第35話

 病院のベッドの上で、点滴が腕に刺さる鈍い感覚をぼんやりと感じながら、私は天井を見つめていた。


 天井は真っ白でLEDの光が反射しているのか、淡い青みを感じる。


 延命治療。


 それが、私にできる精一杯の「生きる」という行為だった。でも、それは時間を少しだけ引き延ばすだけで、根本的な治療にはならない。


 お医者様の説明は淡々としていて、希望もなければ奇跡の余地も感じられなかった。


 未来ちゃんが毎日のようにお見舞いに来てくれるのは、唯一の救いなのかもしれない。彼女が私を病院に運んでくれたことで、私は少しだけの時間を生き長らえることができた。


 そして、彼女という私の病状を知る人を得てしまった。


 彼女は私の病状を尋ねることはなく、ただ明るい笑顔で話しかけてくれる。最初の時は取り乱していたのだろう。今では私に気を遣ってくれているのが伝わってきていた。


 ただそれが、どれほど私を支えてくれているか、彼女自身は気づいていないだろう。


「智先輩が必死に美咲先輩の行方を探しているんです」


 未来ちゃんの言葉に、私は一瞬目を閉じた。胸がきゅっと締め付けられるような感覚。智君、私の気持ちを知らなかったはずなのに、気づいて行動を起こしてくれた唯一の人。


 私は誰にも知られたくないと思いながら、智君に知られてから心がドンドンと救われていた。未来ちゃんにも知られて、本当は短い時が終わりのは怖い。


 だけど、大切な人たちが私のことを少しでも覚えていてくれる。それがとても嬉しいと矛盾した考えが浮かんでいる。


 彼は今、どうしているのだろう。


「そう……元気にしてる?」


 そう答えるのがやっとだった。未来ちゃんは嬉しそうに頷いた。


「はい。でも、美咲先輩に会いたがってますよ」


 その言葉に、心の奥底で抑え込んでいた感情が溢れそうになるのを感じた。でも、私が智君に会えば、きっとまた傷つけてしまう。私には、そんな資格はない。


「……私、治療に集中しないといけないから。今は無理よ」


 自分でも聞き慣れた言い訳を繰り返す。未来ちゃんがどこか寂しそうな顔をしたのが目の端に映ったが、私は目を逸らした。


 それでも、その夜、私は一人ベッドの中で葛藤していた。


(智君に会いたい。でも、そんなことをして何になるの?)


 わかっているのに、気持ちはどうしても抑えきれない。


 私は思わず病院を抜け出して、彼のバイト先である猫カフェへと向かっていた。


 自分でも馬鹿なことをしているのはわかっている。顔色だって、体調だって、決して良くはない。


 普通でいることすら、私にはもうできないんだ。


 猫カフェに入ると、店内にはふんわりとした温かい空気が漂っていた。


 智君はカウンターの奥で忙しそうに働いていた。私の姿を見つけると、驚いた顔でこちらを見つめた。


「美咲先輩?!」

「ふふ、驚いた?」


 少し笑ってみせるけれど、胸の奥では重たい感情が渦巻いていた。


「美咲先輩、大丈夫なんですか? 未来さんから検査入院しているって……」


 智君の言葉に、私は軽く肩をすくめた。


「大丈夫よ」


 精一杯の強がりだった。本当は彼に甘えたかった。抱きしめてほしかった。でも、そんなことをしても、彼に残るのは私のいない未来だけだ。


 智君は何か言いかけたけれど、私はそれを遮るように立ち上がった。


「もう、行くわね。ありがとう。君と話せてよかった」


 それだけ言い残し、店を出た。足元はふらつき、頭がぼんやりとしていた。でも、振り返るわけにはいかなかった。


 外に出て、冷たい風が頬を撫でた瞬間、視界が揺れた。


(まただ……)


 膝から崩れるように倒れそうになったその時、温かい腕が私を支えてくれた。


「先輩!」


 聞き慣れた声が耳に届く。智君だった。いつの間にか、私を追いかけてきてくれていたのだ。


「本当に……無理しないでください」


 彼の声が震えていた。私は彼の腕の中で、しばらくその温もりを感じていた。


「……智君、ありがとう。でも、やっぱり私は――」


 それ以上言葉を続けることができなかった。彼の腕の中が暖かすぎて、私の心を溶かしていくようだったからだ。


 少しだけ目を閉じて、彼の体温を感じた。これが最後でもいい、そう思ってしまう自分がいた。


 でも、私は彼の未来を奪うわけにはいかない。


 その場を何とか立ち上がり、私はタクシーを拾って乗り込んだ。智君は、まだ私を見送ってくれていた。


 タクシーが走り出すと、ぽつりぽつりと涙が頬を伝った。


(どうして私は、死ななければならないのだろう?)

(どうして最後に、好きな人ができてしまったのだろう?)


 窓の外を流れる街の明かりが滲んで見える。私はその光景をただぼんやりと見つめながら、嗚咽を漏らさないように必死に唇を噛んだ。


(智君、私は……あなたのことが好きよ)


 そう心の中で呟きながら、私はタクシーの中で静かに泣き続けていた。

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