第20話

 廊下を歩きながら、僕は自分の中に渦巻く感情を整理しようとしていた。


 原田教授を脅して勝利を収めたはずだが、心の中には妙な空虚感が残っている。


 勝ったはずなのに、達成感がない。手に入れた勝利が偽物であるかのような感覚だった。いや、偽物だと僕は知っている。


「本当にこれでよかったのか……」


 僕は自分にそう問いかけるが、答えは返ってこない。


 大切な人たちを守るためには、どんな手段でも使うと決めた。だけど、冷酷に原田教授を追い詰めた自分の姿を思い返すと、胸の奥が少しだけ痛む。そんなことを自分はしたかったのだろうか?


 暗い廊下を抜け、大学の出口に向かう。


 夕暮れが少しずつ訪れ、オレンジ色の光が校舎を照らしている。風が冷たく肌を撫で、僕の心の中の冷えた部分をさらに強調するかのようだった。


 原田教授のことはこれで終わった。


 その時、ふとポケットに入れていたスマホが振動した。メールが届いている。画面を確認すると、美咲先輩からのメッセージだった。


「今、少し話せないかしら?」


 たったそれだけの短い文章だったが、なぜか胸が締め付けられるような気がした。


 今までずっと悩んでいた彼女との関係。そして今回の事件。すべてが頭の中をよぎる。僕はどうするべきなのか。


 美咲先輩に話すべきか、それともこのまま隠しておくべきか。迷いが心を占める中、僕は深い溜息をつき、返信した。


「わかりました。今すぐ向かいます」


 美咲先輩との約束の場所は、サークルの部室だった。部室は日が傾き始め、校舎の窓から差し込む陽の光が、長い影を作り出している。


 部室のドアを開けると、中には誰もいない。いや、ただ一人だけ、窓際に立つ美咲先輩がいた。


 夜のLEDの明かりに照らされた美咲先輩は、まるで違う世界にいるかのように静かに佇んでいた。


 その背中に、微かな緊張感が漂っているような気がする。普段の彼女のダウナー系の脱力した雰囲気とは違い、どこか張り詰めた空気があった。


「来てくれてありがとう」


 美咲先輩が振り向き、淡々とした口調でそう言った。だが、その言葉には何か重いものが含まれているように感じられた。


 あの、おっぱい見せてくださいと言った後のような冷たさに近い。


 僕はその場に立ち尽くし、口を開くのが遅れてしまった。


「どうしたんですか、美咲先輩?」


 美咲先輩は一瞬、窓の外に目をやった後、僕をじっと見つめる。その瞳には、いつもの柔らかさはなく、鋭い光が宿っていた。


「君の正体を教えてくれる?」


 美咲先輩の声が静かに響いた。突然の質問に僕は言葉を失った。問われた意味がわからない。


「……どういう意味ですか?」


 僕は慎重に言葉を選びながら返したが、美咲先輩は微動だにしない。


「君が原田教授を脅しているのを見ていたわ。あの瞬間、君は普段の君じゃなかった。まるで別の人間のようだった。だから、もう一度聞くね。君の正体を教えてくれる?」


 鋭い目つきと共に放たれたその問いは、僕の心に深く突き刺さった。これ以上、知らぬ存ぜぬを通しても意味はない。美咲先輩の真剣な目を見て、僕は決断した。


 少し冗談めかして、だが核心を突くように。


「僕が未来から来た人間だって言ったら信じますか?」


 その言葉に、美咲先輩は微かに眉をひそめた。だが、すぐに表情を戻し、意外なほど冷静に言葉を返してきた。


「信じるわ」


 彼女の返答に、僕は少し驚きを隠せなかった。普通なら、そんな話を笑い飛ばすか、怪訝な顔をされるところだ。だが、美咲先輩は真面目に僕の言葉を受け止めていた。


 僕たちの間に重い沈黙が流れる。


「……それなら、話は早いですね」


 僕は笑みを浮かべ、少し肩の力を抜いた。だが、その静かな瞬間が途切れたのは、突然ドアが開いたからだった。


 美咲先輩の視線がドアの方に向かう。


 僕もそちらに目をやると、そこには眼鏡をかけた後輩の女の子が立っていた。彼女はメガネをずらし、少しあどけない表情で部室に入ってきた。


「あっ、あの……お邪魔します!」

「未来さん?」


 原田教授に脅されていた彼女は、すでに帰宅したと思っていた。だけど、彼女は部室に留まっていたようだ。


「はい!! 美咲先輩に連れてきてもらって助けていただきました。先ほどまで話を聞いてもらって、隠れているように言われましたが我慢できなくて!」


 それは、先ほど原田教授に襲われていた恐怖を美咲先輩が慰めていたのだろう。僕は一瞬、彼女がここにいることに驚いたが、美咲先輩が事情を知っている理由に納得してしまった。


 未来さんは、先ほど教授から受けた恐怖が感じられないほど明るくなっていた。僕の顔を見て、少し照れくさそうにしながら、ペコリと頭を下げた。


「あの、助けてくれてありがとうございます! 本当に、本当に……感謝してます! 智先輩が来てくれて、凄く心強かったです。それに美咲先輩に慰められて、私……」


 彼女は眼鏡をクイッと直し、瞳に雫を溜めて、感謝の言葉を繰り返している。少しおどおどした様子だが、その態度によって、美咲先輩との間に生まれていた緊張感が流されていくようだった。


「いや、そんな、大したことしてないから……」


 僕は深々と溜息を吐いて、言葉を返した。彼女はさらに興奮した様子で話し始めた。


「でも、でも! あの時の先輩は、本当にヒーローみたいでした! まさか私がこうして救われるなんて、なんというか……まるで漫画の世界のヒロインみたいで! 先輩は、本当にすごいです! 私、感激です!」


 彼女は眼鏡をくいっと上げながら、早口でまくし立てた。もう、涙で顔はグチャグチャになっている。怖かったのだろう。

 少しオタクっぽい雰囲気を持っている彼女の言葉には熱がこもっていた。


 そして、興奮のあまり手が大きく動いている姿がなんだか微笑ましい。俺はその様子に苦笑しつつ、どう返事をすればいいのか迷っていた。


 不意に、美咲先輩もいつの間にか冷静さを取り戻し、少し微笑んでいる。


「君、意外と人気者じゃないかしら?」


 美咲先輩が冗談めかして言ってきた。


「いや、全然そんなことは……」


 俺は慌てて否定したが、白井はまだ何か言いたそうにしていた。


「それにしても……おっぱい、大きいですよね……」


 俺は話題を変えたくて、未来さんの胸を見ながら思わず口を滑らせてしまった。


 その言葉に、俺はまたしても、後悔した。


 しまった! また言っちゃいけないことを言ってしまった。


 だが、未来さんは驚くどころか、むしろ誇らしげに胸を張った。


「ふふん、そうなんです! これが私の自慢の武器ですからね! 智先輩も虜になりましたか、いいですよ。私を好きになっても!」


 彼女は自信満々に胸を張って見せる。そのあまりに堂々とした態度に、僕も先輩も呆れて笑ってしまった。


「ふふふ! 未来ちゃん。君は面白いわね」

「え〜! なんで笑うんですか?!」


 僕は照れ笑いしながら、美咲先輩の方を見たが、先輩は肩をすくめて「仕方ないわね」と笑っていた。


 こうして、部室に流れていた緊張感はどこかへ消え、代わりに和やかな空気が広がった。僕は心の中でホッとしながら、笑い声に包まれた部室の空気を楽しんだ。


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