エピローグ

《side 佐藤智》


 美咲との結婚生活は一ヶ月ほどだった。


 一緒に寝起きをして、食事を作ってもらって、映画を観て、買い物にいく。


「智君!」


 彼女が僕に笑いかけてくれる。


 それがどれほど幸福なことなのか、僕は痛いほどによくわかっている。



 病室の中は、無機質な音が支配している。点滴の液が滴り落ちる音、機械の単調な電子音。そんな中で、美咲の小さく浅い呼吸音だけが、僕を現実に引き戻していた。


 彼女は病室のベッドの上で、枯れるように静かに横たわっている。


 少し前から意識の混濁が続いて、もう僕のこともわからない。


 最後に彼女の笑顔を見たのはいつだっただろうか? 笑う際には僕をからかっていたのに。こんなにも短い時間で、人はこれほど変わってしまうのかと、何度も信じたくない現実に苛まれる。


 だけど、僕は彼女のそばにいる。

 

 それが彼女との約束だから。いや、僕自身が望んだことだから、だけど辛いことに変わりはない。彼女は体調が悪くなると機嫌が悪くなる。でも、決まって申し訳なさそうな顔をする。


 それがどうしようもなく愛おしい。


「智君……」


 か細い声で名前を呼ばれる。僕は急いで椅子から立ち上がり、ベッドのそばに膝をついた。彼女の手を握って側にいることを伝える。


「美咲、僕はここにいるよ」


 彼女はわずかに首を振る。その動きだけで精一杯なのが痛いほど伝わってくる。


「……智君……本当に……ありがとう……」


 彼女の声は息が漏れるような弱々しいものだった。それでも、僕を見つめるその瞳には、確かな感情が宿っている。


「僕こそ……ありがとう、美咲」


 彼女は、辛い時には強い言葉になり、気が弱くなるとお礼を伝えてくる。


 僕は彼女の手をそっと握る。その手は驚くほど冷たく、骨ばっていた。こんなに細い手で、彼女はどれほどのものを抱え込んできたのだろう。


 だから僕は彼女の全てを受け止めてあげたくて、少しでも彼女が暖かくなるように、両手で彼女を温める。


「智君、泣かないで……」


 涙を堪えていたつもりだった。でも、彼女の言葉で、目の奥から熱いものが込み上げてくる。


「美咲……僕は……」


 それ以上は何も言えなかった。ただ、彼女の手を握りしめることしかできない。


「智君……本当に……幸せだったわ……あなたと……過ごせて……」


 彼女の声がだんだんと小さくなる。僕は必死に耳を傾ける。彼女の一言一言を聞き漏らさないように。


「……あなたが……いてくれたから……」


 その言葉を最後に、彼女の目が静かに閉じられた。


 彼女の寿命は、もう残り数分である。


 それはわかっている。だけど、少しでも長く、話をしていたい。


 僕の世界が止まった。何度も彼女の名前を呼んだ。震える声で、彼女を抱きしめるように覆いかぶさった。


「美咲……美咲……!」


 だけど、返事はない。


 涙が止まらなかった。喉が詰まり、胸が押しつぶされそうなほどに苦しかった。それでも、彼女の冷たくなっていく体を抱きしめ続けた。


「愛しているわ。あなた……」


 最後に僕の耳に届いた美咲の声は、音になっていたのかわからない。


 だけど、僕の心には届いた。


 ♢


 それから数日後、僕は彼女の墓の前に立っていた。


 墓石には、彼女の名前と「ここに眠る」という言葉だけが刻まれている。華美な装飾もなければ、派手な花もない。彼女らしい、シンプルで美しい墓だった。


 手には誓約書を持っていた。あの時、二人で交わした誓い。その紙をしっかりと握りしめて、墓石の前に立つ。


「美咲……」


 声が震える。ここに来るまで、何度も何度も泣いた。でも、今この場では、泣かないと決めていた。


「美咲先輩……僕にとって、あなたと出会えたことは人生で一番の幸せでした」


 深呼吸をして、彼女に語りかける。


「僕は今まで、人と距離を取って生きてきました。誰のこともどうでもいいと思って、ただ自分が傷つかないようにしてきました」


 風が少しだけ吹いて、彼女の墓の前に供えた花が揺れる。


「でも、あなたが教えてくれたんです。人と接することの楽しさを。誰かと一緒にいることで、生きる意味が見つかることを、あなたが僕をからかって、未来さんや由香と交流をもつことを教えてくれた」


 胸が苦しくなる。だけど、彼女の墓前で泣き崩れるわけにはいかない。


「だから、美咲先輩が僕に教えてくれたことを、僕はこれからの人生で大切にしていきます。第二の人生を、美咲先輩に恥じないようにしっかりと歩んでいきます」


 言葉を紡ぐたびに、目頭が熱くなる。


「美咲先輩、あなたに出会えて本当に良かった。愛しています」


 誓約書を墓石の前にそっと置いた。僕たちの証を、彼女に捧げるように。


 そして、静かに立ち上がり、墓に背を向ける。


 少し歩いたところで、堪えきれずに振り返る。


「……ありがとう、美咲先輩」


 その一言が、涙と共に零れ落ちた。


 足元に崩れ落ちる。溢れる涙をどうすることもできなかった。


 こらえようと思っていた感情が、一気に溢れ出す。


「美咲……! なんで……なんでいなくなっちゃうんですか……!」


 声を上げて泣いた。誰に見られても構わなかった。美咲がいない世界の中で、彼女の温もりだけを想い続けた。


 泣きじゃくる中でふと、風が吹いた気がした。


 その風が、彼女の声のように思えた。


「智君、前を向いて」


 彼女の言葉が胸に蘇る。僕は涙を拭い、立ち上がる。


「わかりました。僕は、先輩が教えてくれた道を、しっかり歩んでいきます」


 そう言い残して、僕は墓に背を向けた。


 彼女との日々を胸に刻みながら、僕は新しい人生の一歩を踏み出していく。


 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 あとがき


 どうも作者のイコです。


 いつも私の作品を読んでいただきありがとうございます。


 こちらの話は以上で完結になります。


 始まりから最後まで、初めてプロットを決めて書いた作品でした。


 いつもはプロットと言ってもあらすじ的な感じで、サラッと決める感じでしたが。

 この話は、最初から最後までこういう展開で、こういう話にすると決めて書いています。


 楽しんでもらえたら嬉しいです。


 カクヨムコンテストが始まって、新作も書いておりますので、そちらの方もどうぞ応援をよろしく。

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ダウナー系先輩におっぱい見せてくださいと言ったら、なんだかヤバいことになっていた。 イコ @fhail

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