アイビー
次の日から彼女は見違えるほど変わっていった。
ご飯を一日三食しっかり食べるようになり、外に外出することも前よりはるかに増えていった。
相変わらず、寝る時は睡眠薬に頼っていたが、心身共にやつれていた彼女は確実に回復していったように思えていた。
しかし、その日は突然訪れる。
僕が編集者の人と打ち合わせをするため外出していた時だった。
僕が帰って来ると、お風呂場の電気がついている。中には誰かが立っている影が見えた。
僕は恐る恐る扉を開ける。
中にいたのは調理用の包丁を持った明日花だった。風呂場にはお湯が張られている。
まるで今から自殺しようとしているかのようだった。
彼女の左目からは一筋の涙が溢れていた。
『あれ、帰ってたの?』
彼女は包丁をかくし、そう言った。
『うん、ただいま。お風呂場で何やってたの?』
『あ、包丁を洗おうと思って』
彼女が言葉を振り絞ってやっと発した言葉は明らかに嘘だった。
しかし、それ以上僕は彼女の闇に踏み込む事ができなかった。
この嘘を追求してしまえば、もう彼女の近くに居られなくなってしまう気がしたから。
だが、もしこの時彼女から離れてしまうとわかっていてでも、勇気を出して彼女の闇に踏み込んでさえしていれば…少しくらい未来は変わったのかもしれない。
彼女はこの日を境に自殺未遂を何回も繰り返すようになっていた。
でも、彼女は死ねなかった。いや、死ねなかったわけではない。彼女は死のうと思えばすぐにでも死ねただろう。
それでも、彼女が死ななかったのは彼女なりにあの日僕とした約束を必死に守ろうとした結果だった。
彼女は毎日苦しんでいる。
そんな彼女を僕は相変わらず愛してしまっていた。
彼女も僕を愛してくれていたと思う。
だからせめて、僕も君とした約束を守って君を愛したままの僕の手で終わらせよう。
僕は次の日、休みを取り彼女と最後の時間を過ごす。映画を観たり、一緒にゲームをやったり、ご飯を一緒に作って食べたりもした。
時間なんて気にせず彼女と遊べるものは全て遊び尽くした。今までで一番楽しくて充実した日を過ごした。
でも、ついに僕たちに時間が追いついてしまった。時計の針は今にも君と一番最初にした約束をした時刻にさしかかっている。
『もうこんな時間か。薫くんとの最後の時間、人生で一番楽しかったよ。ありがとうね』
『あれ、気付かれてたのか。ごめんね』
『私のこと愛してる?』
彼女はあの日と同じ、照れ臭そうにそうに聞いた。
『もちろん。昔からこの世で一番愛してる』
彼女は照れながら笑う。
『やっとこの時が来たんだね。私ねずっと愛してる人に殺して欲しかったの。それが小学生の時からの将来の夢、私の生きる意味』
彼女はそう言うと、僕の手に包丁を握らせる。
『ほら、早く刺して?18時超えちゃうよ?』
そうだ、早くしないと。18時超えちゃう…
彼女は最後の言葉を発した。
『愛してる』
あぁダメだ。視界がボヤけて何も見えない。
僕の顔に雨が降る。この雨はなかなか止みそうにない。
だけど、僕は約束を守らなければならない。
それが僕が最後に彼女にしてあげられる唯一のことであり、僕の生きる意味だから。
僕はやっと渇いた唇を動かし、こう言った。
『僕も愛してる。これまでも、これからも』
ありがとう。
僕は彼女に包丁を勢いよく突き刺した。彼女のお腹はどんどん赤く染まっていく。
彼女は安心したのか目を瞑り、僕の手を握った。
やがて、僕は彼女の手の温度に気づく。
彼女の手はあの日と違い冷たかった。彼女は笑ったまま僕に寄りかかっている。彼女の右目からは一筋の涙が流れていた。
『相変わらず、君は綺麗だ』
笑ったまま涙を流し、僕に寄りかる明日花は今までで一番綺麗だった。
そんな彼女には、アイビーが似合うだろう。
僕は彼女にアイビーを添えて、部屋を後にした。
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