『あるオフの日』

『雪』

『あるオフの日』

 リビングに置かれた真新しいソファーにだらしなく寝っ転がりながら、私はベランダ越しに恋人の姿を眺めていた。

 彼は一畳半ほどの狭いベランダに広げられた折り畳み式のアウトドアチェアにゆったりと腰掛けながら、冬の空をぼーっと眺めている。時折、手にしたベイプを思い出したように咥えては、白い吐息を乾いた青空に優しく放つ。

 ソファーに手を滑らせて、伏せてあったスマホを手に取った。マイク部分を手で覆い隠し、極力音が出ないようにしてからそっと彼の姿を写真に収める。幸いにも彼には気付かれなかったようで、素知らぬ顔で私はスマホを再びソファーに伏せると、自然と口角が上がってくるのを感じていた。暫くの間、ソファーで顔を伏せながらゴロゴロと悶えていると、ベランダの窓を閉ざす音と共に彼がリビングへと戻ってくる。


「なんだか楽しそう……。何か良い事ありました?」


「えへへ、まぁそれなりに」


 流石に当人の隠し撮りが綺麗に取れただなんて口が裂けても言えない。彼も深くは追及する気は無い様で、アウトドアチェアを玄関の方へと持っていって、また再びリビングへと帰って来た。

 ソファーの隙間に腰を下ろし、もたれ掛かるようにして私に覆い被さってくる。彼は先程まで屋外に居たという事もあり、その素肌もすっかりと冷え切って、ひんやりとしている。私の手よりも一回り程大きいその手で温もりを求めるように私の身体を優しく抱きしめた。


「……ひゃんっ!? ねぇ、なんだか手付きがちょっといやらしくない?」


「んー、気のせいじゃないですか?」


 ワザとらしく惚けたフリをしながらも彼の手は止まる所を知らない。私の身体のあちこちを好き勝手に撫で回しながらゆっくりと、しかし確実に、敏感な部分へと伸びてくる。そういう事が嫌な訳では無いけれど、珍しく二人共が完全にオフなのだ。たまにはゆっくりと買い物したり、お出掛けを楽しみたい。

 絡め捕られた腕の中でぐるりと半回転して、彼の方へと向き直る。長い前髪の隙間から覗く視線からは何だか意地の悪いモノを感じた。彼の背に腕を回し、ゆっくりと引き寄せる。

 近付いてくる彼の下唇にかぷりと噛み付けば、ほんのり残る作り物めいたバニラの甘ったるい香りがした。


「やる事終わってないのにシませんよーだ」


「……まぁそうですよね、仕方が無い」


 唇が触れ合うくらいの軽い口付けを私の唇に落として、彼は身を起こす。いつもと異なり、やけにあっさりと引き下がった彼に対してやや後ろ髪を引かれる思いはあったものの、私も身体を起こして服装の乱れを整える。


「洗濯は終わって乾燥中だから、後は掃除と買い物くらい?」


「水回りは洗濯前にパパっと済ませたので、後は軽く掃除機掛けるくらいですかね。買い物は食料品と無くなりそうな日用品を買い足すくらいになりそうです」


「ついでにお洒落なカフェでのランチも要求しまーす」


 冗談めかして言った私の言葉に二人して笑みを浮かべる。

 彼がキッチンで冷蔵庫の側面に貼り付けたホワイトボードのメモをカメラに収めたり、日用品の不足分を確認しに行っている間にリビングに掃除機を掛けてしまう。彼も私も部屋に物を置きたくないタイプという事もあり、家具も私物も殆ど無い。カーペットとフローリングに掃除機を掛け、充電スタンドに戻す頃には彼の方も出掛ける準備は殆ど出来ている。


「メモは用意しました、ランチの場所も幾つか候補を探しました。後は何かありますか?」


「ないない。私も支度は殆ど出来てるからちゃっちゃっと行っちゃおー」


 一人ずつ出れば良いものを、効率など知った事かと言わんばかりに狭い玄関でぶつかり合いながら靴を履く。シューズボックスに備え付けられた鏡で身なりを整えると、私はある事に気が付いた。


「あっ! まーた見えるとこに痕付けたでしょ?」


 鏡に写る私の首筋にくっきりと残る小さな赤い痕。所謂キスマークと呼ばれるソレは、恐らく昨日の夜に彼に付けられたものだろう。


「……記憶が正しければ、付けろと言われたはずですが」


 呆れ顔の彼にそう言われ、私は昨晩の朧気な記憶をどうにか引っ張り出してくる。昨日は久々にライブ終わりの打ち上げがあって、美味しい料理とお酒に舌鼓を打ち、彼に迎えにきて貰った時にはすっかり出来上がっていて、公衆の面前でメチャクチャにごねておんぶして貰って帰宅した後、転びそうで危ないからと一緒にお風呂に入った時に確か……。


「……ハイ、私が言いました」


 今更ながら顔から火が出るかと思う程に頬が熱い。鏡越しの彼は何処吹く風といったように相変わらず飄々としている。顔を覆う指の隙間からそっと覗くと鏡越しに彼と視線がぶつかる。


「買い物、どうします? 嫌なら俺がサッと行ってきますけど……」


「……行きます、行きますよぉ」


 もう何度目かも分からなくなった禁酒宣言を心に刻むと、恥ずかしさを誤魔化すように彼の手を取って、玄関の扉に手を掛けた。

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『あるオフの日』 『雪』 @snow_03

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