シャドウスパイラルの未踏破区域⑤



セレフィナが一歩踏み出すと、空間全体がざわめき、目に見える景色がひび割れたガラスのようにゆっくりと歪んでいく。その変化は異様で、まるで現実が音もなく崩壊していくかのようだった。彼女はその場に静かに立ちながら、漂う微かな違和感を冷静に観察する。


サキュバスたちは、陶器のように美しい笑顔を浮かべながら、ゆっくりと彼女に近づいてきた。その動きには妙に自然な魅力があり、見る者を引き込む魔力が込められているのが感じられる。


「ふふ、あなたも強がっているようだけど、この力には逆らえないわ。」

一人のサキュバスが甘く囁く。その声は絹のように柔らかく、耳元で響くたびにまるで心に浸透するかのようだった。他のサキュバスたちも微笑みながら声を揃え、甘美な調子でセレフィナに語りかける。その言葉はまるで蜜のように、心の奥底に染み込んでいく。


同じ頃、リリィはその場でふらつき、視界がぼやけていくのを感じていた。まるで体から力が抜け、空気中に溶け込んでいくような感覚。胸の奥にどこからともなく甘いささやきが聞こえ、それが彼女の意識を侵食していく。いつの間にか彼女の足は、意思に反してサキュバスたちの方へと進み始めていた。


「リリィ!」

焦った声で呼びかけるグレンの声が聞こえる。しかし、リリィはその声に反応するどころか、夢の中に引きずり込まれるようにサキュバスたちの元へと引き寄せられていく。その表情には焦点がなく、ただ甘美な幻想の中に閉じ込められていた。


「くそっ!」グレンは急いでリリィの肩を掴み、彼女を引き戻そうとする。しかし、リリィの目にはすでに正常な光はなく、彼女の意識は完全に別の世界に囚われているようだった。


「…無駄だ。」

セレフィナの冷たい声が響く。彼女の視線はサキュバスたちに向けられ、その表情には一切の動揺が見られない。同時に、彼女の体から漂う魔力が周囲の空気を圧倒的な重みで包み込む。


セレフィナの手には、目を奪うほど美しい輝きを放つ魔力の刃が現れた。その刹那、サキュバスたちの表情に微かな動揺が走る。だが、彼女たちはすぐにその動揺を隠し、魅惑的な笑みを浮かべて言葉を続けた。


「欲望からは逃れられないわ。あなたの心にも、隠された欲望があるはず。私たちの世界でしか感じられない快楽を教えてあげる。」


甘い声が耳に残り、周囲の霧がさらに濃くなる。その霧は彼らの視界を奪い、現実と幻想の境界を曖昧にしていく。


セレフィナはその声を黙って聞きながら、冷たい目で彼女たちを見つめた。やがてその瞳が細まり、鋭い光が宿る。「…我の欲望だと?」彼女の声は静かだが、その奥には絶対的な決意と力強さが込められている。「くだらん。」


次の瞬間、セレフィナは魔力を解き放った。その力は眩い光となり、一瞬で周囲の空間を飲み込む。サキュバスたちの幻術の世界が一斉にひび割れ、壊れた鏡のように崩れ落ちていく。


リリィの体はふわりと揺れ、目の焦点が徐々に戻る。「…あ…」彼女はふらつきながらも意識を取り戻し、困惑した表情で周囲を見渡した。


「リリィ、大丈夫か!」

グレンがその肩を抱き寄せ、安心させるように強く抱きしめる。


「ごめんなさい…私…」リリィはまだ震えながらも、自分を取り戻そうとしていた。その時、セレフィナが近づき、彼女の肩越しに静かに言った。「気にするな。無事で良かった。」


セレフィナは無表情のままサキュバスたちを見下ろす。その存在感は圧倒的で、もはやサキュバスたちに抵抗する力は残されていなかった。彼女たちは力を失い、音もなく消え去っていく。


「この世界の幻術としては、それなりに手が込んでいたな。」セレフィナが小さく呟き、手を振って魔力を収める。「だが、我に通用するとでも思ったのか。」


グレンとリリィはその背中を見つめ、彼女の強大な力に改めて畏怖と感謝の念を抱いた。セレフィナは振り返り、次の扉に向けて静かに歩き出した。


「ふむ、次の試練に行くとするか。」彼女の言葉には、どんな困難も乗り越えるという強い意志が宿っていた。

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