第19話


 夜のとばりが幕を下ろす。

 夜天が世界を覆う。

 無明の闇に世界は沈む。

 漆黒に彩られた世界は黒より黒く、すなわち黒鉄のごとき色彩に塗りつぶされ、それでも胎動を失う。そして、極黒の世界に時は刻まれ、しかしそれでいて、緩やかに停滞をしようとしていた。

 慣れない天井。

 見慣れぬ天井。

 梁の隅に張り巡らされる蜘蛛の巣の網目を数えながら一人、緩慢な退屈に身を委ねる。

 瞳は冴え、頭も冴え、堅い寝具は王都の自室にあるそれと同じように心地良い眠りを主に享受することは決してなく、ただ安楽の世界から拒絶するかの如く不快を与える。

「眠れない」

 ひとり、ごちる。

 すでに、深夜を迎える。

 おそらく、日を跨ぐ頃合いだろう。

 いや、日を跨ぐという感覚は正しくない。

 深夜に日を跨ぐという感覚は間違っている。

 この世界の『翌日』の概念は日が昇った瞬間であり、人の寝静まった深夜に日付が変更されるのだろうという感性を持った人間はいない。

 ならば日々、日付の変更される時間帯が変わってしまうのではないかと心配になるが生憎、そのような些事に拘る人間は少ないらしい。

 文化が違えば常識も違うし、感覚も違う。

 すでにこちらに来てから十五年の時が経過し、かつては様々な文化的違いに種々の動揺や狼狽が生まれては消えていったが、さすがに最近は慣れてきて、些細な事では驚かなくなった。

 かつての世界と比べて文明が発展しているとは言い難いが、原始的で住みにくい場所かと言われればそういうわけでもない。

 医療技術は発達していないが、錬金術を筆頭とした魔法技術は進展しており、それがかつての故国における代替以上の役割をしている。なので、平均寿命や幼少期の生存率は信じられないほどに高い。

 都市圏のインフラは想像以上に整っており、普通に暮らすにはそこまで不便を感じることは無かった。さすがに東京、とまではいかないが、衣食住での不自由はなかったし、今となればあの発展した世界こそがファンタジーだとまで思える。

 漫画やアニメがないのは少々残念だが、小説や演劇を筆頭にそれなりの娯楽はあるし、転生先としてはそこまで悪くないんじゃないかと思えていた。

「漫画やアニメがなくても、異世界転生はあるんだよなあ」

 専門学校を卒業してこれから実家の手伝いをしようとしていた矢先に不慮の事故で死んでしまった。

 そしたら、神様が現れて異世界転生しろと言われたので、逆らったら怖そうなので黙って頷いた。

 転生特典として何でも一つ、望みをかなえると言われたので何か望みをかなえてもらったような気がするのだが、どのような望みか覚えていない。チートスキルがなんちゃら言っていたが、もう十五年も昔なのでそれも良く覚えていない。

 アイテムを無制限に持ち運べるアイテムボックス的な物も貰っていないし、人のステータスが覗ける鑑定スキル的な物も持っていない。レベルアップとか、スキルツリーとかそういうファンタジーRPG的な物が搭載されているのかと思ったがそれもないし、実は何かの条件で秘められし力が解放されるのかなと思ったが未だ、解放されていない。RPGじゃなくてアドベンチャー方面の異世界転生かなと思ったのだが「もしかして、あのゲームの世界に転生しちゃった?」という感じでもない。もしかしたら未プレイのゲーム世界なのかもしれないが、正直未プレイならストーリーとか全くわからないので実質手探りで、手の打ちようもない。それじゃあ現実と一緒である。

 不親切すぎないか。最近の異世界転生。

 そりゃあれだけ量産されているんだからそろそろネタも尽きてきて、ぞんざいに扱われたんだろうなあと感じることもあったが、転生先が割と裕福な家庭だったので今の今まで、そこまでの不自由なく生きてこれた。

 名門学院の試験も簡単だったし。私立で高等教育まで終了している身としては、未開拓な中世の筆記模試など小学生の算数程度の難易度であった。転生したのが自分じゃなくても余裕で試験突破できるだろうて。

 異世界転生したからには、この世界に対してなにか崇高な使命があるのかと思ったが、そのような説明は受けていないし、おそらく今回はエンジョイ系の異世界転生だと勝手に判断し、異世界転生エンジョイ勢としてそれなりに楽しく生きてきた。

 水辺の葦のようにひっそりと生きて行こうというのだから、あまり邪魔をしてほしくないというのが本音である。

 それを。

 まさか、ここに来て竜退治などというファンタジー的な事件に巻き込まれるとは思わなかった。いや、厳密には竜退治ではなく竜討伐部隊編成に伴う敵情視察、斥候業務の補助だが、平穏に草花と戯れて生きてきた伯爵令嬢系転生ヒロインに対してハードルが高すぎないかと感じざろう得なかった。

 それも。

 それも、これも。

 そう。

 それも、これも。

 それもこれも、隣の。

 隣で眠っている。

 隣で眠っているこの女が。

 この、女が。

 この女が、元凶である。

 憎らしい。

 ただ、憎らしい。

 腹ただしくて仕方がない。

 二言目にはすぐ、殺すというし。

 育ちの悪さが窺える。

 時代が時代なら発禁扱いの所業である。

 ミシューは鋭い視線を隣に向ける。

 隣で眠っている女に。

 隣で何も考えず気楽に眠っている女に。

 気楽に眠っている女に。

 向ける。

 視線を向ける。

 が。

「……」

 視線の先には。

「いない」

 誰もいなかった。

 もぬけの殻だった。

 空白の蝋城だった。

 ガタガタで誰が眠ったかも知れぬほどおんぼろな、小汚いという言葉すらも足らぬほどに薄汚れたベッドに、本来眠っているはずの主である蒼海と見紛う髪をした勝気な少女は不思議なことに、忽然と姿を消していた。

「……」

 ミシューは。

「カーリャ?」

 まだ、両手で数えるほどに呼んだかも怪しい連れの名を、一夜限りの付き合いである宿の小さな部屋に響かせるが、返事はなく、無為な静寂が続くだけであった。



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