第5話

 飲み会の時にあった先輩は楽しそうに笑っていた。


 だけど、俺があんなことを言ってしまった日の先輩は、やっぱり憂いに満ちた顔をしていて、俺はずっと気になっていた。


 美咲先輩の、あの表情、あの言葉が、どうして引っかかっている。


 表面上はいつも通り明るく振る舞っていたが、飲み会でふと見せた寂しそうな表情や、意味深な言葉が頭から離れない。


「おっぱい見たいの?」

「冗談ですよね?」


 そう言いながらも、どこか本気で言っているような彼女の雰囲気が不安を感じさせた。


 それから数日が経ち、俺は大学で何度か先輩と顔を合わせたが、いつものように元気そうに振る舞っている。


 しかし、時折、美咲先輩は一人になると、静かに考え込んでいるような姿を見かける。その表情は、放って置けないような気がして、胸が締め付けられるような気持ちになってしまう。


 あの飲み会での会話が、俺の中でくすぶり続けている。


 だから、意を決して美咲先輩に声をかけることにした。


 いつもみたいに冗談っぽく笑いながら話しかけようと思った。


 だけど、話しかける寸前、俺からは真剣な声が出ていた。先輩のことを知りたい。彼女が落ち込んでいた理由を聞きたい。


「美咲先輩! 俺、本気かもしれません」


 大学の廊下は、日が傾き始めた夕方。


 人も少なくなり、静かな雰囲気が漂っていた。


 美咲先輩が図書館から出てくるのを見かけた俺は思わず言葉を発していた。


 いつもながら、考えていたことを口にしてしまう。自分のバカなところは変えられない。


 俺の言葉を聞いた先輩は少し驚いたように振り返った。


「……智君」


 彼女はあの時と同じように冷たい瞳を浮かべていた。


 その目には、どこか影が差しているように感じた。


 あっ、病んでいる方の先輩だ……。


 俺はその表情にドキリとしながらも、覚悟を決めて口を開いた。


「実は、あの……この前のことなんですけど、あの時の先輩がちょっと落ち込んでいた理由が知りたくて、どうしても気になって……!」


 言いながらも、俺の心臓はドキドキと高鳴る。


 こんな話をするのは気まずいが、どうしても聞きたかった。すると、美咲先輩は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに軽く笑った。


「そう、ありがとう。だけど、私が落ち込んでいることなんて、気にしないで。あれはちょっと疲れてただけだから」


 彼女はそういって肩をすくめるが、その笑顔はどこかぎこちなかった。今日も疲れているのかもしれない。だけど、ここで引いてはいけない。


 そんな気がして、なんのためにあんな冗談を言ったのか……。中途半端なことはしたくない。あの言葉をいった責任を取りたい。


 そして、本気であることを伝えたい。


「でも、先輩、何か悩んでいるんじゃないですか?」


 俺は思い切って踏み込んだ。彼女の苦しそうな顔を見たくなかった。


 美咲先輩とは、冗談ばかり言っている。だけど、今は真剣な話をしているのが珍しいのだが、どうしても放っておけなかった。


 彼女はしばらく黙り込んで、遠くを見つめるような表情を浮かべた。それから、ふと口を開いた。


「……君は、もし私が未来の記憶を持っているって言ったら、信じる?」

「えっ?」


 思わず聞き返す。未来の記憶? 何を言っているんだろう。


 また冗談?


「未来の私は、大切な人を失ったの」

 

 彼女は静かにそう告げた。


 夕日が彼女の横顔を照らし、少し影が落ちる。その姿がどこか儚く見えた。


「失ったって……誰かが……亡くなったんですか?」


 俺は急に胸が苦しくなった。まさか、そんなことが……。


「そう。でも、あなたじゃないよ」


 彼女は、少し自嘲気味に笑った。


「私はとても後悔した。もっと何かできたはずだって。でも、その人はもう戻ってこない。それで、気がついたら過去に戻ってきていたの」

「……過去に?」


 俺の頭は混乱していた。


 彼女が話していることが現実なのか、それともまた冗談なのか、全く理解できない。


「信じられないよね。でも、私は未来で、大切な人を失って、こうして過去に戻ってきたんだ」


 彼女の言葉には、確かに冗談のような響きはない。


 彼女はあまりにも冷静で、そしてその目はどこか悲しげだ。自分がこの世にいないかのような寂しさが漂っている。


「……冗談ですよね?」


 俺はどうしてもそう思いたくて、言葉を絞り出した。だけど、その言葉を口にした瞬間、俺自身もそれが無理だと感じていた。


「どうかな? だけど、今の私はあなたのおかげで過去にいるのかもね」


 彼女は再び軽く笑う。だが、その笑顔はどこか乾いていて、寂しげだった。彼女の目の奥にある深い闇が、言葉の裏に隠れている。


 俺は、なぜかその笑顔を見て、胸が苦しくなった。


 彼女は何か大きな痛みを抱えている。


 その痛みが、今、俺の前で少しだけ垣間見えている。


 未来の記憶なんて、現実にはあり得ない話だ。


 だけど、今の彼女は嘘をついているようには見えなかった。


「……でも、もしそれが本当だったら、どうしたらいいんですか?」


 俺は、気づけばそんな言葉を口にしていた。彼女の痛みを少しでも理解したいと思ったからだ。


 彼女はしばらく黙ったまま、また遠くを見つめていた。


 

 沈黙が続き、俺は何も言えなかった。



「……私にもわからないんだ。だから、もう一度やり直すために、この過去を生きているんだよ」


 美咲先輩はポツリとそう呟いた。


 風が少し強く吹き、彼女の髪が揺れる。彼女がこの世界に存在しないかのような透明感が漂っていた。


「でも、あなたには関係ない話だから、気にしないで」


 彼女はそう言って、自嘲気味に笑った。


 俺は、その笑顔が遠い存在に思えて、ドキっとした。彼女は本当に冗談を言っているのか? それとも本気で未来から来たと言っているのか?


「先輩……本当に冗談ですよね?」


 俺はもう一度確認したくて、そう問いかけた。だが、彼女は返事をせず、ただ意味深な笑顔を浮かべただけだった。


「どうかな……」


 彼女は、そう言い残してその場を去っていった。


 俺はその場に立ち尽くし、彼女の背中を見送った。彼女の言葉が本当なのか、冗談なのか、未だに分からないままだったが、何かが胸の中で引っかかっていた。


 もしも本当に、彼女が未来から来たのだとしたら……。


 そう考えると、俺の胸は締め付けられるような感覚に包まれた。


 彼女が失った人って、いったい誰なんだろう。彼女の言葉には、何か深い意味が隠されている気がしてならなかった。


 風がまた強く吹き、俺の髪が揺れる。


 美咲先輩の背中は、すでに夕日の中に溶け込んで消えていた。

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