エピローグ
《side 佐藤智》
美咲との結婚生活は一ヶ月ほどだった。
一緒に寝起きをして、食事を作ってもらって、映画を観て、買い物にいく。
「智君!」
彼女が僕に笑いかけてくれる。
それがどれほど幸福なことなのか、僕は痛いほどによくわかっている。
♢
病室の中は、無機質な音が支配している。点滴の液が滴り落ちる音、機械の単調な電子音。そんな中で、美咲の小さく浅い呼吸音だけが、僕を現実に引き戻していた。
彼女は病室のベッドの上で、枯れるように静かに横たわっている。
少し前から意識の混濁が続いて、もう僕のこともわからない。
最後に彼女の笑顔を見たのはいつだっただろうか? 笑う際には僕をからかっていたのに。こんなにも短い時間で、人はこれほど変わってしまうのかと、何度も信じたくない現実に苛まれる。
だけど、僕は彼女のそばにいる。
それが彼女との約束だから。いや、僕自身が望んだことだから、だけど辛いことに変わりはない。彼女は体調が悪くなると機嫌が悪くなる。でも、決まって申し訳なさそうな顔をする。
それがどうしようもなく愛おしい。
「智君……」
か細い声で名前を呼ばれる。僕は急いで椅子から立ち上がり、ベッドのそばに膝をついた。彼女の手を握って側にいることを伝える。
「美咲、僕はここにいるよ」
彼女はわずかに首を振る。その動きだけで精一杯なのが痛いほど伝わってくる。
「……智君……本当に……ありがとう……」
彼女の声は息が漏れるような弱々しいものだった。それでも、僕を見つめるその瞳には、確かな感情が宿っている。
「僕こそ……ありがとう、美咲」
彼女は、辛い時には強い言葉になり、気が弱くなるとお礼を伝えてくる。
僕は彼女の手をそっと握る。その手は驚くほど冷たく、骨ばっていた。こんなに細い手で、彼女はどれほどのものを抱え込んできたのだろう。
だから僕は彼女の全てを受け止めてあげたくて、少しでも彼女が暖かくなるように、両手で彼女を温める。
「智君、泣かないで……」
涙を堪えていたつもりだった。でも、彼女の言葉で、目の奥から熱いものが込み上げてくる。
「美咲……僕は……」
それ以上は何も言えなかった。ただ、彼女の手を握りしめることしかできない。
「智君……本当に……幸せだったわ……あなたと……過ごせて……」
彼女の声がだんだんと小さくなる。僕は必死に耳を傾ける。彼女の一言一言を聞き漏らさないように。
「……あなたが……いてくれたから……」
その言葉を最後に、彼女の目が静かに閉じられた。
彼女の寿命は、もう残り数分である。
それはわかっている。だけど、少しでも長く、話をしていたい。
僕の世界が止まった。何度も彼女の名前を呼んだ。震える声で、彼女を抱きしめるように覆いかぶさった。
「美咲……美咲……!」
だけど、返事はない。
涙が止まらなかった。喉が詰まり、胸が押しつぶされそうなほどに苦しかった。それでも、彼女の冷たくなっていく体を抱きしめ続けた。
「愛しているわ。あなた……」
最後に僕の耳に届いた美咲の声は、音になっていたのかわからない。
だけど、僕の心には届いた。
♢
それから数日後、僕は彼女の墓の前に立っていた。
墓石には、彼女の名前と「ここに眠る」という言葉だけが刻まれている。華美な装飾もなければ、派手な花もない。彼女らしい、シンプルで美しい墓だった。
手には誓約書を持っていた。あの時、二人で交わした誓い。その紙をしっかりと握りしめて、墓石の前に立つ。
「美咲……」
声が震える。ここに来るまで、何度も何度も泣いた。でも、今この場では、泣かないと決めていた。
「美咲先輩……僕にとって、あなたと出会えたことは人生で一番の幸せでした」
深呼吸をして、彼女に語りかける。
「僕は今まで、人と距離を取って生きてきました。誰のこともどうでもいいと思って、ただ自分が傷つかないようにしてきました」
風が少しだけ吹いて、彼女の墓の前に供えた花が揺れる。
「でも、あなたが教えてくれたんです。人と接することの楽しさを。誰かと一緒にいることで、生きる意味が見つかることを、あなたが僕をからかって、未来さんや由香と交流をもつことを教えてくれた」
胸が苦しくなる。だけど、彼女の墓前で泣き崩れるわけにはいかない。
「だから、美咲先輩が僕に教えてくれたことを、僕はこれからの人生で大切にしていきます。第二の人生を、美咲先輩に恥じないようにしっかりと歩んでいきます」
言葉を紡ぐたびに、目頭が熱くなる。
「美咲先輩、あなたに出会えて本当に良かった。愛しています」
誓約書を墓石の前にそっと置いた。僕たちの証を、彼女に捧げるように。
そして、静かに立ち上がり、墓に背を向ける。
少し歩いたところで、堪えきれずに振り返る。
「……ありがとう、美咲先輩」
その一言が、涙と共に零れ落ちた。
足元に崩れ落ちる。溢れる涙をどうすることもできなかった。
こらえようと思っていた感情が、一気に溢れ出す。
「美咲……! なんで……なんでいなくなっちゃうんですか……!」
声を上げて泣いた。誰に見られても構わなかった。美咲がいない世界の中で、彼女の温もりだけを想い続けた。
泣きじゃくる中でふと、風が吹いた気がした。
その風が、彼女の声のように思えた。
「智君、前を向いて」
彼女の言葉が胸に蘇る。僕は涙を拭い、立ち上がる。
「わかりました。僕は、先輩が教えてくれた道を、しっかり歩んでいきます」
そう言い残して、僕は墓に背を向けた。
彼女との日々を胸に刻みながら、僕は新しい人生の一歩を踏み出していく。
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あとがき
どうも作者のイコです。
いつも私の作品を読んでいただきありがとうございます。
こちらの話は以上で完結になります。
始まりから最後まで、初めてプロットを決めて書いた作品でした。
いつもはプロットと言ってもあらすじ的な感じで、サラッと決める感じでしたが。
この話は、最初から最後までこういう展開で、こういう話にすると決めて書いています。
楽しんでもらえたら嬉しいです。
カクヨムコンテストが始まって、新作も書いておりますので、そちらの方もどうぞ応援をよろしく。
ダウナー系先輩におっぱい見せてくださいと言ったら、なんだかヤバいことになっていた。 イコ @fhail
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