第38話

 しばしの静寂が流れた。


 あの夏とは違う。


 いや、むしろあの時以上の張り詰めた空気が二人の間に流れているように感じられた。


「いいよ、見せてあげる。でも、見たらどうするの?」


 美咲先輩は、あの時と同じ言葉を口にした。


 俺が本気だと答えた。


 前回の俺は冗談だと誤魔化そうとした。


 だけど、今度はその美咲先輩から発せられる冷静さを受け止める。


 美咲先輩が発した声には、きっと抑えきれない感情がこもっているはずだ。それが何なのか俺にはずっとわからなかった。


「それで、私の何が変わるの? 君の何かが変わるの?」

「変わります。今日で二人の関係が」


 彼女の声が淡々としている声が前は怖かった。


 俺の何かを試しているように感じて、圧倒された。俺をじっと美咲先輩を見つめる。


 俺の視線は彼女の指先に釘付けになる。


 上着を脱いだ美咲先輩はブラウスを着ていた。


 第一ボタン、第二ボタン、そして第三ボタンがゆっくりと外されていくのを見つめることしかできなかった。


 唾を飲み込む音が耳に届いて我に返る。


「美咲先輩。先輩は未来で大切なものを失ったんですよね?」

「ええ……私は未来から来たの。未来から来て、今という時間をおまけで生きている」

「おまけですか……もしも、僕も未来から来たって言ったら信じてくれますか?」


 先輩がブラウスを脱ぎ捨て、キャミソールの肩紐を外した。


 その肌は真っ白で、細くて、綺麗ではあるが、とても細かった。


「信じるわ。あなたが未来から来て、私に声をかけた。それで? 何を変えてくれるの?」


 僕はゆっくりと美咲先輩に近づいていく。


 スカートも脱いで、下着だけになった美咲先輩は震えていた。


 そんな美咲先輩を抱きしめる。


「あなたを救うことは僕にはできません」

「ええ、知っているわ。あなたの涙は温かいのね」


 自分でも驚いた。いつの間にか涙が流れていた。熱い雫が先輩の細くて白い肌に落ちていく。


「すみません、美咲先輩。僕は未来から来てません。だから、美咲先輩がどんな状況なのかもわかりません。そして、美咲先輩が未来から来たという意味も……あなたの未来がないとしか考えられません」


 本当は、美咲先輩は僕にそのことを言いたくなかったと思う。


 残酷だ。


 僕は残酷な言葉を口にしている。


「……そうよ。私の時間は、未来はもうないの。だから私に関わっちゃダメ」

「嫌です!」

「えっ?」

「たとえ、美咲先輩の時間が残り少なくて、同じ時間を長く生きられなくても、僕に美咲先輩の残りの時間を全てください! あなたの側にいたいんです」


 自分でも我儘を言っているとわかっている。


 だけど、今自分がしたいことは美咲先輩の側にいたいと思うことだけだった。


「……智君、あなたはバカなの? 私は死ぬのよ。もうすぐいなくなるの。それに病気でどんどん綺麗じゃなくなる。どんどんしんどくて、辛くなる。あなたが求める綺麗な女性ではないのよ」

「そんなこと望んでいません!」

「えっ?」

「見た目も、態度も全部。受け止めます。これは我儘です。物凄く我儘だとわかっています。だけど、美咲先輩の最後の時間を僕が独占したいんです」


 ずっと探して、白井未来さんや美咲先輩の態度を見れば、病気だとわかる。それも死んでしまうような大変な病なのだろう。


 だからなんだ? 彼女が死ぬから離れるのか? 彼女が離れて欲しいから消えるのか? そんなことで躊躇っている間に彼女はいなくなるかもしれないのに?


「嫌よ。私も智君に病で苦しむ姿を見られたくない」


 そうかもしれないと思った。


 だけど、本当にそうだろうか?


「綺麗なままの私だけを覚えていてほしい」


 彼女の言葉は本心なのかもしれない。


「すみません。その願いは聞きたくありません。しわくちゃのお婆ちゃんの美咲先輩でも、僕は愛したい。時間は短いかも知れない。それでも僕はあなたの一生を共に生きたい。僕があなたの最後のパートナーではダメですか? 好きや愛しているだけではありません。あなたの残り少ない一生を僕にください」


 抱きしめていた手を離して僕は美咲先輩に上着をかけて、膝を折る。


「結婚してくれませんか? 黒曜美咲さん」


 僕はお金に困っていない。仕事をしなくても会社に行かなくても、そんなことどうでもいい。


 人生で一番したいことをする。


 それを選ぶために、これまでの人生を生きてきたんだ。


「バカ! バカよ、智君!」


 僕の涙は止まったけど、美咲先輩からは大粒の涙が溢れていた。


「僕は今生きている人生で、美咲先輩といたいと思う以上のことはないんです。あなたの余命が残り五十年でも、たとえ明日死ぬとわかっていても、同じようにプロポーズをしたい。僕のプロポーズを受け取ってもらえますか?」


 美咲先輩はずっと泣き続けていた。


 僕は彼女に指輪を差し出したままの姿勢で止まったまま、彼女の言葉を待つ。


「……はい」


 小さな声だったけど、美咲先輩は返事をしてくれた。

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