初瀬の嫁入り 2

 彼が育ったのは渓谷を挟んだ先にある迷信が未だ息づく小さな里だった。

 山々に囲まれたところにその里は存在する。隣の里とは山と渓谷に阻まれ、里の入口は頼りない吊り橋一つだけの辺鄙なところにある。

 初瀬はそんな孤立した里を治める一族、穂岳ほだか家の養子として迎えられた。一度縁を結び生家をでた母の初乃が出戻り、とある冬の日に幼い彼を残して失踪してしまったためである。

 本来であれば、一度里を出たものは二度と戻ることが許されない。しかし、初乃が穂岳家の人間ゆえに許されたのか。後にも先にも例外は彼女一人であった。だが、彼女を待ち構えていたのは決して平穏ではない。出戻りである彼女は肩身の狭い思いだっただろう。

「男と駆け落ちしたものの捨てられた」「嫁ぎ先から逃げてきた」

 など根も葉もないさまざまなうわさがたちまち流れた。小さな里ではあっという間にその噂が広がってしまう。初乃の腕に抱かれ物心ついたばかりの初瀬の耳にもそのうわさはすぐさま耳に入ってきた。

 実家に帰ってきた彼女は早々に離れに追いやられ、ほとんど外にでることがなかった。一日の大半を窓から外を眺めて過ごしいる姿しか知らない。反対に幼い初瀬は活発な子であった。里を歩いていると里の者の白い目で見られることが多いため、よく離れの裏に聳える山が彼の遊び場だった。いとこの光晴と乙姫と一緒にいるようになるまでは一人であちこちを探索したものだった。叔父は粗相をするようなことをしなければなにも口にしなかったが、厭われていることは幼いながらも初瀬は感じていたので滅多に近づくことはしなかった。

 代わり映えしない日々はある日を境に変化する。初乃が初瀬のことを拒むようになった。たまに顔を見ることがあれば、精神を乱すようになり、手がつけられてない様子に次第に足が遠のくのは自然のこと。そして、忽然と初乃は姿を消した。里の山奥にある祭壇場に一輪のつばきを残して。冬が厳しい日のこと。

 その時、里には昔から続くならわしがあることを初瀬は初めて知ることになる。

 山神様の嫁入り。花のつばきは山神への嫁入りの証。それゆえ里の人々は“つばき様“と親しみをこめて呼んだ。

 彼女は自らを捧げたのだろうか。誰かのささやきに、つばき様へ嫁入りから逃げた過去の応報だと誰かが返した。その償いはのちに初瀬にも降りかかる。

 それから十年の年月が流れ、次の嫁入りが決まった。嫁入りするのは、初瀬だ。

 出来のいい長男と気立てのいい妹。長男である光晴こうせいには家督を継ぐ役目があり、妹の乙姫おとめには他家との繋がりを得るために嫁がなければならない。では、次男として迎えられたいとこである自分は……なにものにもなれない宙ぶらりんな彼にやってきたのは嫁入りの話である。

 不満はない。むしろ、初瀬は自身でよかったとさえ思っていた。一族の中で唯一生まれが異なった自分にうってつけの役目とすんなり受け入れたほどである。

 初瀬の婚儀が行われたのは、春を告げる梅がほころびはじめた頃。その日はいっそう冷え込み、山奥にある里は雪に見舞われた。

 白無垢をまとい、懐には短刀を忍ばせて。網代笠を深く被り、御供の白木台を持ち、夕暮れから神事ははじまる。

 日が暮れたはじめたころ、白い息が闇を染め上げながら複数のたいまつが沈んだ山の中を巡り歩く。中腹まで来たところで、古びた剥げた朱色の鳥居が出迎えた。その先にあるのが祭壇場だ。

 山を切り開いた場所には四対の岩が対角になるように置かれ、岩の近くに設置されたたいまつへ火が点されている。花嫁となるものは四対の岩を巡るように一晩かけて練り歩き続ける。夜が明けた頃には嫁いだ人間の姿はなく、残るのは中心に置かれた白木台だけが残っているという。そこにつばきの花があれば山神の寵愛を得たことを示す。

 次々と用意された松明に火が点されてゆく。その様子を眺めていれば、恰幅のよい男が近づいてきた。穂岳家の当主である伊周これちかだ。初乃の兄で、初瀬にとっては叔父にあたる人物。

 彼はつり目をさらに吊り上げて初瀬を睨みつけた。

「初瀬、分かっているだろうな。山神様……つばき様に必ず選んでいただけるんだろうな」

「えぇ、むかしに約束しましたから。必ず穂岳家や里に繁栄を。母のような失態はしませんよ」

 初瀬の言葉に彼は不快な顔をして気色ばむ。

「当たり前だ。ここまでおまえを育ててやったのも、全てこの日のためだ。絶対に失敗は許されない。初乃の失態は息子のおまえの責任だ」

 伊周は顔を真っ赤にして、唾を吐き散らかすように怒鳴るとどすどすと足音を立て去ってしまう。彼にとってはいつまで経っても母の名は禁句らしい。

 後姿を見送りながら、初瀬はそっと懐にしまっていた一振りの枝を取り出す。とうに花の盛りが過ぎ去った枯枝だ。痩せた枝は幼い頃に交わした約束の証でもある。それを白木台の上に置いた。本来なら許されない行為である。今は誰もが骨まで沁みるような寒さに震え、誰も初瀬を気にかけるものなどいない。

「初瀬」

いや、一人いた。静かな声だった。初瀬はそっと枝を袂に隠すと振り返る。初瀬より少し上背の青年が側にやってくるところだった。彼は下がり気味の目をさらに下げて気遣わしげな顔で尋ねてくる。

「初瀬、本当にいいのかい? 父上には何度も申し上げたのだけれども……」

「気にしないでください。誰にもこの役を譲る気はありませんよ。たとえ、光晴兄さんでも」

初瀬の軽口に光晴はぐっと眉を顰める。昔から心優しい彼のことだ。どんなに言葉を尽くしたところで、納得しないだろう。言葉通りに初瀬は不思議と畏れも恐怖もなかった。彼の固い意志を感じ取ったらしい。光晴は懐からなにかを取り出すと、初瀬の手にそっと握らせた。それは彼が大事にしていたお守りだった。初瀬が彼と出会った時からずっと持っているお守りで、布が擦り切れて元の生地の色も模様も薄れてしまっている。何度も繕われたそのお守りを彼は初瀬の手にのせるとそっと握らせる。

「光晴兄さん、これは……」

 初瀬が返そうとするが、彼はすぐに押しとどめる。

「それは初瀬が持っていなさい。不甲斐ない兄ですまない。だけど、初瀬。君の安全と心より願っているから。大丈夫、どんな結末を迎えようと俺は初瀬の味方だ」

 もう癖なのだろう。そう背が変わらない頭を優しく撫でる。小さい頃から変わらない行為に初瀬は小さく微笑んだ。もう二度と撫でてもらえることがないのだと思うと、寂しく思う。

 全てのたいまつに火が点され、急ぎ足で人々が立ち去ってゆく。最後に初瀬一人取り残された。

 しばし静寂があたりを満たしたころ、彼はそっと口を開いた。

「……掛けまくも畏き、山々の神よ。里守護し栄えをなした神よ。渓谷の奥里ある穂岳の初瀬があなた様に嫁ぎに参る。これよりあなた様にその証を示し、許さればこの身隠したまえと申し上げることを聞こしめせとかしこみかしこみ申し上げる」

 祝詞が響く。呼応するかのように、たいまつの火が風もないのに揺らめき、木々がさざめきあう。初瀬は白木台を手にすると一歩踏み出した。もう後戻りはできない婚儀が始まった。

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