第48話 今の君は知らない



「ライズ、何バカなこと――」


 青ざめる幸を見て、ライズの顔は嬉しげに歪んでいた。


 復讐心に取り憑かれた少年を前に、幸はじりじりと後ずさる。


 ライズは病的なまでに気持ちを昂ぶらせて言った。


「バカなのはお前だろう? グインハルム王。俺に古代文字を教えるなんてな。これでお前の力も俺のものだ!」


 少しずつ後退していた幸の背中が、窓に辿りつく。


 逃げ場を失くした幸を見て、ライズは『焔の書』をおもむろに平く。


「詠唱は篝火かがりび、『ソ』を惑わす『ソ』を纏うなら色はさず――『ソ』を壊すはえ無し、リビンレストの怒り――」


 ――アカルミハエイ――


 ライズが詠唱を終えた時、魔術書は色の無い炎で燃え尽きる。


 代わりに現れたのは、背中に黒い羽をつけたアカルミハエイだった。


 人間の女性と変わらぬ姿で現れた彼女は――幸のよく知る顔でありながら、冷たい眼差しで幸を見据えた。

 

 きつく吊り上った眦は、まるでライズの心を映しているようだ。



 ――――ごめん、コウ。



 ふと幸の耳に、アカルミハエイの声が聞こえたような気がした。

 

 だが耳を掠めた声を不思議に思う暇もなく。目前では戦闘態勢に入ったアカルミハエイが炎の渦を纏っていた。


 やけどしそうな熱風に気圧されて、幸は頭をかばう。


 チリチリと何かが焼けるような音がした。


 以前、幸が呼びだした時とは比べものにならない熱量だ。


「――クソッ!」


 正気を失ったライズに何を言っても無駄だと悟った幸は、窓を押し上げて、転がるようにして外に出た。


 次の瞬間、窓が火を吹いて破裂する。


 間一髪で難を逃れた幸は、そのまま城の外周を走り出す――


「どうしろって言うんだよ!」


 幸は逃げ道を探すもの、高い外壁で固められた城には道などなく。城に沿って走るしかなかった。


 隣の窓には、幸と並んで飛ぶアカルミハエイの姿がある。


 嫌な予感がして身を伏せれば、近くの壁が吹き飛んだ。


 先回りして壁を突き破ったアカルミハエイが、幸の前に立つ。


「……なんでもいいから、魔術書持ってくるんだった」

 

 幸が嘆く中、アカルミハエイは不敵に笑う。


 アカルミハエイを渦巻く炎には相変わらず色がない。


 幸のように『ソ』が見える人間でなければ認識できないだろう。


 城内には遠巻きに見守る野次馬の姿があるもの、何が起こっているのかわからないらしい。


 武装した兵もいるが、ライズが何かを説明しており――近づいては来なかった。


 自分に都合の良いことを説明したに違いない。


 幸は遠くのライズを睨みつけたあと、再びアカルミハエイに視線を戻す。


 『アイ』に良く似た少女は、胸に手を置いて祈るように何かを呟いていた。


 すると、アカルミハエイを包み込んでいた透明な炎が、津波となって幸に襲いかかる。


 密度の濃い炎に覆われて、幸は水中に落とされるような錯覚に陥る。


 ――――息が出来なかった。


 幸は炎の中でもがき、助けを乞うように手を上げる。だが炎の深海は、幸を決して離しはしない。


(アカルミハエイを大事にしなかったから……バチがあたったのか?)


 炎におぼれて意識が朦朧とする幸の脳裏に、アカルミハエイの小さな姿が過ぎる。


 自分の周りをいつも飛び回っていたアカルミハエイ。


 目障りだとばかり思っていたが。面倒臭いことはあっても――心底嫌だと思ったことはないことに気付く。


(――ああ……裏切られるって……こんな感じか?)


 幸の胸に、感じたことのない棘のような痛みを感じていた。


 アカルミハエイなら、いつでも味方になってくれると、どこかで思っていたのかもしれない。


 呼びだしたのは偶然でも、慕ってくれるのは――正直、嬉しかった。

 

 幸は今にも閉じそうな目をアカルミハエイに向ける。


 アカルミハエイのそばにはライズがいて、遠くで話し声が聞こえた。


「アカルミハエイ。まだだ。それじゃ駄目なんだ。エゼルノワーズに返り討ちに合ってしまう――だから、俺のありったけの『ソ』をやるから、二人のグインハルム王を殺してくれ」


 ライズは言って、アカルミハエイに口づける。


 途端、ライズの体から暗雲のような『ソ』の塊が、甘い物に群がる蟻のように、アカルミハエイに移動していった。


 アカルミハエイが禍々まがまがしい『ソ』を吸い続けると、いつしかライズは力を失くして、その場に倒れる。


 だがアカルミハエイはまだ物足りないようで、ライズを持ち上げては、大きく口を開く――


「――やめろッ!」


 咄嗟に声を上げていた。


 まだ自分にそんな力が残っているとは思わなかった。

 

 高熱でうなされている時のような、夢か現実かもわからないような状況でも――それだけは、アカルミハエイにさせてはいけないような気がした。


「……俺を殺すんだろ? こっち来いよ」


(何を言ってるんだ、俺は――)


 ライズを助けたわけではない。


 アカルミハエイがライズを食べる姿など見たら、きっと今まで通り接することはできなくなるだろう。


 それがアカルミハエイの意志であるにしろ、ないにしろ。幸はアカルミハエイには、自分の『ソ』以外を食べさせたくはない――そう思ってしまった。

 

(オレには魔術を書き換える能力がある――だったら)


「アイ……早く戻れ。お前はアイだろ?」


 幸はその場にうずくまった状態で、アカルミハエイを見上げる。


 アカルミハエイはそんな幸を見て、捕食者じみた目を光らせた。

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