第40話

《side 黒曜美咲》


 病室の窓から差し込む柔らかな陽光が、白いカーテンを透かして淡い光を部屋に広げている。


 こんなにも穏やかな空間にいながら、私の体は限界を迎えようとしていた。


 息を吸うたびに胸が痛み、手足には力が入らない。それでも、私は幸せだった。


(こんなことが私の人生に起きていいの……?)


 静かな部屋の中で、頭の中をその考えがぐるぐると巡る。


 智君と出会い、彼と結婚の誓いを交わした。その事実が、今でも信じられないくらいに私の心を満たしてくれている。


(未来を失った私が、こんな風に幸せを感じられるなんて思わなかった)


 たとえ残りわずかな命でも、私には彼がいる。それがどれほど贅沢なことか、私は痛いほどわかっている。


 だけど、そんな幸せに包まれれば包まれるほど、ふとした瞬間に押し寄せてくる別の感情が私を追い詰めた。


「智君……」


 ベッドの脇に置かれた椅子に座っている彼の姿を見つめながら、私は名前を呼ぶ。


 智君は、私に気づいて顔を上げる。少し疲れた顔をしているのがわかる。きっと私の看病で、ずっと無理をしているのだろう。


「どうしたの、美咲」


 彼の優しい声を聞くだけで、涙がこみ上げてくる。


(どうして、あなたみたいな人が私にこんなにも尽くしてくれるの?)


 その思いが胸の中で膨らんで、言葉にならず喉に引っかかる。


 彼は私の側にいてくれる。体調が悪化する度に私を支え、励まし、笑わせようと努力してくれた。


 でも、私はそんな彼に応えられることができない。


「智君……どうして、そこまで私に尽くすの?」


 思わず口から零れ落ちた言葉に、彼は少しだけ驚いたように目を見開いた。


「どうしてって……好きだからですよ。僕は美咲が好きだから、当たり前じゃな行かな」


 その言葉を聞いて、私は胸が締め付けられるような痛みを感じた。彼の純粋な気持ちが嬉しい反面、その優しさが私の心を乱す。


「……でも、私はもうすぐ死ぬのよ。こんな私のために、智君が時間を無駄にするなんて……」


 そう言うと、彼は眉をひそめて、私の手をそっと握りしめた。


 死が近づくほどに、こんなことを言いたいわけじゃないのに、口から弱音が漏れてしまう。


「無駄だなんて思いません。僕は美咲と過ごす時間が、何よりも大切なんです。それに君が僕だけ、こうやって弱音を吐いてくれるのも、僕だけだから」

「……でも……でも……!」


 その瞬間、私は堰を切ったように泣き出してしまった。ずっと抑えていた感情が一気に溢れ出してくる。いや、最近はこんな日ばかりだ。


「智君が側にいてくれるのは、本当に嬉しい……でも、その優しさが……私には辛いの! どうして私なんかを……!」


 涙が止まらない。彼に当たるように言葉をぶつけてしまう自分が情けなくて、悲しくて、どうしようもなかった。


 でも、彼はそんな私の言葉を、ただ静かに受け止めてくれる。


「……美咲が辛いのはわかっています。でも、それを僕にぶつけてくれていいんです。全部、受け止めますから」


 その一言で、私の中にあった怒りと悲しみが、一瞬で溶けていくような気がした。


「……智君……」


 私は彼に何も返せない。ただ、震える手で彼の手を握り返すことしかできなかった。


 ♢


 時間がどれだけ経ったのか、よくわからない。


 部屋の中は薄暗くなり、時計の秒針だけが静かに響いている。


 体の感覚はもうほとんどなくなっていた。まるで、世界が遠ざかっていくような感覚。


 でも、そんな中でも、私の視界には智君の姿がはっきりと映っていた。


「智君……ありがとう」


 最後の力を振り絞って、その言葉を口にする。


「僕がありがとうです、美咲。あの時、僕を受け止めてくれてありがとう。こうして一緒にいられたことが……本当に幸せです。何一つ後悔はありません。僕と一緒に生きてくれると誓ってくれたこと、本当に嬉しかったです。愛しています」


 彼の言葉が胸に響く。


(こんなにも愛されて、私は幸せだ……)


 最後の瞬間まで、彼のことを考えられる。それが私の人生で最も大きな喜びだった。


「智君……本当に……ありがとう……」


 彼の手を握りしめながら、ゆっくりと目を閉じる。


「美咲、美咲……!」


 彼の声が遠ざかっていく。それでも、私はその声に包まれていた。


(智君……私は幸せよ……)


「愛しているわ。あなた」


 その思いを胸に抱きながら、私は静かに、彼の中に永遠を残していった。

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