一 初瀬の嫁入り
初瀬の嫁入り 1
「
うれしそうな声が耳に届き、そちらへ視線を向ける。結った紅色の髪を尻尾のように揺らしながら彼女は初瀬の返事を待たずして、屋台へ向かっていた。さっそくと店主へ話しかけている。
初瀬はその様子を黙って見送った。彼女が自由なのはいつものことである。自身は通行の邪魔にならない場所まで移動すると、手持ち無沙汰に通りを眺めた。
頭上を赤提灯が連ね、大通りには同じく左右に別れた屋台が競うように並んでいた。一見すると縁日に紛れ込んでしまったかような光景だが、その異様さは一目瞭然だった。
赤提灯の灯りが届かない場所は、深淵が底知れぬ闇を覗かせどんなに目を凝らしても、その先の景色を伺うことはできない。まるで明かりがない場所は奈落の落とし穴となっており、誤って足を踏み入れたら最後。真っ逆さまに落ちてしまいそうだ。
他にも露店を広げる店主たちは、お面を全部つけている。
面は多様で、翁、ひょっとこ、おかめ。さらには猿、狐、天狗などそれぞれが思い思いの面をつけている。素顔を晒すものは誰一人といない。
立ち並ぶ屋台の間を闊歩するものも、また皆一様に雑面を身につけて素顔を晒していない。初めて訪れた者が目にしたならば、異様な雰囲気に背筋が薄ら寒くなるような光景だ。
すると甲高い声が屋台の合間から声が響いてきた。
「ちょいちょい、そこのおまえさん。迷い人だろう」
声がしたほうへ目を向ける。すると闇から浮かぶように青白い手が見え隠れしているではないか。手はこちらへ招くように上下と動いていた。肘から奥は闇に溶けて姿を窺うことはできないため、その姿を判別することはできない。
動かす手を止めることなく相手はさらに言葉を連ねてきた。
「悪いことは言わない。早くこちらへおいでなさい。ここの者たちはまだおまえさんに気づいていないが、正体が知られては五体満足に元の世界に戻れぬぞ」
そっとささやき声で誘ってくる。しかし、初瀬はその場から一歩も動こうとはしなかった。それどころか、そっけなく返事をする。
「おまえこそ、早く去ったほうがいい。よからぬことを考えて俺に構えば、今に痛い目をみるぞ」
「何を言っているんだ。おらぁ、親切心から言っているんだ。帰りたいだろう? 本来人が住まう場所、現世へ」
現世。その言葉に初瀬は己の赤い瞳を大きくみはる。それも一瞬のこと。先程と変わらない声音か、それよりもさらに素っ気ない声が返ってくる。
「残念ながら興味がない」
「そんなことを言って、おまえさんの行方を探すものだっているだろう。帰りを待つものだっているはずだ。そんな者たちの気持ちを無碍にするつもりか? さぁ、こちらへおいで。わたしが現世へ戻る方法を教えてやろう」
すげなくつっぱねられ、少しいらだった声があまい言葉を並べたてる。しかし初瀬はそれでもその場を動こうとしない。それどころか、口元には冷ややかな笑みが浮かぶ。
「おまえは俺が本当に現世に帰りたいと願っていると思っているのか? 言っただろう。興味がないと。はっきりと言ってあげるよ。俺は望んでここにいるんだ」
「……おまえ、まさか――」
「お待たせしました! 蒸しあがったばかりだそうです。きっととても美味しいですよ」
先程、初瀬の名前を呼んだ娘が、湯気の立ちのぼるまんじゅうを携えて帰ってくる。
色素の薄い灰色の眸が初瀬の背へ向けられる。しかし、そこには底の見えない暗闇があるだけだった。
彼女の存在に気づき、分が悪いことを察したのだろう。賢明な判断だ。ここは弱肉強食。弱き者は引き際を間違えれば命取りになる。
「誰かとお話でもされていましたか?」
「別に。君のような親切心を携えた輩に声をかけられていただけだよ」
「まぁ、それはわたしの役目です。誰にも譲る気はありませんよ。それにそういう手合いのものは、最初に優しい言葉をかけてくるんです。安心させておいて、最後には大きな代償を求めてくるんですから。容易に耳を傾けないでください」
むっと頬を膨らませる姿に小さく笑う。彼女の場合は強引だったというのに。どの口が言うのだろう。初瀬は片手に握られたまんじゅうを彼女の手から奪うと一口食べた。こちらの食べものを口にすることに戸惑うこともすでになくなった。すっかりこちらに馴染んでしまっている自分に笑みを浮かべる。
「分かっているよ。俺は君に嫁入りした身だ。花嫁殿の言葉に忠実に従うのが、嫁入りした人間の決まりだろう」
「なら、わたしのことは“君”ではなくちゃんと名前で呼んでください。わたしには、コウ、という初瀬が名づけてくれた名前があるのですから」
自慢げに胸を張る彼女に初瀬は残りのまんじゅうを頬張る。
迷信がまだ息づく辺鄙な里のしきたりにのっとって、初瀬はコウと名づけた人あらざる化生に嫁入りをした。
もう三年も前の話である。
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