第53話 威を纏うアイ

***



「どうして……あなたがここにいるの?」


 黒衣を纏った偽アカルミハエイは、不思議そうに首を傾げて、その場に現れたコウに問う。


 そんな彼女を見て、幸はすぐに気づいた。


 ――この偽物はレイエンか。


 どんなに『ソ』を偽装しても、幸の目にはレイエンにしか見えず。


 幸はレイエンの言葉を無視して、頭を掻きながら周囲を見回した。


 つい先日、エゼルノワーズと対面するためにやってきたそこは、見る影もなく。凄惨な現場に変わっていた。


 屍の山が広がる壮絶な光景。


 だがアカルミハエイの炎を纏っているせいか、コウに恐怖などはなく――血の臭いを前にしても、やけに気分が良かった。


「……コウくん? 本物なの?」


 おそるおそる声をかけたエリシナを、幸は夢見心地に見返す。


「……エリシナさん」


 幸が近づくと、魔性レイエンがエリシナから慌てて離れた。


 ぼろぼろの老師は、幸を間近にして、きつく眉間を寄せる。


「コウくん、『それ』は一体どうしたの?」


「俺……何か変ですか?」


「あなたは……自分がどんな状態なのかわかっていないの?」


 エリシナに怪訝な顔で問われて、幸は自分の両手を見つめる。


 幸の目に映るのは、いつもと変わらない自分。


 ただいつもと違うのは、やけに周囲の『ソ』がハッキリと見えることだ。


 今までは見えなかった魔術の『ソ』さえ、コウの目には色濃く映っている。


 まるで色を振りまいているような、鮮やかさで――


「俺、そんなに変ですか……?」


 幸がぼんやりとした顔でエリシナに返すと、蒼を纏ったアカルミハエイが幸の首に絡みついた。


 自分のものだと言わんばかりにしがみつくアカルミハエイを見て、エリシナは口をへの字に曲げる。


「……主様はどうしたの?」


 幸がアカルミハエイを猫のように撫でていると―――背中から震える声が聞こえた。


 幸はゆっくりと振り返る。


「……君の主人? ……ああ、ライズのことか……」


 幸はおぼろげな頭で記憶を辿る。


 つい今しがた、ライズの裏切りによって追い詰められた幸だが。


 暴走したアカルミハエイに『ソ』を喰われ、一時は瀕死の状態に陥った。


 だが幸は、アイがハエになったことを思いだし――咄嗟に新しい名前をアカルミハエイに与えたことで危機を脱した。


 幸に出来ることなど、名を上書きすることくらいなのだから。


「……ライズなら……運が良ければ生きているかもしれない。あいつは――」


「どうしてアカルミハエイが――ライズ様ではなく、あなたと共にいるのよ!」


 憔悴のあまり、レイエンは主の名ライズを自ら暴露した。


 よほど混乱していたのだろう。


「ライズはアカルミハエイを操って、クーデターを起こすつもりだったんだな?」


 幸が周囲に聞こえるように確認すれば、広間の外にいた人間が少しだけ歩み寄る音がした。


 レイエンは視線を泳がせながら口を噤む。


 幸がこの場に現れたことは、間違いなくレイエンにとって計算外だった。

 

 ライズは王に恨みがあると言っていた。


 おそらく彼は、幸とエゼルノワーズを殺すつもりだったに違いない。ライズが青い葉を見て、幸を王と勘違いしているのはわかった。


 事情を知らないエリシナやゲインが、幸とレイエンを困惑気味に見比べる中、幸はフッと息を吐くように笑う。


「ライズはアカルミハエイに『ソ』を食わせて操ろうとしたが――それを俺が上書きしてやったんだよ」


「……そんなこと、できるわけが……」


 レイエンの瞳が揺れた。


 その顔にはもう、あの陰気な笑みはない。


 彼女の恐れを察して――さらに追い詰めたい気分になった幸は、軽く笑みを浮かべて言った。


「だったら、お前も試してみるか?」


「……ひっ……」


「ダメよ、コウくん!」


 魔性に対して残虐さをちらつかせる幸を、エリシナが強い口調で止めた。


 エリシナは咎めるような目を幸に向ける。


「その子を殺してしまったら、どこの国の間者なのかもわからなくなってしまうわ。だから殺してはダメ」


「間者? ……だったら、俺がレイエンあいつの『ソ』から全てを読みこめばいいんですよね?」


「……コウくん……あなた、何をする気? 待ちなさい――」


 エリシナを無視して、幸はアカルミハエイを使役する。


「あいつから『ソ』を盗め――亜王アオを宿す、アイ」


 ライズの『ソ』を上書きし、魔術をねじ伏せて与えた新しい名前アイ


 幸がそれを呼ぶと、『焔の書』――アイは、レイエンと瞬く間に距離を詰める。

 

「――ひぃ」


 恐怖に染まった顔をにっこりと見おろしたアイは、レイエンの頭をわし掴みにして、『ソ』を奪った。


 レイエンは必死で抵抗するもの――アイは決して離さず。


 そんな風に足掻くレイエンを見おろしながら、アイは微笑み、そしてレイエンの『ソ』を強引に吸収し続ける。


「――うぁあああああ」


「アハハ! 全部私に食べられて死んじゃえ!」


 アイに『ソ』を吸収されたレイエンは、見る間にアカルミハエイのカタチを保てなくなり、元の姿に戻る。


 だがレイエンに変わった後も、アイの手は彼女に食らいついたまま――


 次第に『ソ』を吸い尽くされたレイエンは、泡を吹き、両腕を落とした。


 レイエンの体が見る間に細く細くしぼんでいった。


「――やめて! コウくん! お願いだから、アカルミハエイを止めて!」


「……どうしてですか?」

 

 狼狽えるエリシナを幸は不思議な面持ちで見ていた。


 エリシナの言う意味が、よくわからなかった。


 そんな幸の反応を見て――舌打ちしたエリシナは、動くだけでもやっとの体で、レイエンに駆け寄った。


 そして『逆さの名』を投げつけては、アイがひるんだ拍子に、レイエンを攫った。


「良かった……まだ、生きているようね」


 レイエンを床に寝かせたエリシナは、彼女の『ソ』をひと通り確認した後、ほっと胸をなでおろす。



「……どうして邪魔をするの?」



 アイの不機嫌な声に、エリシナはビクリと肩を揺らす。


 エリシナが振り返った先で、アイは悔しげな顔をしていた。その顔はまるで子供のようだが、纏う『ソ』は凶器のように冷たく。


 固唾をのむエリシナに、アイがじわりじわりと歩み寄る。


「……アカルミハエイ?」


「違うもん、アイだもん」


「……それはコウがつけたの?」


「そうだよ。あたしはアイだよ。王の代わりに断罪する役目があるの」


「断罪なら……もう十分でしょう?」


「ううん。だってそいつ生きてるよ?」


「でも、この子から聞きたいことがたくさんあるのよ。だから殺してはダメ」


「そんなの、あたしがぜーんぶ吸い取っちゃえばいいもん――どうして邪魔をするの? エリシナは、コウの敵……?」


「違うわ……私はいつだってコウくんの味方よ」


「でも、エリシナは邪魔した。だからエリシナも敵だ!」


 豹変したアイが、エリシナの頭を鷲掴みにする。


「……いっ……ア……イ……やめ……」


「――バッカヤロウ! コウッ!」


 アイに『ソ』を吸収され、エリシナが固まる中――ゲインが地響きのような叫びを上げた。


 鼓膜を打ちつけた怒声。


 幸は弾けるようにゲインを見る。


 酔いから冷めたような気分だった。


 我に返った幸は、アイとエリシナのやりとりを見るなり、慌てて名を呼んだ。


「違う! お前は――相分あいわかつ人、アイだ!」

 

 幸が初めてアカルミハエイにつけた名前。


 それを思い出して呼べば、アイから蒼い『ソ』が消えた。

 

 自分を取り戻したアイは――ぼんやりした顔で周囲を見回した後、大きな欠伸をする。


「……もう、コウったら、変なことさせないでよ。エリシナの『ソ』なんて気持ち悪いったらないし」


 いつもの調子に戻ったアイを見て、脱力してその場に座りこむエリシナ。


 遠くでゲインも安堵する中――


 幸だけは一人、震えが止まらなかった。

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