起きなければ寝たまま首に縄を付けて引っ張り出せばいいだけの」「すいません。起きます。絶対に」「話でって、無理しなくてもいいのに」

 ミシューは直感的に感じた。

 こいつは絶対にやる、と。

 カーリャはなぜか、若干残念そうにして、おそらくろくでもないことを考えていたのだろう、話を続ける。

「師匠の話ね。まあ、ずば抜けた人だったわ。エキセントリックな人だったわね。たぶんあの人、国王を乗せた馬車が大隊を引き連れていても、その前を平気で横切って挙句の果てに行軍を止めてしまう性格だわね」

「へえ」

「私とは対極的な性格ね」

「すごくわかる~」

 師と弟子は似るものであるな。

「棒読みね。他意があるなら言いなさい。遠慮なく聞くわよ。叛意を感じたらブチ殺すけど」

「そういうところだよ~」

「殺すわよ」

「そういうところだよ~」

「殺すわよ」

 カーリャはそこで肩をすくめ。

「出会いは、特筆すべきも無いわね。ある日、私が草原で黄昏ていたら師匠が声をかけてきて、そこからの腐れ縁」

「へえ」

「師匠は旅人、そうね。少し小洒落た言い方をするのならば冒険者、というところね。旅から旅に、各地を放浪してるらしいわ。笑ってしまうことに、前時代的な武者修行、というやつよ」

「武者修行!」

「で、偶々当時、私の住んでいた故郷が偉く気に入ったらしくて、長期滞在しようという事になって。私の屋敷も部屋が空いていたから食客とばかりに一緒に過ごすことになったの」

「故郷? アークガイアにずっと住んでいたんじゃないの?」

「アークガイアに来たのはここ最近。それまではここからはるか離れた田舎で暮らしていたわ。田舎といってもあなたの郷里とは違うかもしれないわね。ラザーニアほど豊かではないから」

 と、カーリャはなんともいえない表情をした。おそらくは郷愁の想いに複雑な感情が巡っているのだろう。

「知っているかしら。グラフェルク。王都でも知るもののほとんどいない忘れられた土地よ。決して資源が豊作ともいえず、外交的にも要所とは呼べない、用事があってもだれも寄り付かない土地だったわ」

「……そう」

 ミシューは改めて、自分が恵まれていると感じた。このような話を耳にするとき、自らの境遇の良しを強く実感する。

「短いと言えば短かったし、長いと言えば随分と長かったような気がするわ。旅烏で同じ土地にじっとしていられない師匠を、いったい何があそこまで引き留めたのかしらね」

 そう不思議そうにひとりごちるカーリャ。

 全く何も状況を知らないミシューはなぜか、その答えをすぐに理解することができた。カーリャの師匠はおそらく、その土地で出会った何かに強く心を惹かれたのだろう。鏡があれば彼女の顔を映してあげたい。

「師匠はシフォンの剣士だった。厳密には純粋なシフォン人ではなく、ベルファンド人の血統が強かったけど。クオーターとでもいうのかしら。祖父がシフォン人だったらしいわ」

「へえ」

「祖父から剣を教わった師匠も刀剣術の使い手だった。ガリアの剣術しか知らなかった私にはシフォンの流れるような水の剣は魅力的だったわ。すぐに弟子入りを頼んだ。なけなしの小遣いをすべて使って、安物の刀をわざわざ王都から購入してね」

「それで、シフォンの剣術を学ぶことになったんだ」

「そういうこと」

「強い人だったの?」

「知らないわ。興味なかったし」

「え?」

「ただ」

 カーリャはそこで、憧憬に心揺るがせる子供のような表情をした。

「かっこいい人だった」

 その無邪気で純真な横顔を見て、彼女の本来の正体はここに存在するんだなとミシューは感じた。そして、一瞬でもそのような真実の表情が見れたことにわずかにうれしくなった。

「結局、そんな道楽が今も続いて、とっととガリアで主流の鉄剣に趣旨替えすればいいものの、あいも変わらず傾いているわけよ」

 そこでカーリャは、いつものように肩をすくめた。まったく、救われないとばかりに。。

 だが。

 思う。

 同じような変わり者の自分としては。

 彼女が。

 如何にして。

 ここまでの研鑽を積むことができたか。

 憧れは大事である。

 自分にだってある。

 目標は大きければ、大きいほど良い。

 追いつけなれば、なおさらに。

 ミシューは、あの人の小さくて大きすぎる背中に思いを寄せる。

「と、まあそんなところよ。とりたてて面白い話ではなかったわね。割と独りよがりの印象もあるし。長々と話してしまってごめんなさい。反省はそこはかとなくしかしていないけれども」

「ううん。面白かったよ。そこはかとなく」

「そう。ならいいけど」

 と、そこまでし、しばし何かを含むようなわずかな沈黙をした後、カーリャは何かを振り切るように再び素振りを始めた。

 何か、言いたかったのだろうか。何を言いたかったのだろうか。それは、目の前の青い海の少女にしか分からない。

 淡々と剣を振り上げ、振り下ろすという所作を繰り返しながら、カーリャは傍らのミシューに視線を移すこともなく告げる。

「明日は第三林道を行くわ」

「第三林道?」

「ゼファーリア大森林の資源採取を目的に開拓された林道の一つよ。大森林の中層まで足を踏み入れない程度の距離に位置するローザンス丘という小高い丘までの道程を調査するつもり。行程にしては、早朝に出発すれば夜には戻ってこれる距離よ」

「大変なの?」

「全然。本来は林業や採取職の為に用意された道で、森に慣れた人間なら軽装でも何事もなく往復できる程度には整備されているわ。整備といっても、人里離れた森の中だからたかが知れているけれども。でも、徒歩で歩く分には問題ない程度には踏み鳴らされている道よ」

「へえ」

「学生上がりのへなちょこでも、問題なく帰ってこれるわよ」

「だれが、へなちょこだ」

 カーリャの悪態にミシューは口を尖らす。

「目撃情報が一番多かったのがこの第三林道なの。資源採取や材木の伐採、運搬にも使われるから割と人の出入りは多かったのだけれども。今は、察しのとおりね。早く解決しなければ、材木の値段が高騰してしまうわ」

「大工さんが大変だ」

 そこで、ミシューは少しだけ不安を露わに、しかしどうしても聞かなければいけない事だったので、内心の恐怖を押し殺し、カーリャに聞いた。

「ねえ」

「なに?」

「魔物は出るの?」

 カーリャはしばし、言葉を詰まらせ、しかし剣の振りを留めることは決してせずに、言葉を再び紡ぐ。

「第三林道は魔物の遭遇率がきわめて低いわ」

「そうなの?」

「人の出入りが激しいから。魔物も馬鹿ではないわ。人を襲えば手痛い反撃が待っていると知っている。ましてやそれが小鬼や人獣のようにそれなりに知能のある種族なら、なおさらね」

 ゼファーリア大森林という広大な土地の中にはゴブリンやコボルトといった知性の低い種族が集落をつくり、隠れ住んでいる。

 文化や文明を創成できるほどに知性を持たない彼らは原始的な生活を営むことしかできず、自然の資源を甘受し、自然と共に生きている。人間より動物に近い種族なのだろう。

 ただ、中には人の味を知り、人の持つ文化の便利さを知り、人への襲撃を良しとし、自らの狩猟の対象だと認識する者達が現れる。そういった者達はゼファーリア大森林に訪れる人間を、蜜袋を腹に抱えた蜜蜂だと勘違いする。実は猛毒を持った雀蜂であるにもかかわらず、だ。

 ビレッジ・フォレスティアに駐留するセインブルグ軍は、人を襲った原生生物に容赦はしない。過去にそのような勘違いをし、人を襲った小鬼の集落は悉く、軍によって滅ぼされる。土着のハンターに代行を頼むなどといった容赦はない。小鬼は皆殺しである。

 連中も、中途半端に知識があるものだからそのような事が繰り返されると、自然と人を襲うのを躊躇うようになる。セインブルグの駐留軍も敵意のない原生生物に対しては悪戯に干渉する事なく、そうなると自然と大森林内部に明確な住み分けが生まれるのであった。

「基本的に、林道を明確に外れることがなければ、魔物に襲われる心配はないと思うわ。場所が場所だから、まったく安全というわけにはいかないけれども。ただ、少なくとも林業の人間が小鬼や人獣に襲われたという話はここ暫く、聞かないわね」

「なら、実際はかなり安全なんだ」

「そうね。そうだと思うわ」

 と、そこまでさりげなくいいつつもカーリャは何かを濁すかのように、顔をしかめる。普段から眉間にしわが寄っているからそれで更にしかめたら、本当に人相に救いがないなとミシューは思った。

「なにか、懸念があるの?」

「ええ」

 カーリャはそこで、少しだけ言い淀みながらも、暫しの思案を挟んでから、しっかりと、口を開いた。

「これは、仮説だけど」

「うん」

「もし、本当にゼファーリア大森林を竜が寝床にしているのならば、おそらく小鬼を筆頭に魔物達は竜を恐れて、住処を移動している可能性があるわ」

「どういうこと?」

「生態系が、変わってしまったという事よ」

「生態系が変わった?」

「本来、連中は人を恐れてあえて、林道から離れた場所に集落を作る。けれども、もし竜がゼファーリア大森林のどこかに住処を作ってしまっていた場合、魔物は竜を恐れて竜から遠ざかった場所に居住を移している可能性があるわ」

「そうなんだ」

「竜と人。残念ながら魔物がより、恐れるのは竜でしょうね。竜に比べたら人なんてどうとでもなるでしょうし。ましてや、ここ最近は林道に人が足を踏み入れないとも聞いているわ。昼のハンターも、同業者が減ったと言っていたでしょう」

「そういえば、そうだね」

「もしかしたら魔物達が林道近くに居住を移している可能性がある。そうなると……」

「魔物の襲撃が、あるかもしれない?」

 カーリャは重々しく、首を振る。

 そして、聞いた。

「ミシュー」

「え?」

「あなた。戦えるの?」

「戦えるって?」

「魔道の腕が立つのはすでに理解している。けれども、実戦で有用な術を会得しているかは聞いていないわ。実際、どうなの?」

「あ、うん」

 そこで、ミシューはしばし口淀み、答える。

「テレーマ式の攻性魔術はいくつか習得している」

「テレーマ式ね。護身程度はできそうね」

「ごめん。役立たずで」

「別にいいのよ。そこに関しては実は期待していなかったし。あなた、典型的な草食系だから。荒事に向いていなさそうだし。身を守れるだけ、めっけ物よ」

 テレーマ式攻性魔術とは魔道協会で流布されている攻撃魔術の系統である。セインブルグ軍で採用されているダビデ式攻性魔術と比べ、総じて高い殲滅力を持たず、殺傷能力の心許ない術が多い。

 カーリャはそこで、もう一つ、必ず確認しておかなければならないことがあり、聞く事にした。

「もう一つ、質問があるのだけれども」

「何?」

「あなた、魔物は殺したことあるの?」

「え?」

 重要な質問である。

 実際、実戦での命のやり取りにおける緊張感は現実では想像もつかないほどに大きい。慣れない者は四肢が硬直し、脳の酸素が瞬間的に奪われて、赤い水の詰め込まれた案山子へと変わる。

 実際に、目の前の少女に対してどれほどまで期待して良いのか、重要な指標の一つだった。

 正直、カーリャは目の前の少女がそういった荒事とは無縁だと思っていたから、仮に案山子でも問題ないと考えていた。案山子になられても、彼女の魔術の腕は別の場所で役に立つだろう。

 しかし、返答は想像とは少し違うものだった。

「……あるよ」

「意外ね。今日、一番驚いたわ」

「そう?」

「どういう経緯か、聞いてよいかしら」

「うん。大した話じゃないよ。私が学院時代にお世話になっていた先生が割とスパルタで。実戦的な魔術の研修? 実地? それとお金稼ぎ。そういうことを兼ねて、魔物や魔獣の討伐をしていたことがあるの」

「へえ。そういうの、嫌がりそうなのにね」

「実際、嫌だったよ。でも」

 そこで、ミシューは視線を落とし気味に反らし。

「そういう事、言ってられる世界でもないでしょ」

 確かに。

 口には出さなかったが、カーリャは深く思った。

 少し考えればすぐに解りそうなことだが、これほどまでに簡単なことを理解していない人間は多い。特に、セインブルグの貴族連中。自分が手を汚さなければ、自分の手が汚れていないと勘違いしている。牛を喰っているのならば、結局は牛を屠殺しているのと同じなのに。

 そういったことから、目を背けないだけ、目の前の少女はそういった連中と違うのだろうなとカーリャはしみじみ思った。

「じゃあ、明日はそれなりに期待して良いのね」

「期待はしないで。攻撃魔術は苦手だから」

「戦えるだけ大したものよ。王都に戻ったらダビデへの推挙をしてあげるわ」

「だから、本当にやめてって」

 ミシューは明らかに困り顔だ。

 からかうと面白い。

 頭がいいとは聞いていたが、実際は割と単純な性格をしている。打てば響くし、多分、裏表もない性格なので話していて気楽だった。

 だから、カーリャは笑みを絶やすことができなかった。

 夜天の月光。

 頼りない灯り。

 それに照らされながら。

 更に、夜は更けていくのだった。


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