アオの調和模様

紀井ゆう馬

第一話 はじまり

 どうして自分だったんだろう。

 なんでみえるようになったの。

 何が原因なの。

 ふつうの世界を返してよ。

 

 それを初めて見たのは小学一年生の頃。

 私の住む千世野地区は山に囲まれ、信号がなく、公園の代わりになるものは学校の遊具。もしくは山や川だった。

 自然豊かで田舎の小学校というイメージを体現したような、楽しい学校だった。

 小学校でできた友達と遊ぶのが何よりも楽しみだった。山で鬼ごっこしたり、川で石投げもしたし、川の近くに大きな石でできた穴を秘密基地にして遊んだりもした。

 たまにはゲームをしたり、どこまで早く走れるかなんて競争したこともあったっけ。

 この地域は五時に学校のチャイムが防災無線から鳴り、帰りを促される。

 チャイムが鳴ったら帰るようにと学校で教わった。お父さんにも言いつけられていた。

 家は田んぼと畑に囲まれていて、一見すると家に続く道が見えない作りになっていた。

 畑の隅に植えてあるユズリハの木を目印に曲がり角を曲がれば少し塗装の剥げた白線が描かれた車道がある。

 角を曲がれば、家の玄関先に黒い作業着で頭にタオルを巻いた男の人が立っていた。

 きっと隣の安斎のおっちゃんだな。おっちゃんの声は大きくて、でも優しい音が混じるガラガラ声が特徴だ。

 玄関先まで小走りで駆け寄り、その背中が汚れていることに気づいた。

「あれ?おっちゃんの背中、真っ赤やで、どうしたん?」

 隣に住んでいる安斎のおっちゃんは大工さんだ。その奥さんの安斎のおばちゃんが畑をしていて豊作のおすそ分けにサツマイモを届けに来てくれていた。仲良し夫婦さんだ。

 やった、お芋さんが来た。

 お母さんが作ったふかし芋は美味しいから好きだ。

 でも、この間塩をかけすぎて怒られた。

「あ、わかった!ペンキやろ?ハケでぬりぬりしたん?」

 背中に一筋の線を引いたようにべったりと赤いペンキが作業着についていた。こりゃあ、お洗濯が大変やわと小さいながらに安斎のおばちゃんの顔を思い浮かべた。

「え?いや、おっちゃんは今日はペンキつこてへんよ。ここだけの話な、おっちゃんはペンキ塗んの苦手なんや」

 知らん間についたんかなと首を少し回してみているようだったが余り回っていない。腕も背中に回していたが、

「いででで、あかんわー。年のせいか首も腕も上手く回らんわ!」

 年取るのは嫌やのぅ、がはははって大きく口を開けて笑った。

「ねぇ、静。安斎さんの背中には何もついてへんで?黒い作業着やから赤のペンキやと目立つはずやねんけどなー」

 お母さんもおっちゃんの背中を覗き見るように見て不思議そうに首を傾げた。

「えー、あるで!ほら!」

「えー、ほんまか。どこらへんや?」

 子どもよりも大人のほうが的確だと思ったのだろう。

 おっちゃんはお母さんが背中を見えるようにくるりとその場で回った。

「ここ、ここ!」

 180度回転した背中の真ん中、肩甲骨の辺りを指差して、

「ここにあるでー」

 あれだけ背中にべったりとついているんだから気づけない訳ない。

 私の見立てではペンキは乾いているように見えた。指でつんつんしてやろうと人差し指を背中にペンキをなぞるように動かした。

 けれど、乾いていたはずのそれは水を含んだ泥のようにぐちゃっとした感触。泥よりも粘り気があるスライムといったほうがいいかもしれない。

 ぶわっと全身の毛穴が浮き上がるような寒気が私を襲った。

 なんやこれ、気持ち悪いと思っている間にそれは徐々にじゅわじゅわと沸騰するかのように水気が無くなっていき、最後は砂みたいになって、さらさらと流れるように消えてしまった。

「なんや、きもちわる!」

 思わず言葉に出てしまった。

「こら!静!失礼やろ!」

 身震いする私をお母さんは叱りつける。

「ごめんなさい、安斎さん」

 申し訳無いとお母さんは頭を下げた。

「かまんかまん!ちょうど夕日でもおっちゃんの背中にあたってたんかもしれんしな!後光が指すおっちゃんの背中ってな!それか静ちゃんの勉強しすぎて疲れとるんかもなぁ」

 明るくてジョークも度々いうおっちゃん。また大きく豪快に笑う。このおっちゃんが笑うとなんでも吹っ飛んで行きそうだなといつも思う。

 勉強の息抜きはせなあかんで、頭がパンクするで!と笑いながら手を振って帰って行った。

 おっちゃんが帰るとお母さんから人に気持ち悪いと言ってはいけないと言うお叱りを受けた。

 あと宿題もしていないのに遊びに行った事もバレバレだったようでその件でも怒られた。


 それから何日か経ったある日。

 たまたま安斎夫婦にスーパーで出会ったお母さんから聞いた話だ。

 おっちゃんの工房にはたくさんの木の角材やベニヤ板などを保管してる所がある。

 在庫の管理、整理、次の日に現場で使う物を準備していた。ついでにササッと軽く掃除もしておこうということになり、おばちゃんと話しながらしたんだそうだ。

 すぐに使う予定で立て掛けてあったニ本の角材の内の一本に靴が当たってしまった。

「そんな軽いもんやないから大丈夫やなっておもっとったら倒れてきたんよ。やけど、儂も捨てたもんやないな、まだ反応して避けれたわ!」

 あと少し反応が遅かったら危なかった、反応した反動で腰が悲鳴あげとるわと湿布臭いおっちゃんが言っていたそうだ。

「なんやわからんけど、その時に静ちゃんのいやったこと思い出してな。なんもなかったんは静ちゃんのおかげかもしれん」

「それ聞いて、私、ほんまにびっくりしたんよ。静ちゃんに感謝せなあかんわ。こんな事もあるんやねー」

  その二人としらばく世間話をしてから帰ってきたらしい。

「それにしても不思議やねー、こないだ静が言ってた所やったもんね」

 そんなこともあるんやねぇ、世の中不思議とうんうんと一人頷きながら納得するお母さん。

 確かに。

 そんなこともこの広い世の中にはあるのかもしれないと新しい発見のように感じた。

 ただ、もし、本当に当たっていたら?

 そんな言葉が脳内にぽつんと浮かぶ。

 自分の背中にあの時の嫌な寒気が呼び起こされたような気がした。

 偶然やよね。

 たまたまだよね。

 そんなこともあるってお母さんもおばちゃんもゆってたもんね。

 世界には不思議なこともある、知らんだけでと自分に言い聞かせるように心の中で唱えた。

 

 忘れた頃になんとやら。

 私には兄と妹がいる。

 その時、私は小学三年生、兄の源は中学一年生。

 お母さんが買って来てくれたフワフワの枕カバーを兄妹で選んでいた。

 同じ柄で青、赤、オレンジの綺麗な三色だった。この中ならどれでもいいなと私は思っていた。

 私と小学一年生の妹の巴は薄いパジャマを着ていたが、源は暑いっと言って半袖を着ていた。

 じゃんけんで決めると言い出した巴が手をグーにして腕を伸ばして、

「さいしょはグー、じゃんけんほい!」

 目を疑った。

 半袖の源の右腕に赤いものがある。

 それは肘より手首に近く、斜めに赤い線が走り書きのように伸びているのだ。

 さぁと全身の血の気が引く音がした。

 あの嫌な冷たい感覚が思い出したかのように体に染み込んでいく。

 おっちゃんのようにハケで塗った線ではなく、まるで腕に油性ペンの太い方で落書きしている線のようだった。

 もしかしたら落書きかもと目を凝らしてみるが油性ペンでも落書きでもなかった。

 それはライトを当てたように光っている。

 おっちゃんのは偶然、たまたまだってお母さんとおばちゃんが言っていたんだから。

 でも、もし、おっちゃんに見えた赤い線と同じだったらと思う気持ちが出てくる。

 違いがわからない。

 放っていても良いものなのか。

 それとも知らせるべきなのか。

 そもそもこれは良くないものなのか。

 どうしたらいいかわからない。

 源にはおっちゃんの件で散々馬鹿にされてたのだ。

 そんなんみんなの前でゆわんといてな、おかしいって笑われるでとか。一年生にもなって寝ぼけとるんちゃうんかとか。アホらしいとか。他にも色々言われた。

 でも、源のことは好きだ。兄妹だし。

 三年生なりに頭で考えた結果は、偶然かもしれないし、よくわからないこともあって放っておくことにした。

「巴が赤、静が青、兄ちゃんがオレンジな!」

 どうやら巴と源が色を争っていたようだった。やったー!っとオレンジの枕カバーをひったくるように自分の部屋へ走り去る。


 後悔先に立たずとは、まさにこの事だろう。

 中学校生の源は一つ山を越した中学校に自転車通学をしている。小中高と学年が上がるごとにどんどんと通学に時間がかかるのだ。

 下校中、軽自動車二台がすれ違うのもやっとな道路があった。

 冬休み前で暗くなるのが早くなり、その場所はより見通しが悪くなっていた。

 その狭い道路でトラックを避けようとして転倒。

 源は右腕を折った。

 根に持たずに言えばよかった。

 言えばよかった。

 言えばよかった。

 言えばよかった!

 言えば腕を折らずにすんだかもしれないのに。

 お父さんと病院から帰ってきた源。

 部屋に荷物を置きに行った源を追いかけた。

 源の部屋は引き戸で畳だ。引き戸を開けると、顔に擦り傷、右腕にはギブス。それを支える三角巾は首から掛けている。

 痛々しい初めてみる兄の姿。

「ごめん、ごめんなさい。見えててん、赤いの見えててん」

 蹲って泣きじゃくる私に源は何も言わない。

 さいてーな奴だって思ってるんだろう。

「なんで静が謝るん?あのトラックも悪いけど、兄ちゃんも悪い、避けそこねたわ」

 心底、不思議そうな声だった。蹲る私の頭をガシガシと少し乱暴に撫でながら、

「兄ちゃんが言ったからやな。そんなん他所でゆったらおかしいから言うなって」

「うん、でも兄妹やし!でもゆったらあかんってゆわれたし!どうしたらええか、わからんかった」

 言葉になっていただろうか。

 泣きすぎて、嘔吐くように答える私は情けなくて仕方なかった。

 でも私には泣くことしかできなかった。

 よいしょと畳に座り、蹲る私の顔を見ながら。

「泣きすぎやろ、顔ぐしょぐしょやで」

 ちょっとニヤニヤした声でジャージの袖でゴシゴシと顔を拭いてくれた。

 結構力を入れてるようでジャージの繊維が痛い。

「気にせんでええ。こんなん誰でも事故るし、怪我するんやから」

 少し疲れた顔をさせながら、源はだはは!って笑い飛ばした。

 へんな所で安斎のおっちゃんのマネする。

 そういえば二人は小学校6年間、自由研究で工作を作っていた。

 私のネームプレートを木で作ってくれていたっけ。

 静の名前には青が入っているから青をメインにしたと源が作ってくれた。

 その当時は部屋がなかったから居間に飾ってあった。

「気にせんでええ、気にせんでええ、そんな時もあるって」

 源なりの優しさがじんわりと体に溶けていくように感じた。

 源はかなり優しいほうだと思う。

 巴には激甘だ。私もなんだかんだ巴には甘い。だって可愛い妹だから。

「今度そんなん見たら、兄ちゃんに教えてな。でも、学校の友達には言うなや。大人もあかん、巴はまだ小さい。お父さんらはどうしよかな」

 今思えばあの言葉は私を守るためだったのだろう。見えないナニカを見えている私は、大人ならば子どもだからなと終わる人も多数いるだろう。

 けれど子ども同士ならば、そうはいかない。

 子どもの社会は学校だ。

 きっと嘘つき、気持ち悪い、近寄るな、もっと酷いそんな言葉が私に降りそそぐかもしれない。

 子どもの想像力だって馬鹿にできないくらい実に豊かだ。

 最初の情報よりもまったく違う事柄も付いてしまう事だってあるだろう。

「うん、わかった。ありがとうな、源」

 話した声は鼻声すぎて自分でも引いてしまうくらいだった。

「兄ちゃんって呼べや!静!とりあえずお父さんらにはこの事は内緒、保留で!」

 静と巴は兄の源を名前で呼んでいる。

 源は私達に『兄ちゃん』と呼ばせたいみたいだけど。

「源は源やろ」

 と言うと兄ちゃんって呼んでよ、なんで呼んでくれへんねんと小さい声でブツブツ言っている源が面白かった。

 喧嘩だってするし、からかったりからかわれたりもする。

 けれど、私たちは小さい頃から兄ちゃんが大好きなんだ。

 兄ちゃんなんていってやらないけど。


 当たり前とはいかないくらいの頻度で見えていく。

 それが当たり前であるはずがないのに。

 小学校の友達のみっちゃんの足首に赤いリボンみたいなのが巻き付いていた時があった。

 源に相談しなきゃと思いつつも、

「みっちゃん、ズボンになんかついとるよ。とるねー」

「え?どこ?あ、自分でとるよ!」

「かまへんよー」

 これが本当にくつ下の装飾であれば、こんなに何重にもみっちゃんの足に絡んでなんかいない。リボンというよりも赤暗く透明な大きいミミズに近い。

 そっと触れる。

 じゅわっと沸騰したような音。

 指から伝わるドロドロした気持ちの悪い感触。それに頭に響くお寺の鐘のような音。

 ボタボタと地面に落ち、ゆっくり透明になり消えていく。

 そりゃあ、触るのは怖いよ。

 でも、もっと怖いのはそれを無視して取り返しがつかない時。

「とれたよー、埃やったわー」

 私は笑う。上手くできた、隠せた。

「ありがとう!静ちゃん!」

 みっちゃんは無邪気に笑っていた。

 防災無線から五時のチャイムが鳴る。

「かえろっか!」

 うんとみっちゃんが頷いたのをみて、これで良かったんだと安堵し、差し出された手を握り帰り道を歩いた。

 脳内でぐわんぐわんと鐘の音が鳴り響く。

 何かの歌を歌いながら、たぶん当時の流行り歌だったと思う。繋いだ手をぶんぶん振り回し歌う。

 鐘の音は手を離すまで私の脳内を揺さぶり続けた。

 自分の中で見つけた、みえる法則。

 一つ、日が少し落ちてから見えるようになる。国語辞典で調べた。夕暮れ時は黄昏れ時とも言うらしい。

 二つ、触れて消した後、その対象者に触ったら何かしらの不具合がある。お腹が痛くなったり、頭が痛くなったり、声が出づらくなった時もあった。

 日のある内は赤い物は見えないと確定ではないが、少し安心したのを覚えている。

 それだけでも気が楽になった。

 なんで見えてるんだろう。みたくないよ。

 でも、それ以上に知ってる人が困るのはもっと見たくないんだ。


 

 


 

 



 

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