第30話 言ってはいけない

「遅いわよ、コウくん」


「遅いわよー、コウ」


 東京ドームを三段積みにしたような巨城。その下層の端にある、宮廷書院のドアを開けば、片眼鏡の女性と、小鳥サイズの少女が待ち構えていた。


 エリシナの真似をして空気エア眼鏡を持ち上げるアカルミハエイをちらりと見て、幸は書院のドアを閉める。


「おはようございます、エリシナさん。――なんでアカルミハエイもいるんだ?」


「へへー、お手伝いしてんの」


「コウくん、その名をあまり口にしてはダメよ。一応魔術なんだから」


 客の来ないカウンターで、エリシナは老朽化した書物を樹液のりで補修しながら言った。


 幸は手縫いで作った黒いエプロンを素早く装備し、布を口元に巻きつける。


「あだ名ならいいんですか?」


「そうねぇ。略称であれば、魔術が発動することもないわね」


「それは名案だわ! コウ、名前つけて! つけて!」


「じゃあ、『ハエ』でいいか?」


「……可愛くない」


「アカルミハエイを連想しない名前なら、なんだっていいのよ」


「えー、『ハエ』はヤだぁ」


「それにしてもコウくん、その格好……今日も掃除するつもり?」


「当然ですよ。それとも、掃除は不要だと思いますか?」


「……そ、そんなこと、思ってないわよ! 掃除が終わるまで、本の補修をしているわ」


「ねえ、ちょっと! 『ハエ』で決まりなの!?」


 アカルミハエイが不満げな顔をする中、エリシナは書物の補修を再開し、幸は手作りのハタキを手に書院内を動き回る。


 書院に来て数日は、エリシナが掃除中の幸にちょっかいを出してくることもあったが、掃除の大切さについて三時間ほど説いてからは理解してもらえたらしい。それからは邪魔が入ることもなくなった。


 そして気が済むまで掃除した幸は、エプロンをつけたまま、書を片手にカウンターの前であぐらをかく。


「準備はいいかしら?」


「魔術が入ってない本ってこれですか?」


「そうね。タイトルもないし、それなら大丈夫」


 幸は『死んだ魔術』と呼ばれる、真っ白な本をノートがわりに広げると、エリシナがカウンターに黒板のような板を設置した。


 本当なら、王城内の学校に通わせてもらうことも出来るらしいのだが、この世界で子供以下の知識しかない幸は、エリシナから魔術についてイチから教わっているのである。


「『ソ』については――深くは学ばなくても……あなたは見えているから、言う必要もないんだけど。一応簡単に説明するわね」


「はい」


「はーい」


 幸が黒炭の塊を手に頷くと、アカルミハエイも幸の隣で三角に座る。


 エリシナは黒板に『ソ』『イン』『ノゼン』と書きだした。


「あなたこれ、読める?」


「はい。『ソ』、『イン』、『ノゼン』ですよね?」


「今回は慣れているウェルガルの言葉で説明するわね。グインハルムの言葉は、いまだに勉強中なのよ」


「お願いします」


「『ハエ』以外でお願いしまーす」


 アカルミハエイは無視されても気にせず、楽しそうに体を揺らす。


 エリシナは咳払いをして、顔つきを変える。


「『ソ』には二つの意味があって、有機体の一番小さな単位を『ソ』と言うのだけれど。これはもう、何度も言っているから覚えているわよね?」


「はい」


「今日はもうひとつの『ソ』を教えるわ」


「他にも『ソ』があるんですか?」


「ええ。生物が活動することで発する、エネルギーの残りかすも『ソ』と言うの。人間は『ソ』の集合体であって、他の栄養を吸収して体を活性化させているけど――」


「『集合体』と、『活性化』っと……」


「今は書かないで聞いていて」


「あ、すみません」


「――で、体内で活性化させたエネルギーの残骸を、私達は常に体から吐き出していて、それも『ソ』と言うの」


「質問いいですか?」


「どうぞ」


「俺が見える『ソ』は、エネルギーなんですか? それともエネルギーの残骸のほうですか?」


「あなたが見ているのは――どちらもよ。たとえば、ゲインの強烈な存在感は、エネルギーの残骸であって、あの人の視線や声から出ているエネルギーの波動も『ソ』なの」


「声にも『ソ』があるんですか?」


「コウくんは……魔術をなんだと思っているの?」


「魔術? ……よく、わかりません」


「言葉には、複数の文字が混ざっていて、文字の複合体を意味インというのだけれど。言葉の意味インと、声がもつをあわせて、新しい力に変える。これが――――魔術ノゼン


「……声はなんとなくわかる気がします……でも視線って……」


「コウくん、あなたは、人の顔色を見て他人の行動を読み取っていたでしょう?」


「はい」


「それは意思というよ。とくに視線は、意思を強く発しているみたい。でも慣れれば、全身から出ていることがわかるわ」


「意思の力……そんなもの、カタチとして見えるものなんですか?」


「そうよ。魔術にも意思の『ソ』が必要だけどね」


「ああ、つまんなーい! そんなの知らなくたって、魔術なんて使えるしー」


「大事な授業をしているから、あなたは大人しくしていなさい」


「そうだぞ――――『ハエ』。五月蠅うるさい」


 幸はエリシナとともにアカルミハエイを睨みつける。


 そしてエリシナはさらに話を続けようとする――が、


 ふいに、アカルミハエイが無表情で立ち上がった。


「どうしたんだ、『ハエ』?」


 幸が重ねて呼ぶと、アカルミハエイの小さな体が震えはじめる。

 

「……ハ……エ……」


「幸くん、その子から離れなさい」


「――――は?」

  

 エリシナに引き寄せられて、幸はノートを落として立ち上がる。


 すると、隣にいた小さな少女が、風船のように膨らんだかと思えば――そのカタチが、まるで粘土で遊ぶように、ぐにゃりと変化し始める。


 幸とエリシナが愕然とする中――少女はカタチを変えながら大きくなり――――。

 

 小さな女の子でしかなかったアカルミハエイは、いつしか幸よりも大きな『ハエ』の姿に変わっていた。







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