第37話

 僕は一人で待ち続けていた。


 夜の大学は、昼間とはまるで違う雰囲気を纏っている。薄暗い廊下に響く足音が、不自然なほど大きく感じる。


 僕はサークルの部室でじっと座っていた。いつも美咲先輩が座っていた席に、窓の外を眺めるように待っている。


 静寂の中で、自分の心臓の音が聞こえるような気がする。


(美咲先輩……本当に来てくれるだろうか)


 何度も自問していた。


 未来さんを通じて伝えたメッセージ。「サークルの部室で待っています」という一言。無理を承知で送った伝言だった。


 日付も今日にしたのは意味がある。


 だけど、今になって不安が押し寄せてくる。美咲先輩が来てくれなければ、僕はどうしたらいいのだろう。


 いや、その時は潔く諦めるべきなんだろうな。


 出来れば、美咲先輩にもう一度会いたい。この胸の奥に溜まった感情はどこにも向けられない。


 ふと、ドアの向こうから軽い足音が聞こえた。扉が静かに開く。


「ふふ、こんな夜遅くに呼び出して、一体どういうつもりなのかしら?」


 美咲先輩だった。柔らかい笑顔を浮かべながら、軽やかに部室に入ってきた。その姿を見た瞬間、僕の胸がきゅっと締め付けられる。


「……来てくれてありがとうございます」


 僕が立ち上がり、そう言うと、美咲先輩は小さく笑った。


「何か今までと違うような気がしたから、来ないわけにはいかないでしょ?」


 彼女の言葉は軽やかだったけれど、その表情にはどこか疲れたような影が見えた。目の下のくまが、以前よりも濃くなっている気がする。


 決して体調は良くなっていない。


 多分、聞いても教えてはもらえない。重い病なのか、言いたくない病なのかわからない。だけど、ここでそれを聞くのは野暮なんだ。


「それでも、来てくれたことに感謝します。本当に……ありがとうございます」


 僕はもう一度深く頭を下げた。


「やめてよ、そんなに改まらないで。智君らしくないわよ」


 美咲先輩はいつもの調子で笑う。それでも、僕の心はその軽やかな言葉を素直に受け止められなかった。


「先輩……僕は、美咲先輩のことを何もわかっていませんでした」


 彼女の瞳が微かに揺れるのがわかった。


「未来さんから聞きました。教授の件も、由香のストーカーの件も、全部、美咲先輩が決着をつけてくれたんですね」

「それ以上言わなくていいわ」


 美咲先輩から笑顔が消える。僕の言葉を遮るように強い口調で止められた。声は穏やかだったけれど、その中に含まれる鋭さが僕を黙らせた。


「別に大したことじゃないわよ。ただ、ちょっと手を貸しただけ」

「そんな風に言わないでください! 先輩がいなければ、僕は自分の過ちに気づくこともできませんでした」

「だから、別にいいの」


 彼女は静かに笑った。その笑顔はいつもの飄々としたものと同じだったけれど、どこか遠い。僕の言葉を拒絶しているように感じられた。


「先輩は……どうして全部を一人で抱え込むんですか?」


 僕は絞り出すように問いかけた。


 彼女はしばらく黙って僕を見つめていた。静寂が流れる中、時計の秒針の音だけが耳に響く。


「……だって、私が背負うのが一番楽だから」


 静かな声だった。その一言に、僕は息を飲んだ。


「楽……?」

「そうよ。私が全部引き受ければ、他の誰も傷つかないで済むでしょ?」


 彼女の目はまっすぐ僕を見ていた。そこには迷いも後悔もないように見えた。


「でも、それじゃあ先輩が……」

「私のことはいいの。私は大した人間じゃないし、いなくなっても誰も困らないから」


 その言葉を聞いた瞬間、僕の胸が痛みで締め付けられる。


「そんなことない! 僕にとって、美咲先輩は――」

「智君、お願い」


 彼女が僕の言葉を遮った。目を伏せ、静かに首を振る。


「もういいの。これ以上は何も言わないで、今日はあなたにお別れをいうために来たの。もうこれ以上、私を追いかけないで欲しいの」


 僕は拳を握りしめた。どうして彼女は自分のことをそんな風に言えるのか。どうして僕の想いを受け止めてくれないのか。


 いや、受け止めてもらおうと思うのが烏滸がましいことはわかっている。


 だけど、それで、そんなにも苦しそうな顔をするのはやめてほしい。どれだけ苦しんでいるのかも、痛いほど伝わってきてしまう。


「……僕、先輩のことが好きです」


 気づけば口にしていた。美咲先輩が驚いたように顔を上げる。


「本気で、先輩のことが好きなんです」


 彼女はしばらく僕を見つめていた。そして、ほんの少しだけ微笑む。


「……ありがとう。でも、私はあなたの気持ちは答えられない」


 美咲先輩が立ち上がる。


「もう行くわね。さようなら、智君」


「美咲先輩! おっぱいを見せてくれませんか?」


 なぜ、このタイミングでそんなことを言ってしまうのか、自分を殴ってやりたい。


 だけど、何か空気を変えたくて、僕はその言葉を口にするしかできなかった。


「……そういう冗談は、やめた方がいいわよ。女の子に嫌われる」

「本気なら、見せてくれますか?」


 僕は生唾を飲み込んだ。


 それは興奮してではない。むしろ、緊張と拒絶。


 美咲先輩に嫌われると思ったからだ。


 スッと、美咲先輩の瞳が冷たくなった。


 怒っている。それが伝わるほどに、冷たい眼差し。


「本気かしら?」


 あの夏と同じ、言葉に僕は冗談だと前は誤魔化した。


「はい。本気です」


 だけど、今度は誤魔化さない。

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