第39話

 晴れた日の午前中、僕たちはこじんまりとした教会にいた。


 参列者は白井未来と藤原由香の二人だけ。


 式の規模も、演出も、美咲先輩の「シンプルでいい」という言葉に従ったものだった。


 でも、その瞬間、この場所には必要なものが全て揃っていた。


 僕の目の前には、美咲先輩がいた。


 純白のウェディングドレスを身に纏った彼女は、これまで見たどんな美咲先輩とも違っていた。


 肩を覆う柔らかなレースと長いトレーンが、天使の羽根のように広がっている。


 どれだけ見つめても足りない。今までのどんな思い出よりも、彼女の姿が心に深く刻まれていく。


「……どうかしら?」


 美咲先輩が照れくさそうに微笑む。その声に僕は我に返った。


「すごく……綺麗です。本当に綺麗です」


 自分でも馬鹿みたいだと思うほど繰り返してしまう。それほどまでに、彼女の姿は言葉にならなかった。


 未来さんと由香は後ろで微笑みながら拍手をしている。未来さんは涙を浮かべていて、由香も何か言いたそうにしていたけれど、今は何も言わないでくれていた。


 簡単な式を執り行う牧師さんが、静かに誓いの言葉を述べ始めた。


「二人の愛が永遠に続きますように……誓いの儀式に移りましょう」


 美咲先輩が僕に小さな紙を渡した。それは、僕たちが共に考えた誓約書だった。


「結婚届は……やっぱり嫌なのよね」


 彼女がポツリと言う。


 美咲先輩は、最初から結婚届を書くことを拒んでいた。


「だって、私がいなくなった後の手続きとか、智君に負担をかけたくないし……形に残さない方が、智君も新しい道を歩きやすいでしょ?」


 そんなことは僕にはどうでもよかった。たとえ彼女がいなくなったとしても、彼女との時間は僕の全てだ。だけど、その気持ちを押し付けることが彼女を苦しめるのなら、僕はそれに従うと決めていた。


 だから、結婚届ではなく、僕たちだけの誓約書を作ることにした。


 未来さんと由香の証人の下、二人でその誓約を交わす。


 牧師さんが、誓約書の内容を読み上げる。


「『佐藤智、黒曜美咲。二人は互いの人生を支え合い、共に笑い、共に涙し、共に未来を見据えることを誓います。この誓約は法的な拘束力を持たないものの、二人の心の絆を示すものです』」


 それを聞きながら、美咲先輩が優しく微笑む。


「……智君、これでいいの?」

「はい。僕にとっては十分です。形よりも、美咲先輩との時間が大切だから」


 僕の言葉に、彼女は静かに頷いた。


 そして、誓約書にお互いの名前を書き込む。


 ペンを持つ彼女の手が少しだけ震えているのがわかった。僕はそっとその手に自分の手を添えた。


「大丈夫ですよ、先輩」


 彼女は一瞬目を閉じ、深呼吸をしてから「ありがとう」と小さく呟いた。


 誓約書に名前を書き終えると、未来さんと由香もそれぞれ証人として名前を記してくれる。


「それでは、二人の誓いが今ここに結ばれました」


 牧師さんが宣言すると、小さな拍手が教会の中に響いた。


 僕はゆっくりと美咲先輩に向き直る。


「美咲先輩……これからも、ずっと一緒にいましょう」

「ええ……智君」


 彼女の瞳が潤んでいるのがわかる。僕の胸の奥にも熱いものがこみ上げてきた。


「それでは、新郎新婦のキスをどうぞ」


 牧師さんが促すと、未来さんと由香が後ろで「キャー!」と小さく声を上げた。僕たちは顔を見合わせ、恥ずかしそうに笑う。


「……どうぞ、智君」


 美咲先輩が目を閉じた。その姿を見た瞬間、僕の中に迷いは一切なくなった。


 彼女の顔にそっと近づき、柔らかく唇を重ねる。


 その瞬間、時間が止まったように感じた。


 彼女の体温、香り、全てが僕の中に染み込んでいくようだった。


 キスを終えると、彼女が小さく笑った。


「ありがとう、智君……私、すごく幸せよ」

「僕もです、美咲先輩」


 その言葉を交わした瞬間、彼女が涙を流していることに気づいた。


「泣かないでください。今日は笑顔の日なんですから」


 そう言うと、彼女は涙を拭いながら「うん」と小さく頷いた。


 これが僕たちの特別な誓いの瞬間だった。


 結婚届はない。


 でも、僕たちの心には確かにこの誓いが刻まれた。


 未来さんと由香が駆け寄ってきて、「おめでとうございます!」と祝福の言葉をかけてくれる。


 僕たちはみんなで笑い合いながら、教会を後にした。


 短い時間かもしれない。それでも、僕たちは確かに一つになれた。


 僕の隣には、ウェディングドレス姿の美咲先輩が微笑んでいた。

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