第12話

 拓也から美咲先輩の噂を聞かされてから、頭の中にずっと重い霧がかかっているような日々が続いた。


「教授と関係があるらしい」

「特別な扱いを受けている」

「成績も良くなっている」


 拓也の言葉はどれも事実かどうかも分からない。ただの噂に過ぎないはずだったが、それでも一度頭の中に入り込んだその話は、頑として消えることがなかった。


 もともと、美咲先輩の言葉には謎が多かった。「未来から来た」と言い、「大切なものを失った」とも言った。


 それが彼女の冗談だとしても、なぜそんな悲しげな顔をしたのか。彼女が言った未来とはどんな世界で、どんな状況で大切なものを失ったのか。頭の中で疑問が次々と膨れ上がり、収拾がつかなくなってくる。


 彼女が言っていた「大切なものを失った」というのが噂と繋がるならば、それは教授に奪われたものなのだろうか? あるいは、噂の真偽はさておき、美咲先輩が本当に何かを失っていたとして、その「何か」は誰だったのか。


 何か大切な人、もしかしたら彼女が一番守りたかった存在だったのかもしれない。


 それでも、美咲先輩がそんな軽々しく誰かに利用されたり、操られるような人間だとは思えない。


 冷静で、気だるげに見えるのにどこか凛とした強さを感じさせる人だ。


 そんな彼女が、何か大きな痛みを抱えながら過去に戻ってきたというのが、本当に現実だとしたら? その考えが浮かぶたび、心が締めつけられるような感覚に襲われた。


 猫カフェでバイトをしているときも、気づけば彼女のことを考えてしまっている。猫たちに癒されながらも、彼女が語った「未来」という言葉が頭の中でリフレインするばかりだ。


 ふと気づくと、白い猫のマシロがじっとこちらを見つめている。まるで俺が考え込んでいることを察してくれているかのように、静かに近づいてきた。


「お前は何も心配せずに生きてるんだよな」


 マシロを撫でながら、俺はそっと呟いた。


 猫の柔らかな毛並みに触れると、少しだけ気持ちが和らぐ。だけど、心の奥にあるもやもやは決して消えることがなく、ただうっすらと残っていた。


 大学生活に戻っても、考え事は途切れることがなかった。


 講義を聞いているはずが、気づけばノートに走り書きされた文字がかすれて、頭の中は美咲先輩のことばかり。


 彼女が未来から来たと言ったとき、なぜ俺は疑うこともせず信じてしまったのだろうか? あまりに突飛な話なのに、彼女の表情とあの真剣な目が、すべてを真実だと告げているように思えてしまったのだ。


 もしその「未来」が本当に存在しているのなら、彼女は一体何のためにその未来から戻ってきたのだろう?


 その疑問を解き明かしたくて、彼女に直接尋ねたいという気持ちが膨らんでくる。だけど、もしそれが彼女の秘密で、簡単に話せることではないとしたら? 自分の好奇心のために、美咲先輩の傷に触れてしまうことが怖かった。


 だから、話しかけるのをためらい、ただ距離を置いたまま数日が過ぎていった。


 そんな曖昧な思いを抱えたまま、俺はぼんやりとした日々を送っていた。


 ある日の午後、少し早めに講義が終わったので、キャンパスのベンチに腰を下ろしていた。


 頭を抱えるようにして、先輩の話を思い返していると、ふと耳元に聞き覚えのある明るい声が響いた。


「智君、久しぶりだね!」


 顔を上げると、そこには幼馴染の藤原由香が立っていた。


「由香……」


 俺が軽く手を振ると、彼女はにっこりと微笑みながらベンチの隣に腰を下ろしてきた。


「なんか智君、ずっと難しい顔してるからさ、声かけたんだ。また悩んでいるの? どうかしたの?」


 彼女の明るい声に、少しだけ肩の力が抜ける。


 俺が悩んでいると現れる由香は、良い奴だ。彼女はいつもこうやって、自然と人を和ませる雰囲気を持っている。


「……ありがとう」

「何かあったの?」


 もう一度問いかけてくれる由香は、優しい目で俺を見つめていた。


 美咲先輩のことを話そうかとも思ったが、彼女に相談するにはあまりにも複雑な話で、どう伝えたらいいか分からない。


「いや、大したことじゃないんだ。ただ、ちょっと考え事が多くて……」


 由香は寂しそうな笑顔を浮かべていた。


 その視線が、どこか心に刺さるように感じた。彼女には何でも話せる関係だったはずなのに、いつの間にか俺たちは少し距離を感じるようになってしまっていたのだろうか。


「うん、ありがとう。でも、本当に大丈夫だよ」


 俺がそう答えると、彼女は「そっか」と呟きながら少しだけ残念そうな表情を浮かべた。しばらくその場で言葉を交わすことなく、静かな時間が流れていく。


 やがて、彼女は立ち上がり、友人たちが待つ方向に歩き出したが、ふと振り返って俺に声をかけた。


「智君。なら、私の相談に乗ってくれる?」


 その言葉には、どこか切実な響きがあった。


「ああ、前にも言っていたな。どうしたんだ?」


 いつもとは違って落ち込んだ表情が、不安を感じさせる。


「どうしたんだ?」


 俺が尋ねると、彼女は一瞬だけ視線を外し、ため息をつくように口を開いた。


「最近、私……ストーカーみたいなことされてるの」

「ストーカー? 本当なのか?」

「あんまり信じてもらえないかと思ってたけど……うん、本当なの」


 由香の表情が強張っている。今まで俺が知っている彼女は、どちらかと言えば強気で、気丈な女性だ。だけど、今目の前にいる彼女は、明らかに違った。


「どんなことがあったのか、話してくれないか?」


 俺が静かに促すと、由香はふと視線を落として、小さな声で語り始めた。


「最近、何か視線を感じることが増えてて。最初は気のせいかと思ったんだけど、講義が終わって校内を歩いているときとか、カフェで友達といるときも……誰かが見てるような気がするの」


 由香の声は、微かに震えていた。俺はただ黙って、彼女の言葉を待つ。


「それだけじゃなくて……気持ち悪い手紙が、いくつもポストに入ってるの。普通の手紙じゃなくて、ただ『見てるよ』とか、『どこにいても君を見つける』とか、そんなことばかり書かれてて」


 その内容に、俺も背筋が寒くなるのを感じた。誰が、彼女にそんなことをしているんだ?


「……それ、かなり危ないじゃないか。警察には言ったのか?」

「ううん、まだ怖くて……だって、もし相手がもっと執拗になったらどうしようって思って」


 彼女の困惑と恐怖が伝わってくる。由香は強く見えても、やはり一人の女性で、不安に怯えることもあるんだと痛感させられる。


「でも、放っておけないだろう。どんな人か分からないし、もっと酷くなる可能性もある」

「そうだよね……でも、どうしたらいいのか分からなくて」


 俺はしばらく考え込んだ。


 このまま黙っていても、由香が無事でいられる保証はない。ストーカーはエスカレートすることが多いと聞くし、彼女の恐怖は日に日に増しているのだろう。


「……俺も一緒に考えるよ。何か手伝えることがあれば言ってほしい」


 俺がそう言うと、由香は少しだけ安心したように微笑んだが、すぐに表情を曇らせた。


「本当は、誰にも言いたくなかったんだ。だけど、誰かに話さないと私耐えられなくて……」


 由香は視線を伏せ、小さく肩を震わせている。普段の彼女とは違う、頼りない姿に、俺は胸が締めつけられるような感覚を覚えた。


「大丈夫だ、俺が何とかする。まず、手紙の内容とかも見せてもらっていいか?」

「うん……


 彼女が鞄から取り出した封筒は、白くて薄い、特に目立たない普通の封筒だった。だけど、手に取った瞬間に嫌な寒気が走った。中を開くと、そこには無造作に書かれた文字が並んでいた。手書きの文字は、どこか乱れていて、焦りや執着が滲み出ているかのようだった。


「『君がどこに行っても見つけられるよ』……」


 その文字を読み上げると、彼女は怯えたように肩をすくめた。こんな不気味な内容の手紙を送られることが、どれほど彼女を苦しめているのかが、言葉ではなく表情から伝わってくる。


「これが、何通も……由香、本当に大丈夫か?」


 俺は、彼女の手を軽く握って、優しく言葉をかけた。由香は一瞬驚いたような顔をしたが、やがて小さく頷いた。


「ありがとう……智君がこうして話を聞いてくれて、少しだけ心が軽くなった気がする」


 彼女の微笑みが一瞬だけ戻り、俺も少しほっとした。


「それにしても、こんな状況で一人でいるなんて危ないぞ。サークルに来ることがあるなら、俺もできるだけ一緒にいてやるから」

「それが……最近、私が一人でいるタイミングを狙ってる気がするの」


 由香の言葉に俺は息を呑んだ。彼女は今、どんな気持ちでこの状況に立ち向かっているのだろうか。恐怖がいつも背後に迫り、孤独な時間が恐怖と直結しているように思える。


「……そっか。それなら、少しでも一緒にいられるようにするよ」


 俺は強く頷き、彼女に少しでも安心してもらえるように言った。


「ありがとう、智君……本当に、話して良かった」


 由香は目を伏せ、何かを噛みしめるように小さく微笑んだ。その表情に、俺も少しだけ胸が温かくなる。


 でも、この笑顔がずっと続く保証はない。


 彼女を苦しめる何者かの存在が、どこか近くにいると考えると、嫌な予感が拭えなかった。


 

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