初瀬とさざんか

緋倉 渚紗

序 花木とやくそく


 少年にとって、そこは唯一の安息地であった。

 閉鎖的な里ではどこにでも人の目と耳があり、うわさは波紋のようにあっという間に広がる。それゆえ人目がなく、誰もめったに立ち入ることのないこの場所は少年のお気に入りだった。

 まだ冬が厳しい時期。色褪せた森で、数少ない色付いた花を咲かせたその花木は目印だった。辺り一帯に群生しているおかげで、小柄な少年を里の目から覆い隠す。彼が居座るのにそう時間はかからなかった。

 いつもなら日が暮れ始めると帰路につく少年は、その日に限ってうずくまったまま帰ろうとしない。両膝に押し込めた顔から時折鼻をすすり、小さな嗚咽が漏れ聞こえてくる。静まりきった夜の気配を漂いはじめた森に切なく響いた。

「すぐに日が暮れる。何があったかは知らないけれど、早くお帰りなさい」

 少年一人きりの場所で、女の声が突然と響いた。驚きのあまりあげた顔は、長い時間泣いていたせいかふやけ、真っ黒なまなこからは堪えきれなかった涙がまた一筋頬をつたう。

「……かえりたくない。かえるくらいなら、やまがみさまにつれて行ってもらいたい」

 涙に濡れた声が、願うように落ちる。

「なぜ? かのもののところに立ち入ったところでおまえを待ち受けるのは、ここよりもずっと苦しいところだというのに」

「だって……だって……」

 はらはらと再び涙が溢れ、嗚咽の混じった声が切実さを滲ませる。

「そうしたら、ははさまに会えるでしょう……?」

 少年の母はある日を境に忽然と姿を消した。

 吊り橋を渡った先にある迷信が未だ息づく里がある。山奥には祭壇があり、彼の母はそこに一輪の椿を残して行方をくらませた。とある冬の話だ。

 そのうわさは一瞬にして里を駆け巡り、口さがない言葉と視線が一人息子であった幼い少年を襲ったのは想像に難くないことである。しばし、静寂が続く。駄々をこねる子を諭すように再び花木から声が聞こえる。

「おやめなさい。はざまに迷い込んだところで、おまえの探しものは見つからない。それよりも、おまえを大切にする者の側にいたほうがずっといい」

「そんな人もういない! おじさまが言ってた。やっかいものがいなくなってせいせいしたって。あれは、ははさまのことでしょう? おじさま、いつもははさまのことを悪く言っていたもん。こうせい兄さまはやさしいけれど、本当はおれのことなんてきらいなんだ。おとめもまだ小さいからあまえてくるけど、きっときっと……」

 少年の言葉にとうとう花木は沈黙してしまった。

 もとより花木が喋るはずがない。そうわかっていても、声が聞こえてこないことに、彼女にまで見捨てられたような気がした。ことさら涙が流れる。止まない涙に彼の顔がしまいには溶けてしまいそうだ。

 日が暮れた山は気温がぐんと下がり、あっという間に闇があたり一帯を染めあげていく。小さな体に不安と寂しさがぐるぐると駆け巡ってゆく。それでも彼はその場から動こうとしなかった。小さな矜持と恐怖がそれを許さなかった。

 どれぐらいそうしていただろう。少年の頭にぽつりと何かが落ちた。暗闇に染まった中でも、その紅の花は少年の目にはっきりと存在を焼きつけてくる。

「わたしは幼子に興味はない。それを持って今日は帰りなさい。おまえのおじさまとやらに見せれば、おまえへの態度も改めよう」

 それは母がよく好んだ花だった。その花を彼女はいちばん愛した。部屋の窓からその花木があり、一日中、彼よりも母は飽きずにずっと眺めていたものだった。

「あなたは……」

「あと十年。十年経ってもなお、はざまに興味があるというのなら。……その時は迎えようではないか」

 彼女は断言する。すると、どこからか聞き覚えのある幼い二人の声が聞こえてきた。

 一人は焦りを交えた声、もう一人は今にも泣き出しそうな弱い声だ。そちらに気を引きつけられた少年に花は笑う。

「ほら、早くお帰りなさい。待つ者がいて帰る場所があるうちは」

 少年は袖で涙を拭うと、急ぎ声のする方へと走ってゆく。遠くでにぎやかな声が聞こえてきた。

 やがて、静寂があたりを満たしたころ。紅の花弁が一枚、少年のいた場所へと落ちた。

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