第8話 今はただ逃げたい
向かい風が頬を撫でたとき――頭が消えた――そう錯覚した。
(大丈夫、まだ頭はある)
頬を叩いて確認していると、時間差で地面が揺れた。
何気なく振り返ってみれば――背中にあった大木の上部が、なくなっていた。
「カンの良い子だね」
女は感心したように言った。
だが考える間もなく、幸の眼前に女の顔が迫る。
意識をそらすべきではなかった。
女が大剣を持ち上げると、陽光で刃が鋭さを増す。鏡のようなそれには、屍のように暗い顔が映る。
「――――ひ」
死を暗示させる鏡を見て、幸はようやく逃亡を試みるもの、情けなくも足を滑らせ――自分で背中から倒れた。
木の葉が舞う頭上を大振りの大剣が過ぎる。
切り替えの早い女は、振った剣を回転させたあと、その剣先を地面の幸めがけて落とした。
幸は女の視線を見ながら、素早く体を転がせる。
――――次の瞬間、幸の残像に女の剣が突き立つ。
幸は転がるだけ転がると、勢いをつけて立ち上がる。
そして再び顔をあげれば、女が大剣を土から引き抜いていた。
(俺……攻撃を……かわしてる……?)
幸は昔から、人の顔色を読むのが得意だった。
相手の期待に応えて、決して怒られないように先手を打つ。そんな風に、先を見越して動く幸を、両親は喜ぶ反面、不気味に思うこともあったらしい。
相手の考えていることを百パーセント理解できるわけではないもの、雰囲気という曖昧な分析から、相手の欲求を感じ取れる時がある。
それを幸は一般的な処世術だと思っていた。だがここまではっきりと相手の行動を予測出来ているなら、普通ではないのだろう。
超常的な能力とまでは思わないもの、今の幸にとって必要な力には違いない。
攻撃をかわした幸を不思議に思ったのは、相手も同じらしい。
だが、女はなんとも複雑な顔をしていた。
殺気は薄れ、戸惑うような感情が漏れ出している。
女は戦意を失くしたまま――無防備な仕草で、その場に落ちていた木の葉を
青い色の葉だった。
桜色の木々の中で、まるで幸のような
それを珍しいと思ったのか、女は青い葉に釘づけだ。
「…………あんたは『――』なのか?」
女はぽつりと何かを言った。
先ほどまでの猛々しさが嘘のように弱った顔をしている。よほど何か大切なものでも扱うかのように、青い葉を優しく撫でている。
――――今だ。
女の感傷など幸にはどうでも良かった。
足が動くようになった今、逃げることが先決であり。
相手の隙に乗じて、幸はなりふり構わず走り出す。
何があるともわからない世界で、何度も落ち葉に足をとられながらも全力で風を切った。
これほど真面目に走ったのは、初めてだった。
競争の場があったとしても、幸は他人に合わせて動いていただけにすぎず、他人を負かすことに執着したことはなかった。
だが今は、走るしかなかった。
わき目も振らずに走れば、心臓が激しく動き、吐きそうになる。
だが痛みよりも、恐怖が勝った。喉が渇いても気にはならない。全身は重いが、頭の中は空っぽだ。
女は追いかけて来なかった。
どうしてか相当な動揺ぶりだった。どうせなら、このまま諦めてほしいと切に願う。
周囲が薄暗くなり、空気がひんやりとし始めたところで、幸は力尽きて倒れ込む。けっこうな時間走ったが、似たような景色にうんざりしていた。
しかし、さすがに異世界が森だけというわけでもないらしく。幸が倒れ込んだ土の先には、
「……はぁ……」
疾走の余韻は、簡単には引かなかった。
体が重すぎて起きあがることが出来ず、幸は仰向けのまま初めての町を眺める。
プロバンス風の建物が密集していた。西洋造りに近いが、幸の知る住宅地ほど綺麗なものではなかった。
老朽化の激しい建物は、壁も屋根もひび割れている。
廃墟じみた集落に、人間の気配はなかった。
幸は息を整えた後、静かに立ち上がる。
自分を襲った女の『殺し合い』という言葉が、頭で引っかかっていた。
もし仮に『殺し合い』が行われているのだとしたら、目立つことは極力避けたい。
そして幸は、木陰に隠れながら町の様子をうかがう。――が、いつまで経っても人が通る様子もなく。
かといって町に飛び込む勇気はなかった。
もし
もしくは、さきほどの女に町ごと滅ぼされたかと思うと、背筋に冷たいものが走った。
「――――君」
息を潜めて町を見守っていたところ、突然声をかけられて、幸は思わず叫びそうになる。
どうにか悲鳴を飲みこんだ幸は、素早く身を
相手はあの女ではなかったもの、やはり武装した人間だった。
重い鎧を着た男は――今までとは違い、幸と同じくらいの体格だ。むしろ、幸よりも華奢にすら見える。
「君も参加者だね?」
頼りない風貌の男は、幸と目が合うなり不気味なほど穏やかに笑った。
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