第28話

 由香に励まされ、未来さんに美咲先輩のことを聞いて待つと言ったけれど、心配な気持ちがどうしても止まらない。


 だけど、美咲先輩のことを、どうしても考えずにはいられなかった。


 検査入院が一体どんな検査なのか、先輩の体調は本当に大丈夫なのか。僕にはわからないことばかりだ。

 バイト先の猫カフェにいる時も、ついそのことが頭をよぎってしまう。


 普段なら猫たちと過ごすだけで気持ちが和らぐのに、今日は何だか気が落ち着かない。そんな時、ふとカフェの入り口が開いて、風鈴の音と共に軽い足音が聞こえてきた。


「いらっしゃいませ! えっ?!」

「智君」


 そこに立っていたのは、美咲先輩だった。


 いつもの明るく笑顔を浮かべて、何事もなかったかのように軽やかな声をかけてくる。その姿に一瞬、安心しかけたけれど、僕の心の中には不安が残ったままだ。


「美咲先輩……入院してたんですよね?」


 僕は問いかけた。


「未来ちゃんに聞いちゃったのね。大したことじゃないわよ」


 その顔はいつもの明るい声で、笑い飛ばした。


「ちょっとした検査よ。気にしないで、ほら、猫たちも私が来るのを待っていたんじゃないかしら?」


 美咲先輩はおどけたように手を振り、近くの猫たちに視線を向ける。その表情には、僕の心配などまったく気にしていない様子が見て取れる。からかうような、どこか軽い態度に、僕は苛立ちを感じてしまう。


「本当に、大丈夫なんですか? 未来さんも心配してたんですよ」


 つい口調が強くなってしまったが、美咲先輩は相変わらずの調子で僕を見て、軽く肩をすくめた。


「ふふ、智君がそんなに心配してくれるなんて、なんだかうれしいわね。まさか、私のことを気にかけてくれる日が来るなんて」

「いや、そんなことじゃなくて……僕は本気で美咲先輩のことが気になってるんです」


 言葉を続けようとすると、先輩は微笑んで「大丈夫だから」と僕を制した。その微笑みには、僕の心配を無視するかのような冷たさすら感じられる。


 遠ざけられるような気がして、僕は受け止めてもらえないことに胸が締め付けられる。


 先輩は猫カフェの中を少しだけ歩き回り、にっこりと猫たちに声をかけながら過ごした。


 「じゃあ、私はそろそろ行くわね」


 まるで、美咲先輩が消えてしまいそうな不思議な感覚を覚える。


 このまま黙って見送るべきなのかもしれない。だけど、何も解決していない気がして、僕はその背中をじっと見つめた。どうしても放っておけない、そう思った瞬間、僕は咄嗟に後を追いかけていた。


「美咲先輩、待ってください!」


 遠ざかる美咲先輩は振り返ることなく、猫カフェの外へと出ていく。


 そのまま街の通りに出る美咲先輩を、店から飛び出して追いかけた。


「美咲先輩!」


 その時だった。


 先輩の体がふらりと揺らいだ。僕の目の前で、まるで倒れるようにその場に崩れ落ちていく。


「美咲先輩……!」


 僕は反射的に駆ける。


 距離があって、遠くで美咲先輩はそのまま意識を失ったかのように道路に倒れ込んでいく。向こうから一台の車がこちらに向かってくるのが見えた。


 運転手も先輩のことに気づいたのか、ブレーキ音が響くが、間に合うかどうかはわからない。僕は必死に体を動かして、彼女を抱き上げるようにして引き寄せた。


「ハァハァハァ!」


 次の瞬間、車のヘッドライトが僕たちを強く照らし、ギリギリで停止する音が響いた。わずか数センチの差で、僕と美咲先輩はなんとか無事だった。けれど、その一瞬の出来事があまりに急で、僕は息を切らしながら震える手で先輩を抱きしめていた。


「美咲先輩、大丈夫ですか……!」


 僕の声にも応えず、先輩はまだ意識が戻らない様子だった。


 頬に軽く手を当てると、ひんやりと冷たい。ここ数日、入院していたとは聞いていたけれど、まさかここまで体調が悪いとは思っていなかった。


 不安と焦りが胸を締めつけ、僕は必死に呼びかけ続けた。


「先輩、起きてください!」


 その時、先輩の瞼がわずかに動いた。薄く目を開けた彼女はぼんやりと僕の顔を見つめ、かすかに微笑んだ。


「あら……智君、どうしてここに?」

「どうしてって……先輩が倒れたんですよ! 本当に大丈夫なんですか?」


 僕の言葉に、先輩はやっと状況を理解したようで、顔をしかめながら周りを見回した。倒れかけていた自分の体を支えていた僕の手から、ふわっと力が抜けていくのを感じた。


「ごめんなさいね。私、ちょっと無理をしてたかもしれない」

「無理をしていた? だったら、どうしてもっと自分の体を大事にしないんですか?」


 思わず声を荒げてしまった僕に、先輩はかすかに驚いたような表情を見せた。


 普段なら僕がこんな風に感情を表に出すことはほとんどない。だけど、今だけは我慢できなかった。


「僕は、先輩のことを本気で心配してたんです。未来さんから検査入院だって聞いた時から、ずっと不安で……なのに、先輩はいつも通り振る舞って、まるで何も心配いらないみたいに見せかけて……」


 僕の言葉に、先輩はしばらく黙って僕を見つめていた。そして、ほんの少しだけ力を抜いた表情で、小さなため息をついた。


「……そうね。私、強がりすぎてたかもしれない」

「美咲先輩……」

「でもね、智君、私は自分のことをあまり他人に話したくないの。だって、自分の弱いところを見せたら、相手に心配かけるでしょう?」


 その言葉には、彼女の孤独が滲んでいるように感じられた。


 美咲先輩は自分が抱える不安や弱さを、誰にも見せようとはしていなかった。僕にすら、いや、むしろ僕だからこそ遠ざけているのかもしれない。


「でも、先輩……そんなの辛くないですか? 僕が一緒にいますよ」


 僕がそう言うと、彼女は驚いたように僕の顔を見つめ、再び微笑んだ。


 その微笑みはどこか寂しげで、ほんの一瞬、何か言おうと口を開いたが、結局何も言わずに目を閉じた。


「ありがとう、智君。でも、私は大丈夫よ」


 そのまま彼女はゆっくりと僕の腕から体を離し、ふらつく足取りで立ち上がった。まだ完全に力が戻っていないのか、少しだけよろめいた彼女を、僕は支えるようにして歩いた。


 美咲先輩は僕に支えられながらも、相変わらずの強がりを見せ続けている。


「美咲先輩、無理をしないでください。これからは、ちゃんと僕にも頼ってください」


 僕の言葉に、先輩は再び微笑んだが、その瞳には何か言いたげな感情が浮かんでいた。


 タクシーを止めて乗り込む。


「智君、またね」


 そのまま美咲先輩は去っていった。


 何も教えてくれないまま。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る