第11話
大学のキャンパスを歩いていると、ふと後ろから声がかかった。
「おーい、智!」
振り返ると、拓也が笑顔で手を振りながら近づいてくるのが見えた。高校からの友人で、こちらの大学に一緒に行くということで、心強い同郷だ。
大学に入ってからも何度か顔を合わせてはいたが、最近はそれぞれ忙しくて、なかなかゆっくり話す機会がなかった。
たまに講義が重なった時には話をするが、それも被りが少ないので、この間話してから、一週間が経っていた。
拓也は大学をサボって、動画撮影などもしていて進級も危ういと思う。
「どうしてた?」
拓也が軽く肩を叩いてくる。
「まあ、いつも通りだよ。講義とバイトでバタバタしてるけどな」
俺は軽く笑って返した。
「智のこと大学で見てたよ。俺も、だけど、いつも忙しそうでなかなか声かけられなかったんだよな」
「そういえば、最近よく話してる先輩がいるだろ?」
「うん? ああ、サークルの先輩かな?」
「ああ、あのめっちゃ美人だよ!」
「まぁ美人だな」
美咲先輩の顔を思い出す。うんうん。美人だな。ダウナー系の脱力系だけど。
「どうなんだ? 発展してたり?」
拓也の言葉に、俺は一瞬驚いた。まさか、そんなことを聞かれるとは思っていなかった。
「いや、そんなことはないよ。ただ、いろいろ相談に乗ってもらってるだけだし」
とっさに否定しながらも、心の中で少し動揺していた。確かに最近は美咲先輩と話すことが増えていた。
ところが、次の瞬間、拓也が表情を曇らせながらこう続けた。
「でもな、智……その先輩、やめておいたほうがいいかもよ」
「え?」
「なんていうか、あの先輩にはちょっと悪い噂があるんだってよ」
拓也がため息混じりに口を挟んだ。
「俺もそんな話を聞くのは嫌だったけどさ。あの先輩、教授と関係があるって噂があるんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かがピキッと音を立ててひび割れるような感覚があった。
「どういうことだ?」
思わず、語尾を強くして問い返してしまう。
「怒るなよ! 俺も詳しくは知らないけど……サークルの先輩が教えてくれたんだ」
拓也は俺の怒気に怯みながら、言葉を選びながら説明してくれた。
「お前が会ってた先輩が、教授と肉体関係があるって噂になってて、それで成績が良くなったとか、特別な扱いを受けてるとか……たまに、その先輩って学校に長く来てないことがあるらしんだけど、それが教授の別荘に行ってるんじゃないかってさ」
教授との肉体関係? そんな馬鹿げた話があるわけない。だけど、拓也は聞いた話で、俺のことを心配して言ってくれているのはわかる。
「だからさ、智も気をつけたほうがいいと思って。噂ってさ火のないところには立たないだろ? その先輩に何かあるんじゃないか? 智に危険がないか、俺も心配しているだけなんだよ」
拓也は悪いやつじゃない。ちょっとお調子者で好奇心旺盛なだけだ。ただ、たまに言葉がすぎる時がある。
「……」
だけど、怒りが湧いてきて、言葉が出なかった。
善意で俺を心配して言ってくれていることはわかる。昔からの馴染だから、俺のことを考えてくれている。
だけど、それでも……俺の感情は怒りに染まっていた。
「……そんなこと、俺は信じない」
気がつけば、そう言っていた。
「えっ?」
拓也が驚いた顔でこちらを見つめる。
「そんな噂、デタラメだろ。美咲先輩がそんな人じゃないって、俺が一番わかってるから、拓也も信じないでほしい」
胸の奥から怒りが湧き上がってくる。自分でも抑えきれないほどの感情が溢れ出そうだった。
「いや、俺たちも噂を信じてるわけじゃないけど。でもさ、リスクは避けたほうがいいんじゃないかって思うんだよ」
俺が怒っているのを理解しても、拓也は説得しようとしてきた。悪気がないのは知っていても、腹が立つことはある。
「違う! 先輩はそんなことしない!」
思わず声が大きくなってしまった。拓也は明らかに驚いていた。普段は冗談ばかり言っている俺が、こんな風に怒りを露わにすることなんてほとんどないからだ。
「智、落ち着つけって。俺はただ、あなたのことが心配で……」
拓也がなだめるように言うが、その言葉が余計に俺の怒りに火をつけた。
「心配してくれてるのはわかるけど、そんな噂に流されるなよ。美咲先輩は、誰よりも優しい人だ。俺にとって大切な人なんだ。それを、そんな噂で汚されたくない」
自分でも驚くくらい強い口調で言い返していた。しばらく沈黙し、俺をじっと見つめていたが、やがてため息をついた。
カフェにいた学生たちもこちらを見ていた。
「……わかったよ。そんなに言うなら、もう何も言わない」
拓也が周りの状況と、俺の態度を見て、手を挙げて降参のジェスチャーをする。
「ただ、俺は本当にお前のことが心配で……」
俺は大きく息を吐いた。
「……ごめん。心配してくれるのは嬉しいよ。でも、自分の目で見たことしか信じたくないんだ」
少し冷静になり、謝罪の言葉を口にした。
確かに、俺のことを思って言ってくれているのはわかる。でも、美咲先輩を信じていたい。彼女がどれだけ優しくて、どれだけ真剣に生きているかを知っている。
そんな美咲先輩を傷つけるような噂は、到底受け入れられなかった。
「もう何も言わないよ。けど、困ったことがあったらいつでも言ってくれ。俺はずっと友達だからな」
わかっている。拓也は悪い奴らじゃない。
「怒鳴ってごめん。後、ありがとう」
「おう!」
互いに小さく頷き、感謝の気持ちを伝えた。けれど、心の中ではまだ怒りがくすぶっていた。
美咲先輩がそんな噂を背負っているなんて、信じたくもなかったし、そんなことを言われる彼女がどれだけ傷つくかを考えると、さらに胸が痛くなった。
拓也と別れた後、俺は一人で校舎の影に座り込み、しばらくの間、頭を抱えた。
どうしてこんな噂が流れるのか。美咲先輩は何も悪くないはずなのに……。
「先輩……」
小さく呟きながら、俺は彼女のことを思い出していた。
彼女の優しさ、笑顔、そしてあの時の寂しそうな表情。
美咲先輩のことを信じている自分がいる一方で、心のどこかで揺れている自分もいることに気づいてしまう。
もし、その噂が少しでも真実だったら……それが落ち込んでいた原因かもしれない。
その考えが頭をかすめた瞬間、胸の中に鋭い痛みが走った。そんなはずはない。俺は美咲先輩を信じているんだ。
そう自分に言い聞かせながらも、心の中では何かが引っかかっていた。
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